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あまたの夢、緑の丘を去りて

 彼は年老いていた。濃いサングラスをかけ、とてもゆっくりと、体をまっすぐに立てて歩いた。顔色は灰色。暑い日にはそれが白茶け、寒さのきびしい日には青ざめた。目が見分けられなないので、両端のぐっと下がった口元がいつも目立った。
 毎日きまった時間に、決まった道を通り、決まった所へ行った。午後早く、黒ずんだ雨跡が見えない蔦の影のようにからみつく建物から出て、旧市街を抜け、間もなくバー《トリストラム》に入る。夕方五時過ぎには《トリストラム》を出て、斜めに道を横切り、レストラン《ファン》に入って行く。
 多分長いこと、彼はそうして暮らしている。くる日も、去った日も、彼が老いてから、という長い間。彼は七十八歳。彼がいつ老い始めたのか、ひとはあまり考えない。彼は老人だから。

 「いや、実際にはそんなに長いことじゃない」
 ある日《トリストラム》のバーテンダーが言った。
 バーテンダーはおしゃべりではない。しゃべる時、かすかな苦痛でもあるように顔をしかめ、口元をゆがめる。とても太っているが、ひとはあまりそう感じない。背が高く、肩幅がとても広いからだろう。
 彼は二人の娘と一人の息子の将来をいつも気にかけている。そして三人の子どもたちはいまも父親を尊敬している。娘たちは二十二と二十、息子は十八だ。父親がぶっきらぼうな素振りでいつまでも細々と世話をやくので、子どもたちもいつまでも世話をやかれたくなるのだろう。
 彼は客に対しても、そんな態度をとる。客が二十歳でも、六十歳でも。いつもバーテンダーには歳がないような気がする。
 太ったバーテンダーは、しばらくして、また言った。「そんなに、長くない。多分、四、五年だね」
 私は考えるふりをしてみる。
「以前にあの人を街で見かけたおぼえはない。ここへ来るようになってからは、時々見る」
 私はうなづく。
 カウンターのうしろで午後八時を告げる仕掛け時計の鐘が鳴り始める。はなやかで、快活で、もろく、透き通っている。騒々しくはないが、ガラスの花がひと息にひらくようにに耳につき、鳴り止んだ後も、しばらくは忘れない。
「ありがとう」私は言った。ウィスキーを少し飲んだ。「ただの興味なんだ」
 バーテンダーはカウンターの中で少しの間、つま先からかかとへ、かかとからつま先へと体重を移しながら、ゆらりゆらりと宙を見つめた。
「わたしも、興味があるよ」
 そして、ゆっくりと別の客の方へ歩み去った。

