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自分と他者を知る旅は、永遠に続く

 自分を知る旅をずっと続けてきたんだなと、最近つくづく思います。
 泣き虫で引っ込み思案の自分が嫌いで天真爛漫な人に憧れたり、「やりたいこと」が見つからなくて困ったり、恋愛を経験して自分が大事にしたいものに気づいたり、さまざまな職で様々な資質能力を発揮させられたりしながら、少しずつ自分を知ることができました。
 でも、自分がどんどん変化していってしまうので、「これが自分なんだ」と納得することはありません。
 おそらく、死ぬときまで自分を知る旅は続くのだろうと感じています。

思春期の関心事は、勉強と恋愛

 思春期の頃の関心事は、「勉強」と「恋愛」でした。
 中学生や高校生の頃は、「勉強」と「恋愛」だけで頭の中がいっぱいでした。

 なぜ、あの頃、頭も心も「勉強」と「恋愛」でいっぱいだったのでしょうか。
 当時は考えてもみませんでしたが、古希になり、少し考えることができるようになりました。

 そして、

「勉強」とは、自分を知ること
「恋愛」とは、他者を知ること

と考えるようになりました。

「勉強」とは、自分を知ること

 小さな子どもの頃、私たちは自分の可能性について、何も知りませんでした。
 自分が求めるものについても、何も知りません。

 さまざまな事柄について知り、いろいろな人と出会い、多くの場所へ行き、多様な経験を重ねていくうちに、自分が面白いと感じるものを知ったり、夢中になったりします。
 それらは、いわゆる「勉強」の枠からはみ出るものもありますが、学校での勉強がきっかけになることが少なくありませんでした。

 私たちが子どもの頃は、学校はさまざまなことを体験させてくれるほとんど唯一の場所でした。
 各教科の勉強も、知らない世界ばかりでした。
 中学生になってテスト勉強が始まりましたが、中学2年生頃までは普段の勉強はテスト勉強とは別物と思っていました。
 小学生の頃は算数の世界が面白く、続いて理科の世界に興味を持つようになり、やがて哲学の世界に心惹かれるようになりました。ちなみに、物書きが面白くなったのは、大人になってからです。

 興味を抱くものや面白いと感じるものに出会い、少しずつ自分の関心や可能性に気づいていきました。
 勉強することで、自分を知ることができるようになったと、今では思っています。

「恋愛」とは、他者を知ること

 私が初めて「恋」を知ったのは、中学生のときです。でも、そのときの恋は、あまりに未熟な恋でした。
 相手のことを知ろうとする恋ではなかったからです。

 大学生になって、本当の「恋愛」を経験しました。その相手は、現在の妻です。
 好きになった相手のことを知り、相手を大事にするようになりました。

 恋愛して初めて、真剣に他者を知ろうと努めました。
 そして、他者を知ることの難しさを経験しました。
 今でも、妻のことを知りえていない自分がいます。

 自分と他者を知る旅は、永遠に続くと思っています。
 ですから、「勉強」と「恋愛」をずっと大事にしていきたいと思います。

自分を知る旅に、終わりはないのか?

 ところで、自分を知る旅を続けてきたのに、なぜ、自分を知る旅に終わりはないのでしょうか。
 他者を知る旅に終わりがないのはわかる気がするのですが、自分を知る旅に終わりがないのは不思議な気がします。

 自分を知る旅に終わりがないのは、定まった自分というものがなく、変化し続けるからだと、私は考えています。
 変化してしまうので、知らない自分に出会うことになってしまうのです。

 では、なぜ、自分は変化してしまうのでしょうか。
 「本当の自分」というものはないのでしょうか。

生命体の世界は、百花繚乱

 「本当の自分」とか「理想の社会」というものは、1つに絞れないと思っています。
 その根源は、生命体の本質にあると考えています。

 生命体は、エントロピー増大に抗い、エントロピー減少に努めます。
 しかし、エントロピー減少には1つだけの理想の形があるわけではなく、無限の種類のエントロピー減少の形があるのです。
 つまり、生命体の世界は、百花繚乱なのです。
 理想は、生命体それぞれ、人それぞれ、人もそのときそのときで違ってきます。
 種により、個体により、個体も時により、百花繚乱なのが、生命体の世界なのです。
 百花繚乱という生命体の世界は、変化し続け、終着点がありません。

 だから、自分を知る旅は終わりようがないのだと、私は考えています。

追伸

 最近、「勉強」という言葉ではなく、「学習」や「学び」という言葉が流行しています。「勉強」とは、「勉めて強いる」ことなので、忌避される傾向にあるようです。

 私は天邪鬼なので、「学習」や「学び」という言葉より「勉強」という言葉の方が、気持ちが楽でいられます。

 皆さんは、「勉強しなさい」と言われたときと、「学びなさい」と言われたときと、どちらがきついですか。
 私は、「学びなさい」と言われたときの方が、きつく感じます。

 「勉強しなさい」には、外面的に勉強する姿を見せれば良いと思っています。何を学び取るかは問われていないので、内面の自由があります。
 しかし、「学びなさい」と言われたら、学び取れと強制されるような気持ちになります。内面の自由が侵されるように感じてしまうのです。

 現在の風潮が「主体性」を強制しているように感じてしまうのも、きっと私が天邪鬼だからなのでしょう。

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