見出し画像

1億人・総クリエイター時代の #恋愛小説 はビジネスマンこそ必要だと思う話

私は「ひとこと」でサマるのが苦手です。SNSの「ひとこと」は広告のキャッチコピーとは違ってクライアントの事ではなくて自分の事だったりします。誰もが情報発信できるし繋がることもカンタンになって情報は溢れて無意味に忙しくなって3か月前の事など誰も覚えていません。親が死んだことさえ忘れてしまう人もいそうな勢いです。そして日経新聞電子版を見るとThink!ってコーナーでは「ビジネス著名人のコメントが読める」っていうニュースピックスの後追いのような企画はオリジナリティのかけらも感じないし、閉塞的な社内事情が垣間見れる気がして「古い企業でアイデアや企画を発揮するのは難しいのかなぁ」と心配になります。余計なお世話でスイマセン。こんな書き始めだと、あんた何を言ってるんだ?と思われても仕方ないメモなんですけど、この機会に綴っておきたいと思います。3年後に読み返したいので、3年前に書いたnoteと共に置いておきます。これは処方ではなくて指針のメモ。9千字を超えてました。時間のある人だけお読みください。


画像1


・たくさん作って、たくさん売って、たくさん捨ててきた

もう「マーケティングがぁ~」とか「ブランディングがあ~」とかいらないです。それって30年前のハナシですよ。まぁマーケでも一流なら創造力があるけど、だいたいの人は創造力が足りないワケです。

沢山買ってもらって、沢山捨ててもらって、何も残らなかった。
広告って「広くに告げる」と書きますよね。消費者って書くのはモノを売りたい製造業の視点であって、「消費してもらう」ために「買ってもらう」ように「広くに告げて仕向ける」ことです。消費してもらうためには、捨ててもらわなければ家に入りません。ほとんどの家はちっちゃいから。だからドンドン捨ててもらって、捨てたくなるようなモノを買ってもらう。「いつかはクラウン」とか見栄をくすぐって買ってもらう。あの手この手を駆使してどんどん買ってもらって、結局何か残ったのか?メルカリに出しても売れないプラスティック用品みたいなゴミが残っただけだった気がします。1980年代~2020年で「趣」(おもむき)のある「いいなぁ」って「モノ」がどれだけ家に残ったでしょうか。そりゃ少しはあるかもしれません。Apple Macintosh SE30 とか初代ウオークマンとかお宝ものってありますけど大量生産した殆どはゴミになったのではないでしょうか。寺社仏閣のように1000年経っても「いいなぁ」ってのは無いと思うのです。1980年代~2020年で大量に作ったCMも忘却の彼方へ行ってしまいました。たまにyoutubeに残ってるCMからノスタルジーに浸っても何か生まれるという事は起こりません。広告は文化でもありますけど「何やってたんだろうね」という気もしなくはありません。

大量生産・大量消費の主役「大手製造業」が広告の太客だった。
90年代の自動車産業の広告販促予算は1車種年間700億円くらい。日用品メーカーや飲料・食品メーカーは年間100~300億円の広告・販促予算を使ってました。今では信じられませんね。広告代理店にとって一番儲かるのがテレビCMを流す「媒体枠」です。「提供は●●がお送りします」という番組提供枠や、00分~02分、58分~00分に流れるスポットCM枠は、販売手数料として12.5%~15パーセントoverが入ります。例えば3000GRP(視聴率を足し上げる、つまり累積視聴率のこと)のスポットCMだと1%あたり単価が関東で約8万円だったので2.4億円(売上)になります。その15%ですから3千6百万円の利益が入るわけです。それに対してCM制作は頑張っても3~5千万円の売上。収益率15%としても750万円の利益ですのから媒体取引とは比較になりません。しかも最大手の広告代理店の場合は年間の特別キックバックが放送局からボーナスで1000億円が支払われる(純粋な利益額)ので、その防衛のためならCM制作なんて無料でもイイからソコ!守れよ!って時代でした。太客である製造業も「大量販売にはテレビCMが必須」でそのための企画は欲しいけど媒体枠を買うから色々セットで面倒見てよ。あとさぁ、建前と本音のグレーゾーンもあるから色々細かいことも一切合切面倒見てねだってこれだけ払ってるから当たり前でしょってことだったのです。これを超える一発大型商談のある世界は、土建業界か飛行機か大型コンピュータ業界くらいなもんでしょう。その類いでは広告ビジネスは一番ソフト産業に近かったわけです。