 およそ、三ヶ月後。
 老人は旧市街の路地でビー玉あそびをしている男の子を見た。秋だった。光がほどけ、古い家並みの背の高い壁が冷たく明るかった。
 男の子は三つのビー玉を持っていた。まずひとつを転がし、それから次のビー玉でそれをねらった。最後に三つ目のビー玉で先の二つを素晴らしい玉突き状態にさせようと、舌先をのぞかせて熱中していた。
 一番目の玉は中型で、深い緑色をしていた。二番目の玉は大きく、透明の中に朱と黃と水色が渦を巻いていた。最後の玉は小さく、淡い淡い草色で、キリキリと光を玉の中にねじっていた。
 男の子は三度失敗し、一度成功した。それから続けて五度失敗し、また一度成功した。この十回は、長くかかった。老人はその間ずっと古い壁のきわを走る下水の、さびた鉄格子の上に立ち、男の子とビー玉の動きを、ゆっくりと首をめぐらせて見ていた。男の子は十一回目にかかる前にちょっと休んだ。そして、自分を見ている老人に気付いた。
 「こんにちは」と男の子は言った。
 灰色の顔の口元がゆっくりと引き上がり、やがて笑みをつくった。奇妙な眺めだったが、本心からの笑みのようにも見えた。
 老人が言った。「こん・にちは」
 その声は細く、少し高かった。若々しさとまぎらわしいような、弾みかずれがあった。男の子は、灰色の老人をずっと前から見知ってはいたが、そんな声をしているとは思ったことがなかった。声は、不思議なものだと思った。
 男の子は誰にでも礼儀正しく、親切にしなければいけないと、いつも言われていた。そして自分が、ほかの子ども達よりも楽々とそう出来るのを知っていた。自分は生まれつき礼儀正しく、親切なのかもしれないと思うほどだった。そうすれば人々が喜ぶのを知っていた。たとえ喜ばない人がいても、自分は正しいことをしているという自信があったから、男の子は少しも傷つかなかった。
「おじいさん、ビー玉はうまいですか?」
 老人は、ゆっくりと首を横に振った。
 男の子はもう一度、深い緑の玉を転がした。玉は古くて不ぞろいな敷石ごとにポコポコと跳ね、あちらこちらへと方向を変えながら遠く転がっていった。男の子はじっと緑の玉の落ちつき先を見定めてから、大玉を指先で軽くつかみ、先の玉を追って転がした。大玉は重く、大きいので、それほどひどくはうろつかなかった。男の子はぎりぎりまで大玉を先の玉に近づけることが出来た。男の子はちらりと三角に舌を出し、淡い草色の玉を、掌の中で静かにゆすった。それから、ちょっと老人を見やった。老人はじっとサングラスを男の子に向けていた。
 男の子は草色の小玉をいきなり、ぱっと放った。それは大きく二度、小さく一度跳ねとんで、カチンと冷たい音を立てて大玉に当たった。大玉は静かにごろりと転がり、コチリとかすかな音で深い緑の玉を押した。
 三つのビー玉が路上に、三つの小さな光のリボンと影を落として並んでいた。
「おじいさんは、どうしてサングラスをしているの」
 老人は口元を水平になるくらいまで引き上げ、またゆっくりと下げた。
「目がひきつるからだよ」
 老人はサングラスを外し、じっと男の子を見た。サングラスを外した老人の顔はいっそう老い疲れて見えたが、ずっと柔和だった。その目は色が薄くて不思議に明るく、深かった。けれども左の目の周囲が、絶えず小刻みにピク、ピク、とうごめいていた。左目だけがかってな生きもののように老人の顔の中から、せわしなく、知らぬ異国の早口のおしゃべりのように呼んでいた。一度見てしまうと、もう目がそらせないような気がした。ピク、ピクとうごめく老いた皮の中で左目は、やはり明るく、深かったが、どんなまぶしい光の中でもなお明るく、どんな闇の中でもなお見失わないあやしい宝石のように、明るく、深いのだった。
 老人はふいにサングラスをかけ直し、ゆっくりと歩き始めた。
 「さよなら」
 男は子は返事をしなかった。去っていく老人の足が、自分の三つのビー玉のわきを通りすぎるまで、息をつめて、汗をかいて、じっと見つめていた。

 「ニャァァオ」と老人は言った。
 石の猫は胸をそらし、宙を見つめたまま、何も言わなかった。石の猫の影が落ちる足元に『1963-1969/ピリップ/オス』と刻んであった。周囲の手入れの行き届いた芝の上に、枯れたバラの薄茶の花びらが散っていた。
 遠くには、人間の墓も見えた。白く、黒く、墓石がどこまでも重なりあって続いていた。ペットの墓地の方が墓石が低いぶんだけ広々と感じられ、心地よさそうだった。私はいつもそれを誇りに思っていた。私はペットの墓地の墓守だった。
 私は芝の手入れも、掃除もした。小径の草を刈り、まばらに植えられた樹々の下枝を払ったりもした。墓の修理をし、時々はペットの彫像の製作も手がけた。もちろん私は雇われた人間にすぎないが、自分がこの墓地の守護者だという自負があった。
 客の大部分は嫌いだった。不思議なもので、ペットの墓を作ろうというほどの人間の大半は性格が良くなかった。尊大で、自己中心的で、声であれ身ぶりであれ、妙にかしましい。客の相手は雇い主にまかせてある。雇い主は人間の墓地で成功し、ペットの墓地でもっと成功した。彼の性格は割れた玉のようだった。商売に巧みで、常に客が望むものよりも一ランク上の値のものを売りつけ、それを客に感謝されるすべを知っていた。一方、客が語るペットの生涯に本気で涙したり、私の仕事ぶりにほとんど感謝という以上のもの、多分尊敬に近いものさえいだくほどナイーブな心を持っていた。どちらの側から見ても、それぞれに優れた人間に見えるのだが、両方を知ると玉が割れてしまう。
 彼は多分、不幸なのだと思う。そして彼が不幸なので、私は今も彼のもとを去らない。多分。
 老人が芝の上にくつろいて腰をおろし、私の一番新しい彫像をサングラスごしに見守っているのを、私は少し離れた墓を掃除しながら見やっていた。私は老人を、そういう人間としてだけは、良く知っていた。彼は、本物の目の持ち主なのだ。《トリストラム》のバーテンダーには、話さなかったが。
 老人は私に話しかけない。たまにサングラスごしに私を見やるが、いつも黙って丘を去っていく。老人が去ると、下の街の方から午前十時を告げる商工会議所の鐘の音が、遠い空間に筒を通したように、はっきりと聞こえてくる。
 老人は背をまっすぐに立てて、丘をだんだんと降りていく。静かな歩みだ。埃も立てない。私は長いこと、老人を見送る。

