フォークナー『アブサロム、アブサロム!』

率直な感想まあイライラする。どうしてああも頑迷固陋になれるのかと(ローザ)。復讐、南部の価値観、の体現者であるローザのゆがんだ目線による語り、彼女は全てを見たわけではない。カッサンドラに喩えられていようとも。大人たちの手で復讐者(攻撃者に)に仕立てられた子供。ローザもボンも。

実際に起こらなかったことも歴史のうちであり、〈過去〉だけでは真実を解きあかすことができない。(寺山修司『地球をしばらく止めてくれ ぼくはゆっくり映画を観たい』)
「実際に起こらなかったことも、歴史のうちである」(E・H・カー『浪漫的亡命者たち』)

実際に起こらなかったことも歴史のうちであるというE・H・カーだか寺山修司だかの言葉を信じるなら、何行にもわたって描いた情景や台詞を「ではなく」と否定する無駄としか思えない書き方も、「実際には起こらなかったこと」を記述するための方法なのではないか。


最後、これまでは伝え聞いたことを語っていたにすぎなかったクエンティンが歴史の物語の神話の中に飛び込み、ヘンリーと対面する。そのすぐ後に屋敷は消失し二人は焼死する。後には白痴の黒人が1人残るだけ。サトペンの最後の子孫、混血を忌むサトペンの血族で最後に残ったのが彼だった。末裔のみすぼらしさは百年の孤独を思わせる。豚の尻尾のアウレリャノ。それは神話の終わり、あるいは神話なんてものじゃないことの証明だ。

純血という神話、自ら神話を打ち立てようとしたサトペンの(愛の不在によって敗れる)までの物語、自分の成り上がり、自分の神話しかなかったがために破滅した。

この入り組んだ言葉を、誰かが誰かに語っているものとして書くのがとんでもなく無理がある。こんなややこしい喋り方する人間などいない。ではそんな語り方をするのはなぜか。体験し伝え聞いてきて語ったのはクエンティンなのになぜかその内容をクエンティンに対してシュリーヴが語る構成になっている。場を、歴史を召喚する。謎解きであり降霊術か悪魔祓いの儀式のようだ。

アメリカの、ごく狭い地域を舞台にした小説でありながら、ラテンアメリカ文学だけでなく、カリブとか旧植民地の文学にも接続できる世界文学としての広がりがある。植民地生まれの、混血についての小説。


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