製造業は「企画」や「クリエイティブ」に払わなかった。モノにしか払わなかった。
「サービスは無料」が常識。富士通がコンピューターのハードを売るためにシステム構築を1円で請け負おうとして「1円入札」が話題になる時代でした。「サービスしておきます」は「タダにします」と同じで「サービス=付加価値」という概念はありませんでした。

製造業はモノを作ってナンボです。その強みは「モノ」ありき。「モノ」はソフトが入らなければ「ただの箱」ですけど、ソフトで儲ける方法は苦手でした。激儲かってたのは任天堂とかプレステぐらいでしょう。でね。誰にでも「得意・不得意」があるように「強み・弱み」があります。製造業のほとんどは「改善」や「リサーチ&デベロップメント」は得意でしたが、ソフトや企画は苦手な場合が多かった。「イイものさえ作ってれば売れる」という思考様式が色濃かったのです。それは彼らのプライドから由来してたのだと思います。「お前とは違うんだぞ」という意識です。

だけど企画を考える時に行き詰まると広告会社が呼ばれます。業者として呼ばれるのではありません。魔法を起こしてくれる人として呼ばれるワケです。まぁ「(いつもカネ出してるからさ)面白い案考えてよ」と暗黙の了解もありました。「企画費」や「コンサルティング費」が貰えるようになったのは随分あとになってからです。外資系クライアントから「媒体をまとめて”おたく1社だけ”から買うから手数料を(ガラス張りにして)もっと割り引いてよ。変わりに企画費はフィー制度で時間単位で払うからさ弁護士とか企業コンサルみたいにさ」ってなったのですが、それは外資だけでした。なぜならば「今までグレーゾーンもあるから色々細かいことも一切合切面倒見てね」ってやってた国内企業の宣伝部からすれば「まずいな。色々自分でやってるフリして広告代理店にやらせてたの社長にバレちゃうな(社長は知ってるけど)オレ働いてないのバレちゃうじゃん」ってことだったのです。まぁ元々ろくでもない業界ですからね。「押し売り・不動産・広告はお断り」って表札が家の前に立ってた時代があったくらいです。ということで広告業界には黒船はやって来ないのでした。

国内企業の社長は外資系コンサルのマッキンゼーやボストンコンサルティングへフィーを払う事はあっても、企画やクリエイティブという「無形資産」にお金を払う商習慣はなかなか生まれませんでした(ほんの一部にはありました。例えば”タグボート”とか)でもね。それは空気を読むのが得意な日本で「士農工商・代理店」と言われるほど低い身分イメージの出自だったのが大きかったんだと思います。理屈じゃないんですよ。「みんなが言ってるから」「そういうイメージだから」って風潮は今でも続いている感じがします。予定調和を好み、同調圧力が強めが多数派な土地柄なので仕方ないのかもしれない。モノありきの商習慣はいまだに根強いのは、この国60~80年代の「成功体験」から来ているのだと感じます。なお余談だけど、SNS界隈で言われがちな「何者であれ」の源流もこの辺から始まっているような気がします。

テレビCM黎明期。銀座通りのビルに入っている企業に片っ端から「テレビCMいりませんか?」と営業をしていた大先輩は「テレビならあるよココに!」とハードのテレビを指さして言われたぎゃふんな時代。その会社は銀座四丁目交差点そばパンの「木村屋」。まだハードとソフトの違いなど誰も気にしていない時代の頃。その大先輩が取締役なわけで人の関係が急に変わるわけがない。広告会社の地位が向上するのは「マーケティング」というなんだか分からないマジックで売れるようになるってイメージが醸成された80年代終盤〜90年代初頭バブル期からでした。


・スティーブジョブスやイーロンマスクのような天才でなければダメなのか?