 およそ一年の後、老人は旧市街の路地で私とすれ違った。老人は疲れているように見えた。残暑がきびしく、街は白かった。空は碧く硬く、影はくっきりと深かった。
 老人はかすかに背をこごめて歩いており、顔は土気色だった。私と老人は影を引いてすれ違い、靴音が互いに遠くなった。私はふいに足を停めて、耳を澄ませた。老人は、歩いていなかった。
 私は振り返った。老人はいつもきちんとなでつけている灰まじりの白髪を額に乱して壁際にしゃがみこんでいた。老人は小さく、折りたたまれたように力なかった。
「ご気分でも悪いんですか」
 私は歩みを返しながら言った。老人はわずかに左手を上げたが、何も言わなかった。私は老人に歩み寄り、やせた肩に手を置いた。老人はいきなり私の手の下へ、沈み込んだ。
「お宅へお送りしましょう」
 老人はかすかに頷いた。
 老人をかかえて、一歩また一歩と進んだ。何度も街路へ目を走らせたが、旧市街にはいつもと同じく、流しのタクシーの姿は全くなかった。私は息を切らし、汗を首筋にまとい、二人のからみあった影をじっとにらみつけて歩いた。額に熱い雲がかかった。
 老人の手は冷たかった。額は熱かった。老人はよろめき、浅い息をくりかえしては深い息をひとつした。私はとても焦りを感じた。老人の住むアパートまでこのままずっとかかえて行って良いかどうか分からなかった。
 私は四辻に立った時急に心を決めて、自分のアパートに向かって角を折れた。老人を片方の肩に大きく担ぎ上げて、とにかく素早さだけを求めて大股にずんずん歩いた。時々私が、敷石のはがれた跡の穴をまたぎ越えたりする時、老人は弱々しくうめいたが、私は無視した。
 暑かった。風もなかった。

「君は知っているか?」老人は枕の深みの中から言った。

 『あまたの夢、緑の丘を去りて
    時の潮、此処に至れり。
  紅の衣やぶれ去りてはるか
    紅蓮の心今も鳴きやまず。
  思い出はなおも深く
    我去りても、消ゆることあるまじ。
  とわに来たり、常に至れり、あまねくあり、
  とこしえに満ちたり、夢の渚
    我は潮目にありて、漂いたり』

 私はじっと老人の、細い、荒れた声を聴いていた。私は頭を振った。私はそのうたを知らなかった。
 老人はゆっくりと口元に笑みを押し上げ、目を閉じた。
 「あなたは、どなたですか」
 老人は、眠っていた。
 ベッドの枕元近く、ブラインドを閉めきった窓がまちの上で、濃いサングラスが細くもれ並ぶ光を曲げていた。遠く、どこかの家の柱時計が三時を打っていた。私はひとつきりの椅子に戻って背をあずけ、ゆっくりと息をした。

