砂のお団子、角砂糖

決まって、というほどではないけれど、シティやビジネス以外のホテルで眠ると度々見る夢がある。それは夢というかほとんど思い出で、幼稚園時代のものだ。
私が通っていた園には砂場があって、自由時間には常に何人かが遊んでいた。それまで園では折り紙をしたり絵を描いたりして過ごしていた私は、ある日初めて、砂遊びをしていた輪に入ろうと思った。たしか、昼にした鬼ごっこの興奮が冷めやらず、誰かと遊びたい気分だったように記憶している。
「入れて」
歩み寄って小さく呟いた私を、先に居た4人は仲間に入れてくれた。うち1人の、しゃがみこんでいた腰を浮かせて場所を作ってくれた女の子とは、今でもSNSで相互に繋がっている。
皆は砂山を囲んで、団子を作っている最中だった。私は砂遊び自体の経験が浅かったので、見よう見真似で砂を掴んだ。当たり前のようにあどけない指から粒が流れこぼれていく。
斜向かいの男の子が何も言わないまま、手元にあった原色のバケツにプリンの空き容器を突っ込んで、すくった水を私の手にかけようとした。
もしかしたら、史実ではされるがまま水をかけられたのかもしれないけれど、夢の中の私は咄嗟に手を引っ込める。まだ砂で遊んでいるんだから、手は洗わない。それに、砂にかかったらドロドロになってしまう。園に通う途中にあるアパートの生け垣が雨の日にはぬかるんでいることを、私は知っていた。
隣の女の子が、手の中を見せてくれる。濡れて色が濃くなった砂は、崩れることなく球となっていた。

いつからか、友人たちと遊んだ日の夜は適当な相手と寝て帰らないと落ち着かなくなった。その欲求は楽しければ楽しいほど強く、ほとんど強迫的な日さえある。
念のために断ると、ここでいう“適当な”というのは、雑でなおざりということではない。むしろ丁寧で、私とマッチする人だ。そういう相手は、外れを引く余力のある日に見付けておいて、楽しくなる見込みのある予定が入ると、連絡をして話をつけておく。
今夜はまさにそんな夜で、5年の付き合いになる友人たちとバルでしこたま肉を食べてきた。ある子は彼氏とやっていっているとか、別の子は楽器を始めてみたとか、ファンの球団がどうとか推してるグループのテレビ露出が増えたとか、どこそこのタピオカミルクティーがあまりに美味しいとか。とにかく喋って、とても楽しかったがほとんど話題と見出ししか覚えてない。

そういう楽しい時間の余韻を引きずって電車に乗ると、たまらなく人恋しくなる。飲み屋のあった駅の改札で手を振って別れる時、後ろ髪を、彼女たちのカバンのジッパーに挟まれたみたいに引かれるし、列車が発車する時も、ほつれた心の端がプラットホームに引っ掛かっていて、発車した電車が遠ざかるほどニットみたいにほどけていく感覚に襲われる。自我が世界に向けて拡散していって、自分ちに帰り着く前に原型を留めなく風にさらわれそうな心持ちになる。このままでは一人暮らしの部屋には到底戻れないと思う。

だから、最寄りの2つ隣の駅に相手を呼んである。今日の彼にはこれで3回目のオーダーとなる。彼は性格とか事の運びとかムーブとか、持ち物とかが全体的にシンプルで、それが私の求めるところに合っている気がする。その一方で、シンプルさが特徴になりすぎないところも好ましかった。
フロントでの手続きを済ませる。過去2回、違う種類を選んでいたドリンクを彼は今回、そもそも注がなかった。部屋へ着いて彼に譲ったシャワーの、面白みの無い水音が心地よい。
交代して浴びた温度は私の好みより少しだけ低い。四肢を伝った湯がビタバタと床で弾ぜる。湿気た髪が額に張り付く。
ぬいぐるみみたいな表情をした彼がいるベッドにもぐり込む。煙草も吸わず香水もつけない彼の腕の中を楽しむ。ほとんどを占めるボディーソープの香りは、私から漂うそれと同じだ。

これからの数十分で、私は自分を思い出す。彼の指がなぞる輪郭を自覚しながら、ほの暗い部屋の真ん中で、意識と感覚に心を委ねる。どれほど深く触れようと混ざらない個を確かめる。
紅茶の中の角砂糖みたいに拡散してしまった自我を、泥団子みたいに固める。
そのために必要なのものは、少しだけ濡れていることと、まぜてもらうように小さな声で囁くフレーズ。

私はそのどちらも既に、幼稚園で学んでいる。

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