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追伸【読者感覚の変化】note7つの傾向

「書く事」は技法以前に、「自由」に書けばいいと思っていますが、本質的には「云いたい事」と「リアリティ」と「視点と構図」の3つが大事だと考えています。そして最も大事なのは、自分が伝えたい「読み手」をイメージ出来るかどうか?。「どうしても伝えたい」という理屈を超えた気持ちは何よりも強いからです。しかし、その「読み手」が最近どうも変化しているように「モヤモヤ」としていました。


【変わる読者】7つのポイントについて で、その概要を記憶に留めておきたくて綴りましたが、その中でも『④読み手の「読書感覚」が変容している』について深堀&追記しておきます。まとまった考えでは無いし、主張でもありません、これは前回に続く「深堀りMEMO」です。




【読者感覚の変化】7つの傾向
①「長文・耐性力」の低下
②「共感」至上主義への道
③「エモい」の底流とは
④ネット空間で鼻につく「不寛容」
⑤「マッサージ器」としての読み物
⑥新読者という「ガラパゴス化」
⑦新読者の増殖は「旧読者」を駆逐するのか?




①「長文・耐性力」の低下

最近は、電車の中で、雑誌や書籍を読んでいる姿を見かけません。特に都会の人は、電車の中でみんなスマホをいじっています。SNSやニュースピックスを見ていると「あの人がこう言ってる。他の人はどう思うのか?」と、覗き見的に空気を読もうとする姿に見えます。つまり「評論の評論」に対して処理する情報量が膨大になっています。この処理に時間を喰われて「沈思黙考」が出来ないのでは?と考えます。

「難しい文章が続くのは苦」というのは、「さっと読む事が出来ない」事態なので、技巧的に句読点で文章を短く切れば「優しい文章」へ変える事でなんとか対応できます。しかし「10行以上の文章は息が詰まる」という「読書感覚」は、圧倒的な長時間利用の「スマホ端末の画面サイズ感」と、「利用状況」から生じています。とすると「スマホ」利用に沿った文章は、そもそも紙とは違った「読書感覚」になるのは当然です。

「スマホがバカにする」と短絡的な事を言っているのではありません。沈思黙考しない状況が多数派を占めると、やがて「読書感覚」も食感のように変容していくのではないでしょうか。「マヨネーズ舌」や「ビールは苦くて飲めない。やっぱり缶チューハイだ」と似たように、読書感覚も変容していくのかと推測します。



②「共感」至上主義への道

「読者目線」の「書き手」の大量発生と、承認される快感へと導く「共感」という言葉は、絶頂の状態にあります。「共感される」ことによって売れる。もしくはフォロワー数が増える。直線的な「目標到達」思考が「善」のように語られています。

むしろ「理解出来ない事」から何かを得る事の方が、自分の幅を広げる可能性は高いのですが、それはこの状態からだと難しい。困難な状況に自ら身を投じる効率性や合理性は無いからです。

気分を害さない、読みなれた文章に包まれる。自分にとって心地よい情報が目に入る環境をフィルターバブルと言います。自分自身の感情的な好みのフィルターでできたシャボン玉の膜に包まれているような状態です。

「多くの人と共有したい」「みんなに役に立ちたい」と美しい言葉を並べていても、結果的に「あなたの世界観」がユートピアで、そこから「はみ出したもの」は受容出来ないという空気が充満しているように感じます。そもそも「理解しえない何か」は、理解できない。そして「エモい」という便利な言葉の底に「何か」が脈々と流れているのではないでしょうか。



③「エモい」の底流とは

『感情が動かされた状態/感情が高まって強く訴えかけれる心の動き』を指すようで、「emotional」を語源に持つらしい。さらに翻訳すると「エモいとは、言葉にし難いが、誰かと感情を共有したいときに使うツール」という事らしい。さらに検索すると、「エモい」自体は感情の揺らぎを表現し、その感情の動きはプラスのときもあれば、マイナスのときもあるそうな。わかるような気分はするけど、理解は多分していない。そもそも「言葉にし難い≠わからない」の感受性が「そもそも論」的に違う。ここに自分の断層がある。

「言葉にし難い」なら根元解決に向かって能動的にアプローチする事が「善」であった自分のような昭和世代には、「わからない」ことを「わかる」と共感するという事態が「感覚的に」受け入れる事が出来ないのだと思う。

これを「ビールの苦みは美味しい」と思うか「ビールは苦くて飲めないから缶チューハイがいい」であるのだと「読書感覚の変容」と言い例えれば、多少は理解が深まるかもしれない。恐れながらも「読書感覚」を「食感」に言い例える事で、少しは溝を埋められれば、その先に可能性があるのではないだろうか。

とはいいつつも、本質的な問題は「エモい」の底流に「不寛容」が潜んでいるのではないかと推測するのです。



④ネット空間で鼻につく「不寛容」

戦後の日本は「利他的欲求」が、社会全体の強みになっていました。名も無い企業戦士が「我が身のことよりも家族やみんなの幸せの為に小さい努力を積み重ねる」。そういう価値観が「善」であり「共通願望」でした。

インフルエンサーを目指すヒトには、そういう動機は見えません。新しいチャンスへの開拓精神、上昇志向、立身出世を強く持っている人が多いという印象です。「何者になりたい」「自分を評価してほしい」それは「コンプレックス」からくる「業の深さ」でしょうか。それとも「シリコンバレー精神」に源流を持つ「開拓者精神」なのでしょうか。