ジョブスはソニーのウオークマンをお手本にしていたと聞いたことないですか。イーロンは知らんけど。どっちも天才肌ってことですが会ったことは無いので知りません。アイデアや企画をビジネスにするって天才じゃなきゃできないんですかね?私はそうは思いません。それって「魔術だから」って騙されてるのに近いと思うからです。先行する側からすれば「魔法じゃ」「恐ろしいたたりじゃ」って悪い新興宗教のように信じてもらった方が都合がいいじゃないですか。伝説ってそういうところから流布されると思うのです。逆の視点で考えるトレーニングをいっぱい積んできたので「有名」とか「大きな」とか「凄い」ってイメージには騙されないタイプです。そういうの特に欧米人は得意なのは体験から得た知識かもしれません。

テスラがトヨタの時価総額を超えたのはなぜか?を読み解く。
乗ったらわかるのは「i-padに4輪ホイールが付いてる感じ」だと思うんですよ。テスラってトヨタみたいに「馬力」とか「居住空間」とか「ゴルフバックがトランクルームに何個入る」とかって軸で競争してませんよね。まるでアプリのように「体験」という「無形資産」を売ってるわけですよ。しかもバッテリーをコントロールするソフトをアップデートするからサブスクのような契約までついている。Adobeかよ!って感じなわけです。この辺が「え?」とか「は?」なビジネスマンはこの先読んでも伝わらないかもしれない。ごめん。テスラは「自動車を再定義」してるのではありません。エネルギーや生活を再定義しているわけです。

【再定義とはなにか】
●トヨタの使命は「未来のモビリティ社会をリードし、人々を動かす最も安全で最も責任のある方法で世界中の生活を豊かにする」こと。
●テスラの使命は「持続可能なエネルギーへの世界の移行を加速する」こと。
●トヨタは伝統的な自動車会社だが、 テスラはそうではない。
●テスラはレシピをトレードしているのではなく、持続可能性を強化することを目的として、食事プラン全体を再設計している。

トヨタ中間決算での豊田章男社長の発言に「テスラを理解していない」という指摘。より引用 ←この記事は読むとわかりやすい・おすすめです。


「体験」という「無形資産」が世界を再構築する
というわけで。既存の概念で測ることは筋違いなわけです。私は30年前に「Eメールって何がイイんだ?」って聞かれたのを思い出します。「1秒で届くハガキです!」って答えときました。だってEメールのCCやBCCやメルマガの概念を説明しても無理。ハガキしかイメージできない上司にどんだけ丁寧に説明しても、体験したことがなければアカンなと思ったからです。テスラも似たような感じがしました。だから今でも「体験」が何よりも大事だと思ってます。可能な限りまず自分で「やってみる」(体験する)ようにしています。そこで重要な概念が「無形資産」です。個人ではネットフリックスとか無形資産にお金を払っても、会社になると支払わないのは何故でしょう。過去の前例主義から由来しているからでしょうか。言うまでもないですが、これからは「体験」や「無形資産」にこそ活路があるのに、いまだに工業化時代の思考様式のままな人は沢山いるわけです。年齢に関係なくいる。これは「最先端を走れ」ってことが言いたいんじゃなくて、「時代は変わってる」よ。結構「変わってきてる」よ。ってハナシなだけなんですけどね。

「体験」は「記憶」の中に宿る
「聞いただけ」とか「読んだだけ」の受動的では体験化しません。「やってみた」「おもしろかった」「すごかった」って「体験」は「記憶」に残ります。だから消耗戦にならない。記憶に焼き付いて「行動が変わる」まで行ってはじめて意味が出てくるのではないでしょうか。前世紀はモノの時代でしたから「神は細部に宿る」が大事で、今世紀は「体験」は「記憶」の中に宿るのだと感じます。


・物語が人生(や世界)を変える

『サピエンス全史』には「虚構」の共有こそホモ・サピエンスと「それ以外」の種には明確な差であると書かれています。虚構とは「実際には存在しないモノ」つまり「神様」とかです。その結果「伝説」「神話」「宗教」が生まれました。伝説を共有する人々の間で、「協力し合う」が生まれました。ネアンデルタール人たちが20〜30人でしか協力できなかったのに対してホモ・サピエンスは「神話」「宗教」を共有することでより大きな範囲で協力が可能になりました。「虚構を語る」つまり物語を語ることで、ホモ・サピエンスは他を圧倒する力を得たのです。

ゼロイチをつくるイマジネーションは絵空事なのか?
お金も電子マネーもある日いきなり使えなくなるかもしれません。日本では想像しにくいでしょうけど非常事態のミャンマーならどうでしょう。イメージすればわかるのですけど電子マネーこそ「目に見えないけれど存在している」と信じている証拠でしょう。つまりSuicaの「向こう側」に複雑なコンピュータ制御システムとか安全管理があることを信じているわけです。これがホモ・サピエンスの特徴です。ホモ・サピエンスではないネアンデルタール人は「目に見えるもの」だけしか認識できません。ネアンデルタール人にSuicaを渡しても何に使うかわからないでしょう。だって説明しても理解できない。そもそも「お金」という存在自体が「幻想」だから。

