小林秀雄(1)——不況のなかの批評

批評家たちが吐息をついたにしろしなかったにしろ、今日まで批評が綿々としてうち続いて来た事実は如何ともしがたい。ではなぜつづいたか。批評に科学性があったからだ。ある批評家が少なくとも一人の読者を持ち得た事情は批評の一般科学性を孕む

「マルクスの悟達」『新訂 小林秀雄全集 第一巻』、新潮社、一九七八年、
一〇〇ページ、旧仮名・旧漢字は改めた

1 小林秀雄について書くこと

 ひとはものを書くまえに、そもそもなにを書くのかを選べる。だから、なにを書かないかも選べる。まだなにも書かれていないエディタの画面を前にして、私は手元の『小林秀雄全集』からうえの一文を記すことを選んだ。

 つまり、これまでは書かなかったことを書くことを選んだ。そう、これから小林秀雄について書こうと思う。

 小林秀雄は一九〇二年に東京の神田に生まれ、一九八三年に東京新宿の慶應義塾大学病院で亡くなった。年譜をみてもその生涯のほとんどを東京で暮らしたことがわかる。

 翻訳をし、批評を書き、雑誌の同人や責任編集を務めた。美術品や骨董品の収集家・鑑定家としての側面ももちあわせていたようだが、その側面のエピソードを私はよく知らない。

 一九三〇年に雑誌の『改造』に「様々なる意匠」が掲載され実質的なデビューを飾った。同論文は同誌の懸賞論文に応募されたものだった。二等入選作だった。

 そのあと文芸時評をはじめる。デビューしてしばらくの時期は、内容はさておき、形式としては「ジャーナリスティック」とくくられる文章を書きつづけた。

 そのうちいまも残る文芸誌『文學界』の編集同人を務めることになる。そしてしばらくすると編集責任者になる。自身が編集する雑誌上で「ドストエフスキイの生活」という文章の連載を開始する。いろいろなことがあった。らしい。「ジャーナリズムに疲れた」といって雑誌の編集を降りる。

 同時に別の雑誌で文章を書くようになる。小林の作品としては、それらの文章が結実したもののほうが有名だ。『モオツァルト』『ゴッホの手紙』『近代絵画』『考へるヒント』『本居宣長』など。日本において文芸批評という表現形式を確立した人物だとされる。

 なぜ私はこれまで小林秀雄について書かなかったのか。誰が止めるというわけでもない。別に書いてもよかったのだ。という話は百も承知のうえで、それでも書かなかったのは、ひとえに荷が重いからであるし、自分が書かずとも誰かが書くと思っていたからだ。

 まったく他人任せなものである。はたして同年代の書き手が小林秀雄について書くことはなかった。なので書くことにした。

 なぜ小林秀雄について書くのか。

「批評」というものを根本から考えなおしたいと思ったからだ。批評を根本から考えなおす。そのようにしてはじめられた仕事は多い。私もそれらの仕事から多くを学ばせてもらった。

 しかし「批評を根本から考えなおす」ことを目的とした本を読み、考えることと、自身の五感でもって「批評を根本から考えなおす」ことは異なる。紙一重というものではなく、崖の両岸ほどの隔たりがある。

 むろんどちらにも楽しみや苦労はあって、今回はこれまで経験したことのないような苦労や楽しみを経験したくなった。そのような作業を進めるには、小林秀雄の仕事とともに歩むのがよいと思った。

 しかし、なぜ「批評を根本から考えなおす」必要があるのか。

 哲学者の東浩紀は一九九九年に「棲み分ける批評」という文章を以下のような書きだしではじめている。

「批評」という言葉はいまや形骸化している。つまり現在書かれている批評文は、かつて小林秀雄に象徴されていたような知的かつ社会的な機能を失っている。おそらくこのような実感は、いま論壇誌や文芸誌を手に取る読者の多く、そして何よりも少なからぬ書き手と編集者たちに共有されている。

東浩紀「棲み分ける批評」、『郵便的不安たちβ』河出文庫、二〇一一年、
一一ページ

 この一文が記されたのは一九九九年である。いまから四半世紀ほど前のことだ。東氏はこの文章を記したあとなんども「批評」という表現形式について再考している。後進を育てるための仕事もした。しかし所与の前提として、ここに記されたように「批評はすでに形骸化している」という認識はあったと思う。

 ところで一応言い訳として記しておくと、ここで東氏の言葉を引いたのは、そのような「批評の形骸化」という状況をまえにして、その形式を再考し、後進の育成まで行おうとしたひとを、私がほかに知らないからである。

