永田カビさんはどうしたら救われるのか?

最近、永田カビさんの『膵臓がこわれたら、少し生きやすくなりました。』を読みました。
永田カビさんの作品は1作目から読んでいるのですが、毎回読んだ後にもやもやと悩んでしまいます。
それは「この人は、何故また迷走してしまっているのだろう?」としばらく考えてしまうからです。

なので今回、おこがましくもこんなタイトルを付けてしっかり答えを考えてみました。
永田カビさんの作品を読んでないと分からない内容なので、まだ読まれていない方はぜひ一度読んでみてください。

前置きとして、わたしは永田カビさんのことを作品でしか知りません。
うつ病や依存症の専門知識も全くありません。
また、これはあくまでも一個人の意見で、本当の答えは永田カビさん本人にしか分かりません。
そもそも全く的外れな内容かもしれません。
そして、これがいいとか悪いとか言いたいわけではないことも、ご理解いただいた上でお読みください。

一体誰が責めているのか

個人的に永田カビさん作品の感想でよく見かけるものとして「自分の感情について言語化する能力がすごい」と言うのがあります。
確かに毎回エッセイを描かれるにあたって、永田カビさん本人の心理を詳しく描写されています。

アルコール依存症になった原因のひとつとして、以下の体験が語られています。

28才まで『自分は酒を飲む資格がない』と思っていた私は(永田カビさんが飲み干したハイボールを見て、当時の担当さんが店員さんに「ハイボールおかわりください」と言った)その時強烈に『ひとりの大人扱い』を感じてしまったのでした
その感覚は危険なほど刺激的で幸せでありました
こうして『ひとりの大人として世間に存在を許される事』と『飲酒』が私の中で強く結びつけられたのでした

『膵臓がこわれたら、少し生きやすくなりました。』
永田カビ

どうして飲酒にハマったのか、とても分かりやすいですが、よくよく考えてみると、自分の感情『しか』言語化されていないのです。
この時、おかわりを注文した担当さんは「永田カビさんは、もう今は世間に存在を認められたのでお酒を飲んでいいんですよ。」とは(多分)言ってませんし、思ってもいないでしょう。
そもそも『世間から存在を許されていないと感じる』と言う強迫観念はどこから来ているのかまでは、作品の中では深く掘り下げられていません。
(もちろん本人が描きたくなくて、描いていない可能性もあります。)
とはいえ、実際にはその場で誰も永田カビさんを責めていないのです。

実際に今の現状はどうなのか

また、永田カビさんは1作目の『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』の頃はご家族との仲が上手くいっていなかったことを描かれていました。
そして2作目の『一人交換日記』の2巻目で、1作目を読んだ母親から実はショックで泣いたと打ち明けられて「私は、取り返しのつかないことをしたと思った。」と書いており、その罪悪感を今でも引きずり続けていることが、今回の作品でも語られています。

また、飲酒は私にとって『罪悪感から許され(ているような感じにな)る事』でもありました
(中略)
まず、一番大きいものは先述の書籍化したマンガによって母親を傷つけ泣かせてしまった(悪い意味で)事でした

『膵臓がこわれたら、少し生きやすくなりました。』
永田カビ

しかし、永田カビさんの母親は、異常なほどアルコールを摂取しては、おねしょを繰り返す永田カビさんの姿を見て心配し、永田カビさんが通っている精神科に相談しに行ったり、入院した永田カビさんと毎日LINEのやり取りをしたり、今は至って良好な関係に思えます。
確かに、永田カビさんの作品を読んでショックを受けられたのは事実でしょうが、現状では、もうそれを引きずって傷ついてるようには見えません。
しかし、永田カビさんの意識は、今目の前にいる母親の状態ではなく、過去の傷付いた時点の母親に向き続けています。

わたしから見ると、それはとても意味のないことです。
過去のことは変わりませんが、現状はもうすでに変わっています。
しかも、良い方向に変わっています。
つまり、もう良くなったことに対して悩む必要はないのです。
そして、もしまた傷つけてしまうことがあったのなら、その時に相手と
「どういう気持ちにさせてしまったのか」
「どんな行動がその原因なのか」
「これからどうしていけば傷つけずに済むのか」
を話し合えばいいのです。

もう罪悪感を感じる必要はない

永田カビさんは『生きている事に対する漠然とした罪悪感』があると作中で語っています。

『罪悪感』は生きている限り伴う『生命の基本使用料』のようなものであって
そこから許され解放されるなんて事は多分不可能なのだと今となっては思います

『膵臓がこわれたら、少し生きやすくなりました。』
永田カビ

しかし、許されるとしても、いったい誰が許してくれるのでしょう?
そして、今一体誰が許していないのでしょう?

実際は、誰であっても生きていることを許されていない人はいません。
そもそも「誰々は存在してはいけない」なんて、誰も決める資格はありません。
ただそこに今存在しているという事実だけがあるのです。

仮に、過去に誰かが永田カビさんの存在自体を責めて否定したのだとしても、それは先ほども述べたように本来誰にも決められることではないので、間違っています。
永田カビさんは何も悪くありません。

もし、永田カビさんが救われるとしたら、今誰も自分を責めていないことに気付く時だろうと、わたしは思います。
そして、それは決して他人からではなく、自分で認めなければなりません。

愛し愛されることの実現

永田カビさんは、作品の中でずっと「愛し愛されること」を求めています。あくまでこれはわたしの意見ですが、自分を大事に出来ない、心に余裕のない人は、誰かを愛することが非常に難しいです。
ただ、自分を大事に出来ない事自体は悪くありません。
色々な要因が複雑に絡まった結果であるし、その時いた環境など、自身ではどうにもできないことが原因のひとつになっているので、その人を責めることはできません。

「愛し愛されたい」と思うのであれば、まずは自分を大事にできるようになる事がスタートだと思うので、永田カビさんには一番に体をゆっくり治してほしいなと思います。

最後に

以上、永田カビさんの人生に対して、勝手にぺちゃくちゃ一丁前に偉そうに語らせていただきました。

今回、永田カビさんの人生を例にお話しましたが、同じように自分の感情ばかりに意識が行ってしまい、実際の他者の気持ちや、状況を確認せず(というか確認する心の余裕がなく)、迷走して繰り返し自分を傷つけてしまっている人は多いと思います。
でも、一回立ち止まって、感情を抜きにして冷静に周りを見れば、実際にはもっと世の中はフラットで、いちいち傷つく必要はないということに気づくと思います。
ただ、そんなに簡単に、わたしの言葉だけで誰かが変わるとは思いませんが…。
少しでも心に引っかかって、留めておいてくれればなと思います。

人生を覗かせていただいた一読者として、これから先の事が描かれても描かれなくても、永田カビさんにとって良い人生になることを祈っています。
どうかご自愛ください。

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