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#ほぼ日の塾とわたし

楽しかったより、悔しかったという方が、
あの時期の気持ちを表す言葉としてはあっている気がするけれど、
それでもやっぱり楽しかったと言いたい、
僕にとって「ほぼ日の塾」はそういう場所でした。

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ほぼ日の塾には2017年の2月から6月、
第3期生として参加しました。

大学生の頃から読んでいたほぼ日のことを
知ることができるなんて楽しそうだと思った、
というのがいちばんの動機です。

参加してよかったかどうかについては、
全力でよかったと叫べます。

課題は大変だったし、毎回悔しかったし、
結局、書くことが何かわからなくなったけれど、
それでも、これからも書いていきたいと思えた時間でした。

自分が何を書きたいのかとか、
ほんとうにそれは思っていることなのかとか、
そういうことを考える時間が
面白いと思えるようになりました。

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もうひとつ、
ほぼ日の塾のよかったところは
同じように悩む友達がいた、というところです。

課題は全員分が一気に公開されるのですが、
公開されたページにならぶ、ひとつひとつの文章を読んで
すごいな、とか面白いな、とかの前に、嬉しくなるんです。

何を書くか、この書き方でいいのか、
書きながら1人で悩んだ深夜のカフェ。
ほとんど変わらない行数の上をいったりきたりしながら、
音楽を聴いてみたり、歩き回ってみたり。

それはやっぱり寂しい時間でもあって、
書くことの孤独感のようなものを少し感じていました。

でも、課題が公開されたとき、
僕が1人だと思っていた時間に、
同じように1人で書いていた40人がいることを知るんです。

朝日が昇って周りが明るくなって
暗闇の中で感じていた孤独が一気に消えていくような。

過去の感情が上書きされていく、
あの時間がすごく好きでした。

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と、これだけ書きながら、ほぼ日の塾のことを
「楽しかったと言いたい」なんて表現しているのは、
それがまだ僕の中で続いているからなんだと思います。

あの時の塾で受け取った
なんだかわからない種のようなものを、
周りの友達のそれと比べたりしながら、
どこに植えようか、とか、
水ってどれくらいあげればいいのかな、とか
迷ったり話したりしながら過ごしている、
そんな感じがするんです。

そして、いつかその種から芽が出て花が咲く時はじめて、
過去のいろんな気持ちが上書きされて
楽しかったと、言えるような気がします。

それまでもうすこし、
着地点のわからない面白さを悩みながら楽しみながら、
ほぼ日の塾に参加したことがある人生を
続けていこうと思います。

読んでいただき、ありがとうございました!