『バーニング 劇場版』の感想

けっこう前に観たやつですが。


 村上春樹の短編小説『納屋を焼く』のイ・チャンドンによる映画化である『バーニング劇場版』はいくつかの点で原作から大きく変更されている。
 その一つが主要な登場人物の設定だ。村上春樹の『納屋を焼く』では語り手は作者を連想させる小説家だが、映画『バーニング』の主人公ジョンスは20代前半の若者である。金も仕事も無く、小説家志望と言いつつ何を書いたらいいのかわからずにいる。「彼女」にあたるヘミはジョンスの幼馴染であり、一見華やかではあるが境遇的には彼とそう変わらない位置にいる。
 借金に追われる母親、起訴された父親、ヘミ。ジョンスの周りは成功者であるベンと対称的な人たちだ。
 菓子パンを歩き食いするジョンスと、スポーツジムでランニングするベン。軽トラの車内でコンビニ飯?を飲み食いするジョンスと、パスタを作り、ソウルで一番美味いもつ鍋屋に誘い、高級ワインを持参し、ホームパーティーを開くベン(列挙してみたら思ってた以上に食の対比が多かった)。
 「僕」=ジョンスと、「彼」にあたるベンを非対称な存在として描き、韓国の現代社会における階級間の対立を作品に持ち込んでいるように見える。
 もう一つ、原作と決定的に異なるのが後半の展開である。ここで映画の作り手は原作のある有名な解釈に従ってストーリーを展開させる。
 それは、ベンが若い女性を狙った連続殺人犯であり、「ビニールハウスを焼く」とは彼の犯行の隠喩だというものだ。ベンが実際に殺人犯であれジョンスの思い込みであれ(その答えは曖昧にされている)この解釈を基に映画の後半部が展開する。
 これらの相違の果てに映画は原作とは異なる「衝撃的」な結末にたどり着く。
 この作品にはリトルハンガーとグレートハンガーという言葉が出てくる。ヘミがアフリカ旅行中に出合った部族の言い伝えだという。
 この映画の人物設定で言えば、ジョンス達餓えた層(=ハンガー)とその対極としてベンのような富裕層が存在する。
 「リトル」な餓えた者から「グレート」な餓えた者になること。それを、個人的な不満が社会的な怒りに変わること?と解釈するとラストのジョンスの行動は「持たざる若者」から「ギャツビー」への復讐という象徴的な性格が強くなる。ジョンスがベンを刺すことに何重もの含みを持たせているのだろう。ヘミ(を奪われたこと)の復讐だけでなく。この二人は持たざる者と持つ者にはっきり分けたのは原作との大きな相違点だから。
 小説を書き始めたのはベンが殺人犯だと確信したのと同時に見えたが、この二つのことはどう関係しているのだろうか。
 ラストシーンの炎に包まれるベンと寒空の下全裸のジョンスの対比も非常に印象的だった。この映画では焔の存在感がとても強い。父親が出て行った母親の衣服を燃やしたことがジョンスのトラウマになっている。また彼は、おそらくヘミが姿を消した(殺された)と同時刻、燃えるビニールハウスの夢を見ている(その時の主人公は少年の姿をしている。おそらく母親の衣服を焼かされた時と同じ年齢である。燃えるビニールハウスに惹かれているような表情をしている)。そしてベンを燃やしている。
 ヘミの記憶と周りの人達の記憶の食い違い(または彼女の虚言癖)はこの映画に一定の曖昧さ、不確かさの存在する余地を残してはいるが、ラストの展開も含め後半はオリジナルと言っていいほど作り手の解釈が強く出ている。
 同時存在といった村上春樹的なキーワードを散りばめつつ、韓国の現代劇として再構築している。それは原作を70年代ドイツの時代劇・政治劇として解釈したリメイク版サスペリアに似たアプローチかもしれない。
 良い悪いではなく、「村上春樹の『納屋を焼く』の映画化」というよりも「イ・チャンドンの『バーニング劇場版』」だ。

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