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「楽しければイイじゃん」「もっと楽しい」はその先にある

「noteを書く・読む」動機は様々ですが、4年間使って見えてくるのは「楽しい」だけの方で長く書き続けている方は2割ほどです(自分調べ)。長く続ければ良いとは思いませんが、継続はSNSを上手に活用する鍵だと思います。楽しいの先にある「もっと楽しい」について書き残しておきます。

池松潤(いけまつ じゅん)
恋愛小説家/ サイボウズ式第2編集部 / アウトプットLAB 情報発信学 SNSコーチング ※登壇・イベントなどは ⇒ コチラ

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1:所詮ツール、されどツールの理由

・SNSプラットフォームは脳科学・心理学で作られている
ほとんどのSNSプラットフォームは「何回も来てほしい」「長くいてほしい」「たくさんのヒトに推奨してほしい」と思っています。SNSプラットフォームは人間の脳がどのように反応するか?考えて作られています。例えば、誤解を恐れずに言えば「noteのポップアップ」は自動「ほめ殺し」装置と言い換えることができます。ホメられて気分の悪い人はいません。ホメることで「書く気」を高める。そして好循環が始まるように設計されています。

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どんなビジネスモデルにしても「数」は大事です。「数」は事実だからです。そのSNSの「何がいいのか?」は使ってみないと分かりませんが、ほとんどの人は「数字」に目がいくからでしょう。投資家、評論家、ビジネス・アイドルなど、著名なヒトが「どう言ったか?」は「数字」とセットで語られる事が多いと思います。SNSは「体験」で構成されていますが、その体験を表すのが「わかりやすい数字」となっているのだと思います。


2:SNSを使うヒトの脳内構造

noteを使っていて「誰にも読まれなくて良い」という方もいらっしゃると思いますが、多くの人は「以下の欲望」のうちのどれか、少なからずあるのではないでしょうか。

欲望・その1:せっかく書いたら読んでほしい
欲望・その2:読んだら評価してほしい
欲望・その3:評価されたら繋がりたい

欲望と書くと否定的に聞こえるかもしれませんが、人間であれば誰しも欲望はあるものです。その欲望をコントロールしようとするかはヒト次第だと思います。この欲望を喚起されるように出来ているのがSNSなのだと思うのです。まぁSNS側もボランティアでやってるわけではなく、ビジネスなので当たり前なのですけどね。※SNSがどのように収益をあげているのか観察することが大事だと思います。


3:渋谷駅前交差点の寂しいと山奥の寂しいは違う

前述の欲望とは違うものが「寂しさ」だと思います。私はそれを「心のすき間」と呼んでいるのですが、それは「寂しい」にも色んな種類があるからです。例えば「人っ子一人いない山奥の寂しい」「渋谷駅前交差点で一人で感じる寂しい」はまったく様子も質も違うからです。

・SNSは心のすき間を埋める産業
SNSプラットフォームの「何回も来てほしい/長くいてほしい/人に推奨してほしい」構造は別の角度から見ると「心のすき間を埋める」ように出来ているように感じます。「心のすき間をインスタントかつレトルトに埋める」ことは、麻薬患者に麻薬をさらに追加するようなものではないでしょうか。これは表面的に「寂しいヒトを救う」ように見えますが、実は「寂しいヒトをさらに寂しくする」機能なのかもしれません。


4:「もっと楽しい」はその先にあると思う

・楽しいに飽きたヒトの理由
わたしがnoteを書き始めた4年前に非公式noteオフ会や、note酒場で出会った方で現在でも書き続けている方は2割ほどでしょうか。そしてnoteを盛んに書いていてnote編集部にピックアップされて一躍著名になった方でも現在は全然更新していない方も多いと思います。つまり何らかの事情で書く事をやめてしまったわけです。わたし的には「長いお休み」と思って再会を願っていますが「アウトプット」ほど継続が難しいものはありません。なぜならば「楽しい」だけでは継続は難しいからです。まぁ別に長く続ければイイとも思いませんが、アウトプットは継続こそ自助努力できることだと思うからです。承認欲求が満たされたのか。それともライフステージ・チェンジしたからか。書く事を止めしまう方が多いのは事実だと思います。

・消費されるのか、ゼロイチを生み出すのか?
書き続けている方を眺めていると、単に粛々と書かれている場合もありますが、その人なりに「ゼロイチ」を生み出している場合が多いように思えます。それは自分・挑戦記のようなものなのかもしれません。消費されるコンテンツを書き続けることは身を削ります。発電できる何かを生み続けることは容易ではありません。だからこそゼロイチの何かを生み出し続けることが大事なのだと思います。匠の技の追求に終わりが無いように、何かを生み出すことも終わりが無いのだと思うのです。


5:所詮ツールされどツール

・文章カラオケ全盛の時代
ほぼ日の糸井さんがnoteの盛り上がっている様子をみて「文章カラオケ」と評されていたのが忘れられません。つまり誰もが文章を書いて発表できるようになったのは、音楽に例えるとカラオケで誰もが熱唱して聞かせることができるようになったけど、それでコンテストに出てプロになる人もいれば、大半のひとは青春の1ページで終わる。だからnoteで書いている人はどうなるか楽しみだ。というような事を書かれていたのです。これは本質を突いていて衝撃的な文章でした。noteを書くことはやがて文化になるのかもしれません。

—【文章カラオケ】に飽き足らない人—
ぼくが高校生のころにエレキブームというものがあった。バンドを組んで、素人が演奏するのが流行したのだ。それまで、音楽とは楽譜や楽典であって、音楽の先生から習うものだくらいに思っていたものが、「楽譜?んなもん知らねーよ」というような、勉強の嫌いな若い人が勝手にがんがん弾き始めた。教室からでなく、街から音楽が湧き出ていった。そうだよ、「音学」じゃなくて「音楽」だよ。当時の若い人たちの間に「習いごと」としての音楽でなく「モテるための遊び」の音楽が一気に広まっていった。あんなふうに文化というものができていくということを、ぼくは渦中にいて経験できたような気がする。そして、「モテるための遊び」の真剣さを、どんどん突き詰めていった人たちは、音楽家になった。「ちょっとやったもんだ」の人たちは、聴き手になった。インターネット以降の「ことばを書く」という行為は、あのエレキブームのときのギターに似ているように思う。ケイタイやらスマホの画面で親指をすべらせて、どんどんどんどん「文」が生み出されている。あの当時のエレキ音楽のように街から湧いてきている。人をうならせる「書き手」と、「読み手」が、街から生まれているとも言えるだろう。いまの「文章カラオケ」に飽き足らない人が、この先、どういうたのしみをつくるようになるのだろうか。
https://www.1101.com/home.htmlより引用


4年前に今日の自分は想像できませんでした。だからnoteを書くときに考えるのは「今日アップしたものは3年後、5年後に読み直せるだろうか」ということです。

「情報は情けに報いる」と書きますが、なんらかを生み出してGiveできればいいと思って今日も試行錯誤しています。ではまたnoteでお会いしましょう。


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