リアルで会ってみてと感じるのですが、自分の中に「原始的な価値」や「美意識」を持って居ない人ほど、「多くの人と共有したい」とか「みんなに役に立ちたい」と耳さわりの良い美しい言葉を並べます。しかし実際に「困難な状況」や、「何か自分と異なる美意識のヒト」と直面した時に、残念なほどの「器の狭さ」を晒してしまうものです。不寛容なのに「寛容」を表したい。「寛容になれないから」寛容を振る舞いたいからかもしれません。

これが、ネットでは判別できない「人柄」であり、「ネット不信派」がネットを全面的に信用できない大きな理由になっています。

その前提として、「頭の良いひとは難しいことを、ひと言で説明できる」事が「素晴らしい事」だという「共通思想」があるからではないかと。情報過多時代だからこそ、ハックしたり、カンタンな表現をする事が「善」という「行動様式」が「思想の断絶」の溝を埋める事を難しくしているように思えるのは、考えすぎでしょうか。



⑤「マッサージ器」としての読み物

それぞれの「興味対象」が見つかるネットの時代には、従来メディアの拠り所としていた「マス層」は既に消滅しています。自分の好きな言葉、耳触りのいい言葉だけを食していける環境は「マッサージ器」に囲まれて過ごす時間なのではないかと思うのです。

読み物は「マッサージ器」であれば「苦い読物」も「我慢を強いられる読み物」も読まれるわけがありません。苦言とは、苦く言うと書く。苦言を呈しても受けいられないでしょう。



⑥新読者という「ガラパゴス」

1部を除いて「エモい」文章の大半は、注意深く観察していると、技巧によって「だれでもわかる内容を、オリジナルな気づきに見せかけている」事がわかります。

それは、技巧によって「問題」から複雑さを削ぎ落とし、理解可能な領域のみを抽出した事にすぎません。しかし、その事には注意が払われない。何故ならば、気分が大事、「エモい」至上主義だからでしょうか。

エモいが多数派になっていくと「だれでもわかる内容を、オリジナルな気づきに見せかけている」事が「正義」となっていくのでしょう。



「新読書・感覚」が多数派になると、「読書感の変化」と共に「悦び」も変化していくのは、ひょっとして世界的に日本だけなのではないかと仮説を立てています。なんとか検証できないか構想中です。




⑦新読者の増殖は「旧読者」を駆逐するのか?

印刷時代には「書き手」は「専門家」が選択した一部の「執筆者」によって構成されていました。しかし「書き手」の民主化とも言えるプラットフォームの台頭は、「読者目線」の「書き手」の大量発生につながり、結果的に「読み手の変容」を引き起こしています。

これがネット空間に象徴される「一部」で終焉するのか?それとも「読書感覚」を一変させる大きなチカラがあるのか?まだわかりません。

恐らく3年~5年くらいの期間でジワジワと「新読者」の数が増えて入れ替わるのではないでしょうか?



■まとめにかえて

ゆっくり書いている途中で、「読書感覚の変容」に一つの工夫が見えてきました。それは「メッセージに良心を加える」事で、新種の「エモい」が書けるのではないかと。「読書感覚の変容」を嘆くばかりでは無くて「オリジナルな様式」を発信して行く事は大事です。

これは小さな一歩ですが、工夫を重ねる事で「嘆く」悲観の時間を過ごすより、意志として楽観的であるためにも「メッセージに良心を加えて行く」時間を過ごして行きたいと考えます。



「四の五の言わずに行動」が大事。そうです。わかってます。新種の「エモい」に挑戦してみようと思います。せっかくコンテストもあるのですから。さてどうなることやら。ここまでお付き合いいただき感謝です。ではまた。


■追伸(2018年5月18日13:40)
—【文章カラオケ】に飽き足らない人—

「ほぼ日」の糸井さん「今日のダーリン」が注目を浴びている。
糸井さん世代でなくても、心に響いた。

「文章カラオケ」を、どんどん突き詰めていく人は、新しい「執筆家」という「コンテンツクリエイター」になる。
「ちょっと書いてみた」の人は、やがて「新しい読み手」になるのだろう。

「思想の断絶」を「柔らかく」「なめらかに」書く事の大事さを考えさせられた。これは、1人でも多くの人が知った方が良いと思う。全文を「ほぼ日」サイトで是非お読みください。下記URL参照を。

・・・・・・
ぼくが高校生のころにエレキブームというものがあった。
バンドを組んで、素人が演奏するのが流行したのだ。

それまで、音楽とは楽譜や楽典であって、
音楽の先生から習うものだくらいに思っていたものが、
「楽譜?んなもん知らねーよ」というような、
勉強の嫌いな若い人が勝手にがんがん弾き始めた。

教室からでなく、街から音楽が湧き出ていった。
そうだよ、「音学」じゃなくて「音楽」だよ。

当時の若い人たちの間に「習いごと」としての音楽でなく
「モテるための遊び」の音楽が一気に広まっていった。

あんなふうに文化というものができていくということを、
ぼくは渦中にいて経験できたような気がする。

そして、「モテるための遊び」の真剣さを、
どんどん突き詰めていった人たちは、音楽家になった。
「ちょっとやったもんだ」の人たちは、聴き手になった。

インターネット以降の「ことばを書く」という行為は、
あのエレキブームのときのギターに似ているように思う。
ケイタイやらスマホの画面で親指をすべらせて、
どんどんどんどん「文」が生み出されている。
あの当時のエレキ音楽のように街から湧いてきている。
人をうならせる「書き手」と、「読み手」が、
街から生まれているとも言えるだろう。

いまの「文章カラオケ」に飽き足らない人が、この先、
どういうたのしみをつくるようになるのだろうか。

https://www.1101.com/home.html
より抜粋・引用



■前回書いたnoteはこちら。


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