障害者とか、腐女子とか。の話。

人は生きている限り、変わっていくと思う。それは前向きでもあるし、不本意なほうに傾くような不条理な出来事にも出会うかもしれない。とにかく、動き出せば変わるものだと経験則で私は知っている。

その上で、軸に置く自分、変わりきれない自分を見ておくことも必要だと思う。素朴な私もそろそろと老いを認めようかなと思っている。きらきらで欲に溢れたギラギラの女子高校生の生気に当てられてしまったくらいだと自覚はしようと思う。かわいいなって思う。でも私はあんなふうにダンス動画を眺めて仲間内で何か気怠けで一心に真似をするひとにはなりたくないって思う。ここでどうしてだろうって考えるのが私だ。だから、考えたことをまとめておく。

1、ジェネレーションギャップ
身も蓋もないと思う。メイクやおしゃれならまだ自身の理解の及ぶ範囲かもしれない。

2、まず真似から入るのに抵抗がある
屁理屈のイケナイところである。取り込めるものは取り込んでおくのが定石である。言葉では解体できるのに、身体が拒否反応を起こしている。いったいどんなわがままなのだ。困る。

3、そもそもなれない
どうして他人と同じようにできると思ってしまったのかな。誤認もいいところだね。(ちなみに本当にダンスは苦手意識を持っていて、学生時代の出し物強制参加を思い出すから)

そんな感じで、私は私を見誤っていることに気づくのだけど、ここで一旦タイトルのお話をしようと思う。

私は障害者とか、腐女子って名前やワードがきらいだ。なぜなら、深度は図れず、実態も、伴う諸般の苦痛もそこには含まれていないように見えるからだ。それと同時に、安易に言葉を無くそうとするのはそれこそ無意味だとも思う。

生きているって最大限の賛辞であり巨根ワードがあるのになぜ積極的に使わないのか?ちんちん??くらいには疑問に思っている。ガバガバかもしれない。まごうことなき社会で過ごされている方へお疲れさまですとありがとうとなんでやねんを添えて私は差し出す。自分の名刺は、自分の言葉であるのだと。

そういうわけで、できないことと、使いたくないものと、自分と他人に丁寧かつやさしく在りたいと思いながら布団にダイブするのである。おやすみなさい。


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