では作曲・作詞・小説執筆・建築デザイン等はゼロイチで生み出すものですけど、カタチになる前は「頭の中にある設計図」(幻想)であってカタチは見えません。でも大賞受賞者は肩書から「頭の中にある設計図」(幻想)から「たぶん作れるはず」とか「たぶん凄そう」って思うわけです。本当にすごいのが出てくるのかは誰にもわかりません。ではそれは絵空事なのでしょうか?「それは結果だろ」っていう人もいますね。特に直線的なイメージしかできない人に多いです。べつにプロセスが大事とか言いたいのじゃなくて「目に見えるものしか信じていない」ってことです。前述で「ホモ・サピエンスは「神話」「宗教」を共有することでより大きな範囲で協力が可能になりました」と書きました。協力(チームワーク)は能力を見極めて信じるところからはじまるのだと思います。

会社のシゴトで冒険ができますか?
問題は能力を信じて賭けることが会社組織でやり難くなったということです。「前例はあるのか?」「失敗したらだれが責任を負うのか?」という失敗はしたくない奴いますよね。昭和時代は「骨は拾ってやるからやってみろ」と言われたものです。まぁ。「昭和は遠くなりにけり」で遠い過去のことです。「スキル」や「能力」は「言語化」されないとダメとか、「エビデンス」(証明)が無ければ認められないとか、そんなの増えましたね。でもさ。そんなんで新しいものが生まれるわけ無いじゃないですか。あなたは「会社のシゴト」で冒険ができますか?できないから「挑戦」はこじんまりやってる派ですか。それで自分の人生を生きてる感じはしますか。まぁ。家族のためとか色々事情はあるから責めてるのではなくて、構造が「挑戦」を阻んでいるのだと思うのです。

「モノよりコト」って言ってるだけの30年だった
私の世代から執行役員・取締役・社長が出るようになりました。大企業の30年を振り返ると「挑戦したひと」は組織には残らず、出世したのは「挑戦したふり」か「挑戦しなかった」人が多数な印象をうけます。「正直者はバカを見る」とか「戦争はズルく悪賢いやつが生き残る」ってのと似ているのかもしれません。これは世界共通でしょう。この国の革命は明治維新だけだったのもわかるような気がします。「和」ですからこの国は。構造を論じてもあまり興味は示されません。それは文化に紐づいているのからだと思います。では、掛け声だけで何もしなくて個人は幸せになるのでしょうか。まぁ「自分だけ良ければいい」とか「損得勘定」だけで幸せになれるとは思えないんですよね。ここまで読んで頂いている皆さんは分かってるだろうけど。


・「恋する感情」がパワーアップさせる

オトナは仕事か恋でしか変わらない
変わりたいけど変われない。でも会社に言われたらやる。恋ならやれる。それって「いい意味での個人主義」が育まれなかったからだと感じます。(Individualって言った方が伝わる気がする)

ドラえもん「どこでもドア」は恋から生まれる
イマジネーションやゼロイチを創造するのはドラえもんだけではありませんん。「恋する感情」の時は、組織の論理から逃れて才能を開花させられるタイミングだと思います。「恋する感情」とは欲望を全うするためだけにあるわけではありません。より良く生きるための「心のビタミン」のようなものです。夢や希望を論じても難しい時期には「恋する感情」が大事です。恋こそイマジネーションを創造するのだと思います。

再構築には空想を超えた妄想が必要
空想とか妄想は工業化社会では害悪のように思われていました。しかしこれから再構築には空想や妄想こそがカギとなってきます。ベストセラー本の山口周さん「ニュータイプの時代」にも書かれていますが、課題解決から「正解を出す力」にもはや価値はなくなりつつあって、やり方も思考様式も大きく変わりつつあります。その時に一番頼りになるのが「空想」や「妄想」のスキルだと思う。「恋する感情」をエクササイズするのが、ビジネスにも役に立つと思うのです。

