カープダイアリー第8497話「黒田博樹氏、谷繁元信氏の“広島勢”揃って野球殿堂入り、思い出されるのは2014年広島大規模土砂災害地でのエピソード」(2024年1月18日)

新井貴浩監督が和歌山県高野町の高野山清浄心院で護摩行に臨んだ。2003年、阪神にFA移籍した当時の主砲・金本知憲に代わって四番を打ち、山本浩二監督に「打撃も粗い」と言われ、周りから“四番失格”の烙印を押され、失意のどん底にあった2004年から始めた。

そこから21度目の荒行だ。幾多の苦難を乗り越えてくることができたのは、燃え盛る炎の先に大事なものが見えたからだ。

同じころ、新井貴浩監督とともにカープの過去と今と未来を背負う黒田博樹球団アドバイザー(48)に吉報が届けられた。

野球殿堂博物館が今年の殿堂入りを発表した。競技者表彰のプレーヤーズ部門で、候補者資格取得から3年目の今回、黒田博樹アドバイザーは有効投票数358票の75%以上の条件を満たす281票(79・4%)を集めた。

元中日監督の谷繁元信氏(53)も281票で殿堂入りを果たした。広島県庄原市出身。今回は広島関係者の揃い踏みとなった。

<黒田博樹氏スピーチ>

本日は野球殿堂入りという大変名誉な選出をしていただき、誠にありがとうございました。

まず始めに、このたびたくさんの票を入れていただきましたメディアのみなさま、本当にありがとうございました。深く感謝いたします。

私は大学を卒業後、広島カープに入団し、入団後数年間はなかなか結果を残すことができなかったのですが、その後、非常に大きな転機になったのは本日ゲストスピーチでお越しいただきました山本浩二さんが2度目の監督に就任されたことでした。

山本浩二さんには先発投手、そしてエースとしての心構え、責任、そういったたくさんのものをマウンドで学ばせていただきました。

そのおかげで、そのシーズン、自身初の二桁勝利を挙げることができました。

その訓えをもって、私の20年間の現役生活、その最後のマウンドまで私の原動力になっていました。

最後に、私の日米20年間の現役生活の中で1万回以上の打者と対戦してきました。こちらにいらっしゃる谷繁さんもそのひとりです。敵味方含め、たくさんの素晴らしいプレーヤーと切磋琢磨して参りました。

歴団の監督、コーチ、スタッフ。そして幼少期から現在に至るまでたくさんの方に野球というスポーツに携わっていただき、最後はたくさんのファンの方たちに声援を送っていただきました。

その全ての方々に。この場を借りてお礼を申し上げたいと思います。本当にありがとうございました。

……

剛腕の証明。

ミスター完投、男気残留、メジャー挑戦、広島帰還、悲願のリーグ制覇、そして今回の殿堂入り。

やはりこの物語にはハッピーエンドが待っていた。

ただしそのストーリーはマウンドやグラウンドやベンチ裏での野球話だけに止まらない。人間・黒田博樹…

広島に事務所を構える国連ユニタール(本部:スイス・ジュネーブ)から親善大使に任命されれば、国際紛争後の復興を願い青いユニホームに袖を通す。

「体重が増えないように…」と今も1日数キロのウォーキングを続けているが、その途中で中学生が毎日ゴミを集めているのを見かけたら話しかけ励ます。

大阪出身だが「第2のふるさと」広島の街にその姿は完全に溶け込んでいる。

大リーガー時代のエピソードも強烈だ。

2014年8月20日未明、豪雨に見舞われた広島市安佐南区、安佐北区では同時多発的に大規模土砂災害が発生して、甚大な被害を被った。住民たちは先の見えない戦いを強いられた。大切な人を失い、財産も流され、何から手をつけていいのか皆目見当のつかない日々…
 
少しずつ復旧・復興の足掛かりが見えてきた10月末、現地の住民やボランティアは黙々と片付けを続ける見掛けない人影に気付いた。
 
「あの人、黒田さんじゃない?」
 
「黒田さん、メジャーでがんばって…」
 
「本当にがんばっているのはみなさんです」
 
その様子は複数のメディアによって報じられた。翌2015年3月30日付のスポニチには「黒田さんに勇気もらった」「英雄の最後の1球まで見届けたい」の見出しとともに「ぜひ広島市長になって欲しい」と訴える声も掲載された。
 
鋼の右腕と強く温かいハート。
 
黒田博樹アドバイザーはいろいろなものを背負いながら「1球の重み」を感じながら日米通算20シーズン、2240回と2/3を投げ203勝184敗の数字以上のものをファンの心に残したことになる。

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