 二月の水の色の朝、一人の老婦人が雪の積もった橋を渡った。よく手入れして、十幾つの冬を踏みこえてきた深い編み上げブーツで、老婦人はキシクシと渡った。
 四月に迫った息子の婚礼のために新しい服を一着つくろうと、布地を買いに新市街へ渡っていく。旧市街では布地が手に入らなかった。昔しひとりの、大変美しい顔の大金持ちの男が、そういうふうにしてしまった。男は旧市街のひとりの娘に恋をした。男は娘がどうあっても新市街に出てこなければならないように、旧市街の全ての服屋と布地屋をつぶし、ついでにほんの勢いで全ての肉屋をつぶし、最後に計画的に配管工を全て失職させた。娘の兄が配管工だった。
 娘は買い物のために新市街に出て行くようになり、いたる所でバッタリ大金持ちの男に出会ったが、他の人々とも出会った。やがて彼女は新市街で職を探していたある配管工と結婚した。大金持ちでばかな男は執念深く二人をつけ回し、嫌がらせを続け、とうとう配管工の友人にひどく殴られて美しい顔をも無くした。配管工の友人はそのために刑務所に入り、半年後に仮釈放になった。
 刑務所に入った配管工の友人は、今橋を渡っていく老婦人の祖父だった。老婦人は祖父にひどく単純な尊敬の念をもっていた。彼が大酒飲みで、酔うとやたらと人を殴る悪いくせがあったという事実は、彼女の心のなかではまた別の、まったく関連のない遠い思い出だった。
 老婦人は色の褪めた毛のショールを肩にひきつけ直し、キシクシと橋を渡っていく。歩くにつれ、ゆっくりと旧市街は遠ざかり、歩くにつれ、素早く新市街が近づいてくる。新市街に近づくほどに、老婦人は自分が小さくなるように思った。小さくなり、色あせ、年老いていくように思った。用がすんだら、早く旧市街に帰ろうと思った。
 橋の真ん中で、老婦人は欄干にもたれて立つ老人を見た。老人は長い暗いコートを雪景色に際立たせ、暗いサングラスをかけた横顔を青くしていた。鼻先が紫色に冷えていた。
 老婦人はちょっと足をとめ、それからすたすたと老人に歩み寄った。
「やあ、早いね」老婦人は男のように太い声で言った。「お散歩かい」
 老人はゆっくりと振り返り、ぐずっと鼻をすすった。サングラスが鼻の上をかすかにずり落ちた。
「あんたも・早いね」
「あたしは『はずれ』へ布を買いに行くんだ」老婦人はまるで気分を害したみたいに強く言った。「早く行って、早く帰るさ」
 老人はうなずいた。
「息子が四月に嫁をもらうんだ」老婦人は胸をはり、腰に両のこぶしをつき当てて言った。「あんたも式に出とくれよ」
 老人は答えない。雪の白がサングラスにまぶしく映っていた。
 老婦人は急ににっこりした。沢山のしわが二つの目をめざしてきゅうっと走り寄った。「な、出とくれよ」
 老婦人はくるりと背を向け、またキシクシと橋を渡っていった。
 老人はまた欄干にもたれた。川は広く、凍っていた。雪が積もり、岸との境をゆるく消していた。空は半曇りに低く、北風が雲を川の流れにそって遠く地平まで吹いていた。凍った川の上に、野良犬の足跡が点々と青い影を沈めて続いていた。遠く、吹き溜まりに埋もれたドロヤナギの枯れ林の中へ、消えていた。

