見出し画像

握る手も見つからず今日もムスコを握る

 
 「どうして私には彼女ができないのか。」
 
そのことを痛切に考えさせられたエピソードをご紹介する。

 1年ほど前、私が働きながら学校に通っていた時のこと。授業終わりの帰り道、前方に男女2人のクラスメイトが見えた。「お疲れ様です。」と声をかけようとしたその刹那、私はあることに気づき、出しかけた声を急速に吞み込んだ。なんと、その2人が手をつないでいたのだ。私はなぜかとっさに身を隠してしまった。「え?あの2人デキてるの!?」。私はとても驚いた。というのも私が見る限り、その2人はクラスでは特別仲が良いというふうには見えなかったからだ。しかもその時期は、入学から3か月。互いに初対面の相手とそこまで関係が発展するなんて信じられなかった。

 そして冷静になると、とっさに身を隠したことに対して、腹立たしさが込み上げてきた。「なんで俺が隠れなアカンねん。そんなんは、もうちょい学校から離れたとこでせえや。」(誰がどこで手をつなごうが自由なので、何ともみっともない怒りである…。)。

 そこからの帰りしな、私は考え込んでしまった。私が望んでも、努力してもできないことを、あの2人はいとも簡単にやってのけた。2人だけではない。周りを見ても、いとも簡単に彼氏や彼女をつくる人がいる。そんな人たちと私とで何が違うんだろう。なぜ彼らにはできて、私にはできないのだろう。

 こうしたことを考えるのは、この時が初めてではない。過去に何度も考えた。そして、そのたびにある一つの結論、というか仮説に辿り着く。「恋愛の成否は、その人が育った環境に大きく影響を受けるんじゃないか?」と。
例えば、互いへの愛の言葉やスキンシップが日常茶飯事の両親のもとで育った人間は、そのようなものが希薄な両親のもとで育った人間よりも、どのように相手に愛を伝えるかを知っているだろう。また、姉がいるなど、女性の力が強い家庭で育った男は、女性の心をケアする術を、そうでない家庭で育った男よりも知っているだろう。現に恋愛のできない私は、両親がスキンシップをしているところや愛の言葉を伝え合う場面を一度たりとも見たことがないし、家庭のパワーバランスは、父>長男(私)>母>妹である。

 このように考えると、恋愛に興味を抱き始める思春期の段階ですでに、恋愛力のようなものに差がついていると言えそうだ。とはいえ、これは何も実証されていない仮説にすぎないし、恋愛ができない理由を自分に帰さないための都合のよい方便かもしれない。

 いずれにせよ手をつないでいたクラスメイトに備わっている力が、私——握る手もなく仕方なく自分のムスコを握る私——には、備わっていないことは事実である…。

この記事が参加している募集

スキしてみて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?