【俳句幼稚園】夏の雑詠〜沖縄忌〜
今年もつつがなく、
慰霊の日がやってきました。
牛島司令官という人が自決して、
沖縄戦が終わった日。
なので沖縄では、終戦日の8月15日よりも、
6月23日の慰霊の日に重きをおいています。
毎年、県内各地で「その日」にあわせて
様々なイベントや展示会が、
「沖縄戦を考える」と銘打って行われます。
先日、見に行った展示会です。
箝口令すなわち
「情報統制」という側面から
沖縄戦を考える展示会。
当時の新聞や遺族の証言、事故の資料など、
見れば見るほど、読めば読むほど
「戦争」が生々しく胸にせまり、
苦しくなりました……。
会場の入り口は、ふたつ。
右:住民の視点
左:実際にあったできごと
わたしは左側から入って、あとから右側を見たんですが、右側の会場内にある年表がところどころ空白になっていて、ゾッとしました。
疎開船だって対馬丸だけじゃなく何隻も沈んでるし、弾薬を積んだ列車だって爆発して、たくさんの県民が犠牲になっているのに、それらが箝口令を敷かれて報道されず、住民は何も知らぬまま、戦意高揚お国のためにと暮らしていたのか……。
沖縄忌公的通知なき報せ
沈没した疎開船は対馬丸だけじゃなかった。
まず、そのことに大きなショックを受けました。
1943年5月26日、大阪から那覇に向かう貨物船「嘉義丸」が、米軍の魚雷攻撃を受けて奄美大島沖で沈没してから翌年の8月に対馬丸がおなじく米兵の魚雷攻撃で沈没するまで、
じつに4隻もの貨物船や疎開船が、米兵に攻撃され沈没していたのです。
その都度、何百人もの子供たちや高齢者が、軒並み犠牲になっていったのでした。
会場には、それらの船に乗っていた、当時まだ小学生や、もっと幼かった子供だった生存者の証言がたくさんありました。
なかでも、読んでて辛い気持ちになったのが、武洲丸沈没事件で、家族全員を失った方の証言です。
武洲丸は1944年9月26日、鹿児島県のトカラ列島・中之島沖で米潜水艦の魚雷攻撃により撃沈されました。
鹿児島県・徳之島の学童や住民ら200人以上を乗せていたそうで、77人の子供を含む計148人が犠牲になりました。
その中には、生後1年未満の赤ちゃんも
5人いたといいます。
引用した記事の、事件のことを紙芝居にした方と南風原文化センターで読んだ方が同一人物かはわかりません。
わたしが目にした証言は、
ざっくり書くとこんな感じでした。
家族の安全のために疎開させたはずなのに、こんな凄惨な事件の犠牲者にさせてしまい、事件の全容を知ることも叶わず、家族がみんな死んでしまったことも認めてもらえない。
ほかの船の沈没事件で、大事な人たちを失った人々の証言も、おおかた、こんな感じだったと記憶しています。
事件のことを口コミなどの噂で知り、県の公的機関のどこに問い合わせてもハッキリした情報は得られず、助かった人もそうでない人も、涙をのんだ人たちがいっぱいいると知りました。
それなのに、当時の政府は事件の数々を報道せず、積極的な疎開を勧めるばかり。
海を渡れば安全に暮らせると信じて疎開した、もしくは家族を疎開させた人々が、あまりにも不憫でクラクラしてきて、会場を一時退室せざるを得ないほどでした。
対馬丸極秘案件沖縄忌
いまでは映画にもなっている「対馬丸事件」
沖縄の子どもたちは、小学校の間に1回は
この映画を観ているはずです。
わたしも3年生の頃、学校の授業で観る機会があって、すっかりトラウマになりました😭
1944年8月、九州に向かっていた疎開船
「対馬丸」が、米兵の魚雷攻撃によって撃沈。
800人近い子供を含む、わかっているだけでも1500人近い民間人が犠牲になりました。
展示会の会場には、当時17歳だった生存者の手紙がありました。
家族の誰が助かり誰が助からなかったのかを報告しているさまが、冒頭から胸に刺さります。