 《トリストラム》のバーテンダーは太った体を静かに前後にゆすって顔をしかめた。
「世話する人は、いるのかね」
「多分、いないだろう」
 医者は、白髪の先から、溶けかけた雪のしずくをぽたぽたとカウンターにたらし、ウィスキーをショットグラスでぐっと空けた。バーテンダーはタオルを一枚医者に差し出し、もう一枚でカウンターをぬぐった。
「ああ、悪いね。気が付かなかったよ、こんなに雪をかぶってるなんて」
 医者はばさばさと髪をかきむしり、カウンターにボタボタ雪としずくを落とした。バーテンダーはタオルを裏返し、それをぬぐった。医者はその大きな手をちょっと身を引いて見守り、一瞬おずおずと微笑んだ。
「誰もいないのかね」
 医者はぱちくりした。「私には分からんよ、じっさい」
 バーテンダーは太ったあごをもたげて、窓の外に降りしきる雪をながめた。湿った重い雪が素早く滑り落ち、街灯に打ち当たってはずり落ちていた。数分前から一羽の鳥が通りの向かいの銀行の車寄せの屋根の上で、体をふるってのしのしと一報へ歩き、また体をゆすってぐずぐすと引き返していた。二十数分前から、誰も銀行には来なかった。銀行は古く、暗く、金泥の剥げた分厚いツタの葉をかたどった飾り格子が窓を完全におおいつくしていた。飾り格子にも雪は重く打ちつけていた。
「誰が世話する人間がいるべきだと思わないか」
「なに、軽い風邪だ」医者は急に疲れが出たように、背を丸めてカウンターに深くもたれた。「肺炎にならない限り、私が毎朝様子を見にいく程度で大丈夫だよ」
「毎朝、見に行けるのか」
 医者は、空のショットグラスをゆっくりと回した。鈍い光が軽い紫と朱のくまを連れて、カウンターにゆるゆると滑った。
「多分、行けるだろう」
 医者はバーテンダーを見上げてちらりと微笑み、また顔を落とした。「行くさ。うん」
「もう少し、飲むかね」
「いや、もういい」医者はカウンターに両手をつき、小さくうなりながらスツールを降りた。「近頃は、酒に弱くなった。夜更かしも出来なくなった。とにかく、いろんなことに弱くなった」
 医者はうーんと腕を突っ張って、背中をのばした。
「ほんとに、いろんなことに弱くなったよ」
 雪の中を、医者はぱたぱたと力ない足取りで帰っていった。目は半分眠ったように細くなり、知り合いが挨拶しても、答える声が聞こえなかった。曖昧な笑みが浮かびかけ、口は動いているが、声は聞こえなかった。
 三つ目の交差点近くで、弟の息子を見た。甥っ子は彼を見るとびくっと体を固くして、ゆっくりと何気なく壁際に寄り始めた。それから今一度はっきり顔を上げ、いかにも今気付いたというように、ぱっと笑顔になった。
「伯父さん、こんにちは」
「今日はどこへ行ったのかな?」
 甥っ子は、くすくす笑って答えを引きのばした。「動物園」
「動物園?」
「うん、動物園」
 医者は甥っ子を見下ろし、それから大きくため息をついた。
「今度伯父さんと一緒に水族館へ行こうか。ん?」
 甥っ子は答えず、さかんに頭や肩の雪を払い落とした。半コートのポケットで、ビー玉がコチコチ鳴った。
「動物園の方が楽しそうだろう?」医者は言った「でも、案外と水族館へは、そう何度も行かないもんだ。だけれど、あれはあれで思い出深いもんだよ。ま……そうなのさ。今度行こう」
「……うん」
「気をつけて帰りな。滑るよ」
「さよなら、伯父さん」
 医者はまた湿った雪を踏んで歩き続けた。しばらくして振り返ると、甥っ子も振り返っていた。医者は甥っ子がくるりと背を向けて走り去っていくのを、だらしなく腹をつき出し、濡れた壁に手をついて見送った。日が暮れかけていた。降る雪ごとに空から影もはがれ落ちて来るようだった。

