見出し画像

小さな男の子にコミュニケーションを教わる童貞


「ああ、モテる男とはこういう人を指すのか」と有無を言わさず納得させられた出来事があった。
 
帰宅のために停留所でバスを待っていた夕暮れ時のこと。同じくバスを待つ列の中に、ある親子がいた。保育園帰りだろうか。若いお母さんに、年中くらいの男の子。お母さんはよっぽど疲れていたのだろう。周囲に聞こえるほどの大きなため息をつきながら、

「ああもう疲れた。何もやる気起きん。何にもしたくない。」

とこぼした。すると男の子はすかさず、

「ゆうごはんてつだう!」

と威勢よく言った。お母さんは、この可愛くも頼もしい一言に感謝の意を伝えるでもなく、ただただ平板な口調で、

「いや~、もうカップラーメンでもいい?」

と男の子に尋ねた。「お母さんとて手を抜きたい日はあるよね」と同情を感じながら、男の子が何と答えるのだろうと待った。すると男の子はあまりにも自然な調子で、

「いいよ!ちょうどメンたべたかったし!」

と答えた。男の子が本心を述べたかは定かではない。しかし、答えとしては完璧な答えだった。お母さんに罪悪感を抱かせないだけでなく、その自尊心を保たせることに成功している。

この答えに、いたく感動した私は、男の子が立派な青年に育つ未来を勝手に想像して、勝手に発情した。しかし当のお母さんは、男の子の返答に特に感動するそぶりもなく、

「じゃあカップラーメンにしよう。」

とだけ答えた。お母さんのこうした様子から、男の子が日常的に先のような“モテアンサー”をたたき出していることが伺われた。と同時に、どうしてこの男の子と私とで、こんなに差ができてしまったのだろうと悲しくなった。私が彼くらいの子どもだったらきっと、

「やだやだ。ハンバーグたべたい!」

と駄々をこねては、母親をさらに疲れさせていたに違いない。しかも、散々我がままを言った挙句、料理の手伝いもしなかったことだろう。駄々だけこねて、ひき肉はこねない。全くとんだクソガキである。そのクソガキがそのまま大きくなったのが、私というクソ童貞である。童貞であるのも必然であるとしか言いようがない。

しかし、ふと不思議に思った。かたや未来のモテ男、かたやクソ童貞、彼らを歴然と分けたのは何に要因があるのだろう。そう考える中で私が注目したのは、男の子に対するお母さんの反応だった。このお母さんは、必要以上に男の子を褒めたり、大きなリアクションをとったりせず、フラットな調子でコミュニケーションをとっていた。仮に、男の子の「ゆうごはんてつだう!」という言葉に対して、お母さんが「えらいね~」などと褒めたりしたらどうだろう。男の子は今度からは、お母さんを心配してではなく、お母さんに褒められるために同様の言葉を発するようになるのではないか。そうするとその言葉には、どこかあざとさのようなものが透けてみえるようになるだろう。

そうすると、母と子のコミュニケーションが私と例の男の子との差を生んだのだろうか。確かに思い返せば、私は母とうまくコミュニケーションが取れていなかった。母親はヒステリックな人で、機嫌が良い時と悪い時との差が激しく、しかもそれが表情からは読み取りづらかったので、私は母親に対して自分からアクションをとることを避けていた。下手に動いて、母親の地雷を踏むことが怖かったからだ。このような母親への接し方が、現在の女性関係における私の積極性のなさにつながっている点はあるのかもしれない。

しかし自分でこのような仮説を立てておきながら、そうは思いたくない、という自分もいる。というのも、モテない責任を母になすりつけているみたいで心苦しいからだ。「孫の顔を見せて」という期待に当分沿えそうにないので、せめて親には敬意と謝意を示したい。

そのためには、うまくいかない女性関係を何とかせねばならない。手始めに男の子に倣ってコミュニケーションスキルを磨こうと思う。小さな子どもから学ぼうとする姿勢。もうこの時点で十分かっこよくないでしょうか。誰か私の童貞をもらってください。
 

この記事が参加している募集

スキしてみて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?