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「やりたいこと」を見つける必要がないとき、どうしますか?

れんこんnote 026

江戸時代は「やりたいこと」を見つける必要がなかった

 現代は、「やりたいこと」を見つける必要があると思われている時代ですが、「やりたいこと」を見つける必要がない時代はなかったのでしょうか。

 あります。
 江戸時代がそうでしたし、明治以降も昭和の初めころまでは、「やりたいこと」を見つける必要がない時代が続いていたのだろうと思います。

 職業選択の自由がなかった時代には、「やりたいこと」を見つける必要がありません。
 長男が家業を継ぎ、次男、三男は丁稚奉公に出されました。
 「やりたいこと」というよりも、生きるために働くことのできる場を探して働くしかなかった時代でした。

 現代は、職業選択を自由にできるようになりましたし、親の家業を継ぐということもあまりなくなりました。
 そのため、「やりたいこと」を見つける必要が出てきたのです。

江戸時代の庶民の楽しみ

 「やりたいこと」を見つける必要がない時代には、庶民はどんなことを楽しんだり、喜んだりしていたのでしょうか。
 江戸時代の庶民の楽しみや喜びはどんなことだったのかと、ChatGPTに聞いてみたら、次のような回答がありました。

 江戸時代の庶民の楽しみや喜びは多岐にわたりました。
 以下はその一部です。

  1. 祭りや行事
     祭りや花火大会などの行事は、庶民にとって楽しみの一環でした。

  2. 浮世絵
     浮世絵は当時の庶民の娯楽として広く楽しまれました。有名な浮世絵師の作品が市場で販売され、人々に親しまれました。

  3. 歌舞伎
     歌舞伎劇場では庶民も手軽に楽しむことができ、劇や芝居が人気でした。

  4. 遊郭や花魁文化
     歌舞や花魁(遊女の中で最も高級な女性)に接することが、特に男性たちにとっての娯楽でした。

  5. 食事と屋台
     屋台や飲食店での食事も楽しみの一環で、庶民は街中でさまざまな美味しいものを楽しんでいました。
     これらの要素が、江戸時代の庶民の日常において楽しみや喜びを提供していた一部でした。

 現代の庶民にも通じる楽しみや喜びです。
 「やりたいこと」が見つからなくても、日常において上記のようなことを楽しむことができたら、愉快な人生を送ることができるかもしれません。

「やりたいこと」を見つける必要がない未来

 「やりたいこと」を見つける必要がない時代が、これから来ることはありえるでしょうか。

 ありえます。
 そんなことを書いた本があります。斉藤賢爾著「2049年『お金』消滅 貨幣なき世界の歩き方」という本です。

 食料とエネルギーを得る費用がかからなければ、あらゆるモノやサービスに値段がつく理由がなくなる。(p68)
 食糧生産の手間の一切を自動化し、自動化された仕組みを動かすためのエネルギーが無料になったら、生産された食料の値段もゼロに近づく。(p71)
 再生可能エネルギーで私たちの生産活動をすべて賄うことを、議論できるだけの材料が今の時点で揃いつつある。(p71)

 食べ物もエネルギーもタダで、あらゆるモノやサービスもタダになったら、「お金」を稼ぐために働かなくて良いので、現代の意味での「やりたいこと」を見つける必要がなくなります。
 夢のような未来ですが、そうした未来もありえると言うのです。

 「お金」が消滅する未来が来るかどうかはわかりませんが、人工知能やロボットの発達とともに、人が働かなくてもよい未来が来るかもしれません。
 「やりたいこと」を見つける必要がない未来では、人はどのように楽しみ、喜びを味わうのでしょうか。
 江戸時代の庶民の楽しみや喜びが参考になる気がしています。

 れんこんnote 019の「やりたいことが見つからない」を読んだ方から、江戸時代の時間観について教えていただきました。
 江戸時代の庶民にとっての「良い時間」というのは、今風のタイパが良いではなく、自分が楽しかった、有意義だったのが良い時間だったそうです。
 「やりたいこと」もその瞬間瞬間で変わるものであり、ずっと変わらない「やりたいこと」という概念はなかったようです。

 「やりたいこと」を見つける必要がない時代が再び来るかもしれません。
 そんなことを夢想してみることも、愉快です。

追伸

 人が働く必要のない時代や「やりたいこと」を見つける必要のない時代がただちに来ることはないと思いますが、100年というスパンで考えると、来ないとは言えない気がしています。
 現在は、子どもたちが「やりたいこと」を見つける手助けをする必要に迫られています。しかし、将来は、「やりたいこと」を見つける必要のないときにどう生きるかを手助けする必要に迫られるのではないかと思っています。

 この2つの手助けは、一見、相反するもののように見えますが、どちらも「自分とは何か」「自分は何に興味を持ち、何に喜びを感じるか」ということを追求する手助けをするという意味では、同じ手助けになるのではないかと思っています。
 どんな時代が来ようが、人々が生き生きと生きることを手助けする教育を築いていってほしいと願っています。

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