 「お医者さんが、もっと部屋を暖めなくちゃだめだとさ」
 老婦人は男のように太い声で、息子に言った。
「また石炭かよ」息子は言って、両手をパンパン打ち合わせた。
「まぬけ。その石炭はそもそもあの人がくれたもんだよ」
「分かってるさ。俺は、もう一日に百回もくそ重い石炭を五階に運び上げんはくそ疲れたと言いたかっただけだよ」
「なら、もっとまぬけさ」
「自分の息子を、まぬけまぬけと怒鳴るな」
 老婦人は手足のひょろ長い息子に冷たい視線をねっとりと投げた。
「分かったかよ」息子は言いつのった。
「分かったよ、まぬけに産んですまなかったね」
 老婦人は背を向け、すたすたとまたアパートを出た。革のスリッパをカタパタ鳴らして、息を切らして五階へ昇り、開いているドアに声をかけた。
「あんた、石炭は今来るよ」
 大きな鈍い金色のヤカンを、肘を突っ張らせて下げた、やせこけた同年輩の女が、無言で出てきた。
「手伝うよ」老婦人は言って、ヤカンをもぎ取った。「あんた、毛布を貸してやってな」
 やせこけた女はくぼんだ目を大きく二、三度まばたかせてから、のろのろとうなづいた。
 老婦人はヤカンを下げて、向かい側の扉に向かった。反対の手へ、重いヤカンをねばつく物のように持ちかえ、扉を引いた。むっとする程の熱気と薬品のにおいが一気にもれてきた。
「せんせい。せんせい」老婦人は呼んだ。「悪いけど運ぶのを手伝っとくれ。せんせい」
 医者は毛のシャツの上に白衣の前をはだけた姿で現れ、老婦人からヤカンを受け取った。
「どうかい?」
「悪い」医者はヤカンを、ぽうっと赤みが差すほどに燃えているダルマストーブの上におろした。「入院させなくちゃならないかもしれない」
「ぜひそうしてよ。お金はなんとかするよ、みんなで」
「お金の心配はいいんだ。この人はお金は持ってる。保険もある。生命保険にも入ってるし、ただのお金も、ある」
 老婦人は急に顔をしかめた。
「あるのかい」
 医者は汗で乱れ落ちた白髪をかき上げた。髪はすぐまた、落ちてきた。
「あるんだ」
 老婦人は、ゆっくりと息を吸い込み、がらんとした部屋を見回した。部屋がゆっくりとベッドの中の老人に向かって縮み、それからまた、虚しくひろがっていくように思った。
「分かんないね」
 医者はそっと首を振った。
「分からないねえ」老婦人は問いかけるようにくり返した。
 医者は首を振った。「とにかく、ドアを閉めなさい」
 老婦人は階段を降りていき、三階の踊り場で息子が一休みしているのに出会った。老婦人がぼっそりと医者の話を伝えると、息子は笑って、ひざをパン、パンと打った。
「石炭、家賃、ガス代、薬代、ランドセル、運動靴」と息子は言った。「酒、ミルク、米、ぬいぐるみ、切手、コーヒー」と息子は言った。「煙草、映画代、シャンプー。……どうしてそんな人が貧乏だと母さんは思い込んでいたんだい。そういう抜けてるところが、俺は嫌いじゃないけどな」
 老婦人はこつこつと革スリッパの先で息子が腰掛けている石炭バケツを蹴った。
「そりゃあ、そうなんだろうけどね」
 息子は、ヒッヒッと甲高く笑って腰を上げた。
「もちろんさ」息子は母親を見下ろして、うきうきした口調で言った。「あの人は違うんだよ。あの人は、わざと、ここにいるんだ。なぜなのかは、知ったこっちゃねえさ。とにかくあの人は、自分で選んでここにいるんだ。そしてうちに石炭分けてくれたり、誰かの家賃たてかえてやったり、なんだかんだ……」息子はちょと頭を振って、両手を宙に放り上げた。「俺らとは別なのさ」
 老婦人はかすかに口元をとがらせ、ふんと荒く鼻息を吹いた。
「なんでも、まあ、早くお行き」
 息子はひょろ長い手に石炭バケツを下げ、階段を上り始めた。振り返り、また言った。「なぜなんだろうね」
 そして、ヒッヒッと甲高い笑い声を、暗い階段に響かせながら、消えていった。

 医者は、老人の顔をじっと見つめた。緑色に疲れた、やせた顔の中で、左の目のまわりだけが時々咳のように、ピク、ピク、とひきつった。
 とにかく静かで、くつろいでさえいるような顔だった。かすかに熱が高くなり、顔色がまやかしの血色の良さに変わるとき、その顔はとりわけ柔和で、晴れた空にとっぷりと伏せたような、なにものにもしがみつかない、虚しさぎりぎりの朗らかさがあった。
 ピク、ピク、と左目のまわりの肉だけが、むき出しの心臓のようにひきつっていた。医者は額にじっとりと汗を浮かべ、苦しいような、笑い出すような息づかいで、老人を見つめていた。
 老人が六時間ぶりに目を覚ました。
「苦しいか」
 老人はぼんやり笑みを放った。「ああ。残念だが」
 医者はうなづいた。「心配ない。この冬をあんたはちゃんとのりきるさ。私には分かっている」
「何回」老人はゆっくりつばを飲み下した。「あと何回のりきれるかな?」
「知らないな」医者は言った。「私は知らない。あんたは知っているか? あんたも知らない。気にすることはない」
 医者はりんごのジュースを、少し老人に飲ませた。ストーブの上でヤカンが煮えたぎり、白い湯気が太い尾のように揺れていた。
「外は、吹雪だ」医者は言った。「今日は十八日だ。午前十一時。あんたは良くなってきている」
 医者は老人を見守りながら、遠い光のように微笑んだ。
「この三日、ほとんどここにいた。推理小説を二冊読んだよ。そんなに一気に続けて読んだの、何年かぶりだ。最初の日は雪で、次の日が晴れた。そして今日は吹雪だ。本の中じゃ、最初が真夏の夜で、次が秋晴れ、最後の春先の曇り空だった。不思議なもんで、決して混じりあいはしないんだね。それなのに、両方とも普段よりとてもよく覚えている」
 老人の顔にふいにはっきりと笑みが昇った。
「人は、沢山の所を同時に生きるから」
 医者はぼんやりとうなづいた。「そうかもしれない」
「沢山の時を、同じ所でも」
「私はね」医者は言った。「生涯という字を覚えた時、人生は崖で終わるというイメージにとりつかれた。その字を覚えた時から、涯は水際のことで崖とは違うということは分かっていた。それでも、どうしても崖は消えないのさ」
 医者は手を上げて、宙にゆっくりと崖の字を書いた。縦の線を書く時その人差し指は、崖からずり落ちていく者の指のように曲がった。
 医者は首を振って、小さく微笑んだ。「ずっと昔の、たわいない思い込みだ」
 老人はじっと医者を見守っていた。医者は宙から老人へ目を戻し、老人を見つめ返した。
「たわいのないことだ」医者は言った。「眠りなさい。私はずっとここにいる。ずっと、まだ夜まで」
 老人は眠った。