便箋4〜5枚にわたり、事件の詳細が書かれていましたが……。あの映画のようす(漂流していた老人がサメに食べられたりするなど)が頭をよぎり、最後まで読めなかったという😭
「ここに書かれていることを、一字一句漏らしてはなりません。極秘です」
そう結ばれていることは、手紙に添えられた説明文で、かろうじてわかりました。
ちょっと対馬丸事件は、あまりにも惨すぎて、
映画を観てトラウマになったわたしには語れないので、皆さまご興味がおありでしたら、お時間のあるときに、ググっていただければ幸いでございます。
こんな惨たらしい事件、リアルタイムで報道されていたら、世の中はどうなっていたんだろう。戦争終結の方向にいち早く動いて、あとの十・十空襲も沖縄での地上戦も、なかったりしたのかなぁ……。
いやいや、それはわからないですね。
言論統制とか、そういうものがますます幅をきかせて、かえって民間人が身に覚えのないことで処刑されたりして、ややこしくなっていたかもしれないし。うーん。
弾薬も兵士も散りぬ沖縄忌
最後に見たのは、
沖縄軽便鉄道爆発事故の資料です。
戦時下の1944年、弾薬やガソリンを積んだ電車が、南風原町神里あたりで大爆発。
「軽便鉄道」は、県民の通学通勤などの生活を支えていたため、普段からたくさんの若者たちも利用していたようです。
事故当日は、多くの日本軍の兵士も
乗っていました。
その鉄道の、屋根のない貨物部分にガソリンやら弾薬やらをパンパンに積んで走っていたら、機関室から出た火の粉がガソリンに引火。
近くのキビ畑に燃えあがる積荷を放り出すと、そこには弾薬がたくさん置いてあったそうで、これも大爆発。
220人以上の乗客は、
たった1人の生存者を残して全員が死亡。
事故直後に箝口令が敷かれ、地元住民にも口外しないよう指示が出されました。
火気厳禁の弾薬が正しく運搬されず、大惨事を起こしてしまった。結果、多くの兵士の命と武器を失うことになり、「これは軍部の不祥事。漏れてしまってはマズい」ということになったらしいですね。
この過失が、民間人を駆り出して繰り広げられた沖縄南部の地上戦に繋がっていくのでした。
沖縄で生まれ育っていても、こんな事故は聞いたこともなかったし、かつて沖縄でも鉄道が敷かれていたということも、与儀公園に展示されている汽車を見て、「あぁ、走ってたんだぁ」くらいのふんわりした認識しかありませんでした。
そして、事故現場の近くのガジュマルに、医療用のガーゼや犠牲者の肉片がついていたという証言を読んで、倒れそうになりました。
沖縄に鉄道がないのって、
この事件も少し絡んでいるのかしら……。
おまけ
ニュースにはならない事件沖縄忌
米兵の婦女暴行なんかも、実際に報道されているのは氷山の一角というし……。
今だけじゃなく、戦時下でも
そんな感じだったんだなぁ、と
戦慄して帰ってきました。
沖縄戦を語るおじぃ、おばぁや若者たち。
彼らの表情や言葉の端々に、怒りのマグマみたいなものを、いつも感じていました。
この記事を書いていてなんとなく、そのマグマって、怒りだけじゃなくて、どうにもならない無力感とか絶望感などの「やりきれなさ」も
大きいのかなと、ちょっと腑に落ちました。
土地を取られるとか、兵士でもないのに戦地に駆り出される、平穏な暮らしのために疎開したら、とんでもないほどの凄惨な目に遭ってしまうとか。
それらのことだけじゃなく、
知りたいことを、きちんと教えてもらえない。
ひとりでは抱えきれないような大事を、
どこかに吐き出すこともできない。
ということも、生きていくうえで
どうにもやりきれない。
この沖縄には、そういったことが
あまりにも多いんだろうなぁ。
と、展示会で身に沁みました。
だから、とてつもなく
長くなってしまいました。
最後までお読みいただき、
感謝しかありませぬ😢
いただいたサポートで、たくさんスタバに通いたい……、ウソです。いただいた真心をこめて、皆さまにとどく記事を書きます。