カープダイアリー第8474話「限りなく透明に近いドジャーブルー、剛腕の証明、昭和から平成へ」(2023年12月26日)

剛腕の証明…

黒田博樹さんのピッチングスタイルを、その5文字でずっと追いかけてきたメディアがある。タイトルを変えながら続くそのネット媒体、今では「コイの街のダイアリー」となっている。

「幸せだった…」というカープでのプロ野球生活は、1997年から2007年までの11シーズンと2015年、16年の2シーズンで、その間にロサンゼル・ドジャースでの2008年から11年までの4シーズンと12年から14年までのニューヨーク・ヤンキースでの3シーズンが存在する。メジャー名門2球団をNPBローカル球団でサンドイッチ。こんなプロ野球人生はそうそうないだろう。

まだ黒田博樹さんが一軍で勝てずにいたころ、「ミスターパーフェクト」外木場義郎さんが、2月の沖縄キャンプブルペンを訪ねたことがある。そして、そのピッチングを見るなりつぶやいた。

「しっかり腰の左サイドでバッターに向かっていってますし、腕と足のバランス、使い方が素晴らしい。これで勝てない方がおかしい」

真っすぐとカーブだけでパーフェクト1回、ノーヒットノーラン2回、という昭和の剛腕の言葉には重みがあった。

しかし黒田博樹さんは、初の二桁勝利に届く13勝をマークするまでに5年を要した。どうすればこの世界で生きていくことができるか。素早く対応しようと試行錯誤を重ねたのである。

「最初はね、ちゃらんぽらんな時期も確かにありました。でもね、若いころから自分で考えて高いレベルを目指すタイプでした。周囲に流されることもない。選手会長になってからは、カープを良くしていこうという気持ちが一段と強くなりましたね。なんだ黒田か、と思われるようなことは、絶対にしたくないんですよ」

中四国一の歓楽街、流川の高級ビルでクラブを営むオーナーの言葉だ。

当時のカープの指揮官、山本浩二監督の起用法は「これでもかと、というぐらい…」(黒田博樹さん)続投を優先させるものになっていた。

12勝した2001年は第二次山本政権の1年目で27試合、190イニングを投げ13完投。2003年には205回と2/3で8完投…

こうした過酷なピッチングスタイルは肩や肘への必要以上の負荷というデメリットがある一方で、「エースの条件」をその手で掴み取るためのメンタルの強さを醸成することになった。

迎えた2004年には球界再編の嵐が吹き荒れ、近鉄に続く「カープ消滅の危機」が現実になりかけた。翌2005年、山本カープラストイヤーで選手会長になった黒田博樹さんは、どうすれば多くのファンに球場に足を運んでもられるか、を思案し球団に様々な提言を行った。「車を運転していてもつい考えがそっちの方にいってヒヤッとしたこともある」というほどだった。

と同時にマウンドでも剛腕をうならせた。212回と2/3で12完投、15勝で最多勝利投手になり、初のホームラン王になった”キング新井”とふたり、カメラの前でポースを決めた。八面六臂の活躍、とはこういう状況を指すのだろう。

2006年からはマーティ・ブラウン新監督の下で「中4日限定110球、36試合登板」を打診された。実際に中4日、中5日登板を続けて7月、8月はともに4勝0敗。しかし9月に右肘の違和感を訴えて戦線を離脱した。そして10月16日、旧広島市民球場でのシーズンラストゲームでマウンドに戻ってきた。8月31日の巨人戦(ヤフードーム)で13勝目をあげてから46日ぶりの登板だった。

この夜、リリーフカーに乗ってマウンドに向かうエースの背中にカープファンから大きな声援が送られた。ライトスタンドには「黒田残留」を願う旗か横断幕。数百人の手描きの願いが記された大きな幕にはこう書かれていた。

「我々は共に闘って来た 今までもこれからも…… 未来へ輝くその日まで 君が涙を流すなら 君の涙になってやる Carpのエース黒田博樹」

中日打線相手に九回、二死から4球を投げた黒田博樹さんは、この日、日米通算20シーズンで唯一のセーブをマークすることになった。そして「男気」の2文字がついて回るようになるのである。

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