 四月の結婚式の日は、晴れていた。新調の、やせた肩をうまくかくす仕立てのスーツを着た花婿は、精一杯の労力とお金をつぎ込んだためにそれ以外にお色直しなどする余力もその気もなくなった立派なウェディングドレス姿の花嫁の手を引いて、遅い桜が散りしきる中を晴れ晴れと進んだ。親類縁者、友人知人、その他多くの人々が二人を包み込むように取り巻いて旧市街の公園を横切って行った。その先に、若い二人の新居があった。
 老人は出席しなかった。誰もそれを、そうひどくは気にしなかった。昔から老人はどんな会にも出なかった。老人はハネムーン用の旅券とホテルの予約といくばくかの祝い金を郵送してきていた。昔からアパートの人々がしてきたように、それは黙って受け取られた。

 六月に私は、新しい猫の像を一体作り上げた。客の希望をいれて、心地よさそうに丸くなって居眠りしている姿を作った。その背中の丸みが、とりわけ私に苦労をさせ、私を楽しませた。
 何日も何日も待って、老人は現れた。老人はまっすぐにサングラスをその像に向けて進んできた。像の前に腰をおろし、じっと見つめた。
 やがて老人は、「フミ―」とつぶやいて、微笑んだ。
 その晩私は、眠り込むまで何度も「フミ―」とつぶやいた。
 八月が来て、私は自分の行く末を、真剣に考えた。八月に私は墓地に雇われ、最初の仕事は枯れかけた芝に、やりすぎず、かつたっぷりと水をやることだった。毎年同じ頃になると、自分の人生という何かについて考え始めるくせがついていた。
 自分は一生ペットの墓地の墓守としてすごすだろうか? それでいい、という自分の声はいつも聞こえていた。本当はそれに従いたかった。あえてその声に逆らおうとするのは、逆らわなくてはならないと思おうとするのは、なぜなのか、と思った。そして、自分の人生の行く末を思い描くのは、忘れた。八月は、水をよくやり、手入れを怠りさえしなければ、ペットの墓地は美しかった。ホースで高くまく水の作る、朱色のにじんだ虹の下に立ち、時々、自分はなぜ人間の墓地ではなくペットの墓地の墓守であることにしがみつくのか、とめまいのように思うことがあった。めまいのように思い、思いはめまいのようだった。私は人間を避け、死んだ人間を避け、親を避け、昔の友人を避けていた。私は一人で働き、丘の緑と遠い街を眺め、心安らいでいた。多分、幸福ではなかったが、心安らいでいた。
 竹の大熊手で夏枯れした細かな芝を引きながら、時々、自分はどこかでまちがっていると思った。多分、そう思ったから今のような暮らしに入ったのだった。そして、夏がつかれた草のように引いていくのを見ながら、相変わらず、そう思っていた。
 石で囲った浅い下水の中を、水が石の継ぎ目ごとに笑いながら、勢いよく丘を下っていく。刈った芝は甘い香りに包まれて、ゆっくりとしおれていく。晴れた空にわきあがった雲の下で、遠い街はとても小さい。大きな麦わら帽の下を風が吹き過ぎ、それはもう夏の香りはしていない。

