カープダイアリー第8508話「明大・宗山塁の心のふるさと、石畳の太歳通りの細川スポーツ…三次プロ野球伝続編Ⅻ」(2024年1月29日)

三次の街のアイコン、天気予報画面などでお馴染みの赤い巴橋西詰から、西城川の流れと並行して続く石畳の三次本通り。途中で太歳通りに入りさらに進むと細川猛さんが営む「細川スポーツ事業部」がある。
 
カープを指揮したマーティ・ブラウン監督が、旧広島市民球場時代に訪ねた専法寺からも近い。細川猛さんの2歳年下の梵英心さんも気軽に訪ねてくる。幼少期には一緒に野球をして遊んだ仲だ。
 
広陵で「ショートで四番の二岡智宏」の凄さをその肌で感じ取った細川猛さん。志半ばでプロへの道を軌道修正した。野球を通じて地元の子どもたちと接し、自ら深く掘り下げてきた「4スタンス理論」などを伝える活動を天職とした。
 
数多くの子どもたちと出会う中で、やはり宗山塁の存在は別格だったという。
 
「ひたむきに努力するその姿、人間性。足も速い、守備も抜群にうまい、もちろんバッティングも…大学進学後も必ず挨拶に来ますよ」
 
広陵進学を目指していた宗山塁は、三次中3年の冬をこの“細川道場”で過ごした。ピッチングマシンを気のすむまで打つのが日課だった。幼少のころから父・伸吉さんと二人三役で野球と向き合う日々。広陵で寮生活を始める前の地元での総仕上げ、となった。
 
「細川スポーツ事業部」では、この春にもまた広陵に、女子野球で日本一を目指す逸材などを送り込む。
 
地元の子どもたちが三次から外の環境に挑戦しても多くのことを学べるように、礼儀や大切な道具の手入れ、そして打って、守っての身体の使い方もなるべくわかりやすく伝える、そんな環境がこれからますます大事になる。
 
子どもたちの勉強部屋にもなっている練習施設にはそんな夢がたくさん詰まっている。三次中(現在の三次高)に野球部ができたのが明治35年(1902年)。100年のスパンで積み上げられてきた三次野球、その強さの秘密は普通の町の中にある。

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