・「どこにもない企画がほしい」は給与に反映されない。

会社のビジネスモデルの寿命が尽きてくると、「上手にやってほしい」は「整合しない不整合を知恵やチーム力で上手に乗り越える事」から「嘘をついてでも都合よくやってほしい」に変わってきた感じがします。隠ぺいは「上手くやっておいて」から始まる。「DXしなきゃ」とか「どこにもない案もってこい」とかいうヤツほど給与に反映しない感じがします。だって収益モデルが壊れているのに無理筋ってもんでしょう。ダメに何をかけてもダメ。ゼロに何をかけてもゼロはゼロ。と一緒です。

無形資産を評価できない組織は「社会で演じる役割」を終えている
目に見えないものを信じない。モノにしかカネを払わない。終わってるのはその会社の思考様式でしょう。それは過去の成功体験から生まれるワケですが、その成功体験を否定されると行き場所がなくなってしまう。そういうトップや上層部がいる組織は生まれ変われません。静かに退いてもらいたいものですが、残念ながら結構長生きしたりします。夢も希望もないハナシなんですけど経験則から言うと10~20年くらい持ったりします。だから無難な方がいいわけです。

「うまい具合にやっておいて」は、ズルい奴ほど生き残るやつ
個人も同様です。私の世代だと「お葬式」で同級生や会社員時代の同期に出会うことが多くなるのですが、黒塗りハイヤーや秘書を連れてくるのは「若いころに未来を嘱望されたキラキラと輝いていたやつ」ではなくて、往々にしてそうではなかったやつだったりします。若いころに優秀と言われていたやつほど実家に戻ったり、自分の道を進んだりしがちです(すべてとは言ってない)「いい奴ほど早く死ぬのが戦争」と似ているなと思います。だから「挑戦」をむやみに勧めたりしません。

困ったときのお互いさまがあなたの組織にありますか?
悲観的なことを書き続けましたが、ネガティブな事もしっかり書いておこうと思いました。だってオンラインサロンとか新興宗教的な感じのハナシにしたくなかったので。しかし最終的には「おたがいさま」の感覚がチームにあるかだと思う。悪しき「株主至上・資本主義」(の四半期決算的)な短期的視点ではなくて、長期的視点が「よりよき人生」を育む「器」(チームや組織)に大事だと感じるからです。


・行動したひとだけが記憶に残る

「理想と現実」って常にありますよね。生きている限り続くでしょう。でも「ああなったらいいな」とか「こうなったら良さそうだな」って思うから未来は広がると思うのです。夢や希望もないときに「微やかな空想や妄想」する元気がなければ生きていくのも難しいでしょう。その元気はどこにあるのか?それは「恋する感情」かもしれないし、「仲間や家族との時間」かもしれません。でも行動しなければ「何」も起こらないと思うのです。

誰の記憶にも残らない人生
生きているって、死ぬときを想像することだと思うのですけど、誰も思い出さない人生ってしんどくないですか?行動しなければ「何も」生まないし、はじまりません。自分の記憶にさえ残らない。誰でも情報発信出来て、繋がれて、課題を解決しまくった結果、誰の記憶に残らない人生って何のために生きているのかって思うのです。死生観とかそんな大袈裟な事を言いたいのではなくて「今を生きる」は「記憶」に残るか行動するかってこと。妄想するかで変わると思うのです。まぁ。こんな時代だからこそ思うのかもしれませんけど。

「0⇒1スキル」は誰にでも身につけられる
まずは行動するのがお勧めです。やってみましょう。書いてみましょう。それから考える。仲間と一緒にワイワイ楽しむ。楽しいから集中力もあがる。化学反応も出るし結果が見えてくる。結果を評価されれば嬉しい。嬉しいから楽しくなる。そういう循環だと思うのです。

長々と書いてきましたけど、つまり「恋愛小説」を書くと「空想」とか「妄想」とかゼロイチのイマジネーションを生むチカラがつくし、それって会社で挑戦とかやるには難しいときでも自分だけでも可能なわけで、これからの時代には(会社員ほど)物語づくりとか、ストリーテリングが重要になっているし、だから「恋愛小説」を書くのってイイよ!お勧めだよ!ってハナシでした。

ココまで読んで頂いた方には感謝しかありません。ありがとうございます。3年前のnoteと一緒に、3年後に読み直してみたいと思います。

では






最後まで読んで頂きありがとうございます! また覗きにきてくださいね スキ♡を押していただけると励みになります コメントをいただけると嬉しいです 感想をツイートして頂ければもっと嬉しいです ありがたいなぁ。よい日をお過ごしください。