 十月の初めに、私は老人に最後に出会った。旧市街の路上で、老人の歩みは目立って遅くなってきていた。おしよせる時の潮の中をこぎ渡るように、足取りはねばり、重かった。それでも老人は背をまっすぐに立て、濃いサングラスをかけた顔を強く上げていた。
 老人は私とは別の世界を歩むようにゆっくりと進み、《トリストラム》の中へ、ちらりとやせた背を陽にうたせたのを最後に、消えていった。
 十月の終わりに、老人は世を去った。

 五階の部屋から、狭い階段を使って棺を運び下ろすのは大変だった。
 四階へおりていくと、どのアパートのドアも大きく開け放たれて、人々がじっと立ち尽くしていた。三階におりていくと、やはり全てのドアが大きく開け放たれて、人々が無言で立ち尽くしていた。
 私達は胃が消え去ったかと思うほど疲れていたが、見守る人々の中で棺を下ろして休むのはためらわれた。人々は何も言わなかった。何もしなかった。ただじっと立ち尽くし、棺がゆっくりと、小さなうめきとささやきを連れて下へ下へと揺られていくのを見守っていた。その目に涙はあったが、何を思っているのかは分からなかった。
 二階でも、記憶に魔法をかけるように、全てのドアが開け放たれ、人々が無言で立ち尽くしていた。
 棺の左前を担ったトリストラムのバーテンダーの首筋が、真っ赤にふくれあがり、右前を担ったファンの主人の腕が、それと分かるほどがたがたと痙攣していた。私達はみな同じことを考えていた。やせた老人ひとりが、なぜこれほどまでに重いのか。重いはずなどないのだ。それでも棺は刻一刻、段また段と重くなる。壁一面にひび割れの走った階段はほの暗く、なおも下へ下へと続いていく。
 二階を過ぎ、私達の足取りはやむにやまれず、少しずつ速くなった。一階で待ち受けていた人々の前を追われるような足取りで通り抜けた。棺はほとんど小走りに、秋の最初の枯れ葉が散る通りに運びだされ、これを最後の深い、ひとかたまりのうめきと共に、霊柩車の中へ送り込まれた。
 私達はよろめく膝を手で支えながら晴れ抜けた空の下に散り、息をついた。そうしている間も棺の重みはすでに降ろした肩にますます重くなるようで、晴れた空からひとすじ、暗い影がきっぱりと差すかのようだった。
 ようやくそれぞれの車の方へよろめき進み始めた時、天から花が降ってきた。ぽさりと枯れ葉を打って落ちた一本の白い花に驚いて振り仰ぐと、花は五階に至る十九の全ての窓から、次々に、しだいに多く、しだいに激しく降ってきた。白く、黄色く、青く、降った。
 私達は立ち尽くして、路上をおおっていく花を見ていた。ファンの主人は一本のダリヤを偶然受け止め、それをどうすべきか迷い、結局地に放した。ダリヤはぱたりと落ち、ころりと動いて彼のつま先に着いた。彼はぴくりと足を引きかけ、悩んだ。

 一本の柏の大木の陰で、墓地からの帰り道、バーテンダーに煙草の火を貸した。
 長い一日は、流れの早い雲の下で素早く暮れ始めていた。街は青紫にとっぷりと沈み、あとにしてきた丘は最後の夕映えの朽ちるような紅を背に、黒かった。柏の木の下に二人の影は赤黒くて長く、折れて下る坂道のむこうへ消えて、腰から先が見つからなかった。
 バーテンダーは深々と煙草をふかして、そっとスーツのすその草の実を払った。
「あの人は、君の所でなんと言ったって?」
 私は記憶をたどりながら、老人がうたった詩をくりかえした。
「分からんな」彼は言った。「君は分かるか」
私は首を振った。
 私達は煙草を踏み消し、ますます暗くなっていく小径を辿って丘を下りていった。

 これが、私がまだその街にいた頃の話だ。
 私とバーテンダーが柏の木の下から去った五年後に、医者が自殺した。私は今一度街へ帰った。その時、私や他の人々はこのことについてあれこれ知っていることを語り合い、その他のことも、あれこれ語り合った。私はそれらのことをまとめて、記録にとどめておいた。
 ずっと後に私はそれを整理し直して、のちに妻になる人に読ませた。
「本当に、ペットの墓地の墓守だったの?」とその人が言った。
「本当にそうだったんだよ。その他の、たくさんのこともね」と私は言った。
 それから私は、その他のたくさんのことについて、まだその街にいた頃の話を続けた。

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