死者=家の時間と生者の時間『A GHOST STORY  ア・ゴースト・ストーリー』

 これは、なんと言ったらいいのか、「死んで幽霊になった男が残された妻を見守る話」ではあるけれど、もっと広い意味で、去っていくものと後に残されるものの話である。ただし去っていくのは生きている人間の方だ。幽霊は後に残される。ここでは生者と死者の立場が逆転している。

 事故で死んだ男はシーツを被った幽霊の姿になって家に帰る。幽霊は生きた人間に触れることはできない。過ぎていく時間の中で、かつての妻をただ見守り続ける。生きている人間と幽霊の一番の違いは時間の流れ方だ。幽霊になった人間の時間は止まる。

 印象的なのは、彼が幽霊になった少し後、一人で床に座り込んで食事する妻を長回しで映した場面だ。彼女は食べる。食べ続け、そして吐く。壁に反射する光や外の物音は少しずつ変化する。しかし横で見ている幽霊だけは微動だにしない。動いている生者の時間と止まった死者の時間。

 男が作った歌の歌詞にもある通り、彼女は去っていく。旅立って、それっきり物語から退場する。その後も見知らぬ人間たちが次々とやってきてはいなくなる。去っていくのはいつも生きている人間であり、それを見送る幽霊は独りで取り残される。時間も去っていく。やがて家は失われ、見知らぬ未来で幽霊だけが取り残される。それでも幽霊は家から離れることができない。

 この映画では幽霊と家は切り離しては語れない。英米の怪談では幽霊屋敷ものが1つのジャンルとしてあるが、この映画にはそういう家に憑りつく幽霊というモチーフも感じられる。
 

 生者に触れることのできない幽霊なので、黙って何かを見つめている場面が多くなるのだが、幽霊のその目線は家そのものが持つ目線なのではないか。見守る視線というか、固定された視点からの長回しが多い。男が幽霊になるより前から、廊下の向こうから誰かが見つめているような映し方をしている(それは実際幽霊になった男の視点だったのだけど)。廊下からの視点、床に座って食事する妻を見つめる視点、離れたところから家を映す視点。長回しは幽霊の視線を代弁しているようだ。固定されたカメラの視点の中で、人間が生き、時間が流れる。見ている側の時間は止まっている。生者と死者で流れる時間が違うことはシームレスな省略で表されている。幽霊はリアルタイムで動いているように見えながらその目の前で何日、何年もの時間が早回しで経過している。

 この映画では個人的な物語が、もっと大きな感覚と結びついている印象がある。星空が映される冒頭のような、宇宙的な時間感覚。人間の尺度を越えた時間感覚。それは歴史であり、終末に向けて進み続ける時そのものである。人間の時間から切り離された存在を主人公にしたことで、それを観るものに認識させることができる。
 病院を抜け出して家に帰りつくまでの、遠景から映した野原をゆく幽霊の姿にとても感動した。今ここの世界であるはずなのに誰もいない地球に思えた。宇宙的な孤独。

 終盤、未来の世界から土地に最初の移住者が現れた時代(開拓期のアメリカ?)へ跳んで現代に戻るまでの一連の展開に『HERE』というグラフィックノベルを連想した。これはアメリカのある一軒家が建つ場所の、地球誕生から人類滅亡後の遠い未来までを同じページの中で同時的に描いた作品なのだけれども、それは幽霊の目線というか、限られた空間の中で過去未来を行き来する者が見る光景に思える。
 あの家が建つ前に、一組の一家がそのやってきて、家を建てる前に原住民に殺されていた。歴史。家を通り過ぎていった者たち。あの家の歴史のそもそもの始まりに血なまぐさい死があった。言ってみればこの世のすべての土地は事故物件だ。
 生者たちはメッセージを残して去っていく。妻は壁の隙間に手紙を埋め込んで、先住民に殺された一家の娘は石の下に紙きれを隠して。冒頭で主人公の妻が話していたことでもある。子どもの頃、自分にあてた手紙を家の中に隠していたこと。読めばその時に戻れるから、と。手紙(物語も、映画も、あらゆる表現も)は書かれた時点で過去のものになり、現在からは無限に遠ざかり続ける。これらは常に過去から未来の誰かに向けたメッセージになる。手紙は、幽霊と違って限られた時間にしか存在できない人間がそれを越える手段であり、別々の時間に存在する生者と死者を繋ぐものだ。

 
 家が取り壊されて、隣家の幽霊は全て諦めて消滅した。男は、家を失っても、かつて家のあった場所に居続けた。そして未来の、馴染みのない高層ビル群に、見知ったものの何もない世界に絶望して身を投げて、気が付くと開拓期のアメリカにいた。
 時間遡行をどう解釈するのか。未来で自殺した幽霊はなぜ過去に戻るのか。そもそもあれは本当に過去なのか。あの世のあの世、幽霊が見る走馬燈なのか。本当にループしているのであるならばなぜ自分の死を止めようとはしないのか。物には触れる。メッセージを伝えようとしたことはある。しかし家に越してきた日から死んで妻が家を去るまで(ピアノを鳴らすことはできたのに)何もしない。
 愛と言い切るにはあまりにもざらついた感情。あるいは、彼の執着は壁に挟まった手紙を読むことだけで、それ以外の自分の生き死になど思考の外だったのか
 究極には全ては消えると(異様に長く、誰だかわからない人物に)語らせた後に、家が取り壊され、未来になって、しかし過去にループして終わる。終末に向けて無機的に進み続ける線的な時間に対して物語は環を描く。

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