 無から有を生みだすことはできない。語られていないことから語られたことを引きだすことはできない。すくなくとも私にはできない。そして私は知っていることしか知らない。

 だから私が知るなかで、もっとも直近で、批評という表現形式について診断を下しているひとの言葉にのって、もう少し考えてみたいと思う。つまりは東氏のこの言葉についてもう少し考えてみたいと思う。

 東氏の言葉によれば一九九九年時点で「批評」は形骸化していた。くわえてそこには「いまや」という言葉がついているのだから、

 当時の東氏の考えでも、それ以前から形骸化はしていたのだろう。形骸化、つまりその表現が存在することの本質的な意味は失われいた。なぜかはわからない。それっぽい理由はいくらでも思いつくが、どれが本当なのかはわからない。

 しかし、実際問題として「批評」というものは現にある。「何々の批評」という文章は、とはいえ、それなりに存在しているし、たとえばコンビニエンスストアの雑誌コーナーに行くと『家電批評』という雑誌があったり、大型書店に出向いて雑誌をパラパラとめくっていると「~批評」というコーナー名などは、意外とすぐに見つけることができる。

「そんなものは批評ではない!」と言うひともいるだろうが、とはいえ、それを批評として書くひとがいて、そしてそれを批評として読むひとがいて、商品として提供する雑誌がある、という事実を否定することなどできようはずもなく、まあ、いろいろともってまわったいいかたにはなるが、批評は現にある、としかいいようがない。

 では、一九九九年に東氏によってくだされた「批評は形骸化している」という診断は、もちろん批評について書かれているのであるから、その言葉から目を離すことはできないものの、とはいえ、後段の文章とあわせて読んだときに、はじめて読み解かれるべき診断としてあらわれるのだと思う。

 つまり、批評は「かつて小林秀雄に象徴されていたような知的かつ社会的な機能を失っている」。

 そのような機能、そして機能に伴う緊張を伴ったうえで、仮に「批評」という言葉で呼ばれていた表現の形式、あるいはスタイルが、このとき形骸化していた、ということだろう。

 こちらもまた「形骸化」というくらいだから、あることにはあったのだ。そしていまもあるのだろう。ただ存在理由を失い、生ける屍のように彷徨っている。

 ところで、この世界での存在理由を失ったさいに一番困るのは食えなくなることだ。世界というのは、人間とその意識の集合であり、そして人間とその意識は「必要」という酷薄な目で、世界を裁断する。その公平さが私は好きだ。

 いちおう言い訳をしておくと「好き」なだけで、「良い」と思っているわけではない。そのあまりに酷薄な公平さに私が苦しめられることもあるし、実際に多くのひとを苦しめていることだろうと思う。

 それが「好き」なのは、あまりにわかりやすい基準であるためだ。ひとを苦しめる標準のなかには、なかなか姿をとらえられないものもある。そして「良い」とも思っていないのだが、しかし、その酷薄さが人間そのものの酷薄さに由来している以上、正直それに対してどういう体勢をとっていいのかもわからないのである。まさか、私は人間が嫌いなもんで、とも言えないのだ。

 さて、話を戻すと、必要とされないものに、価値は充填されず、価値がなければ、それを資本に経済活動を行うことができない。経済活動を行うことができなければ、日銭を稼ぐことはできず、日銭を稼げなければ、この世に五尺の身体の置き場を失って、人間存在と可燃物のあわいをさまようことになる。いやはや。想像するだに空恐ろしいことである。

 一九九九年時点で、小林秀雄のようなスタイルの批評は形骸化していた、というのは、要はその表現だけでご飯を食べることができなくなっていた、ということだと思う。その当時私は物心もついていなかったから、実感としては知らない。ただ想像はできる。「無理だろうなあ」と思う。

 そして今度は一九八〇年代前半あたりの、批評家と呼ばれていたひとたちの文章を読むと、今度はその景気のよさに驚く。たしかにその頃なら批評文だけで食っていけてるひとがいたのだろうなあ、とも思う。むろんみんながみんなそうだとは思わないが。そういうひとがいたことはいたのだ、と思う(大学生のころ、とある批評家の文集を読んでいて、それは一九八〇年代に出版されたもので、そのなかにとある講演文が収められていて、そのなかで「まあこの講演の講演料は八〇万なわけですが」みたいなことが言われていて、目玉が飛びでるかと思ったことがある)。

 こういう話をすると「バブルだったんだよ」と言われることもある。そうなのかもしれない。いや一般的な意味での「バブル経済期」とも重なっていないし、なんなら出版バブルとも重なっていないぞ、と思ったりもする。

 そしてどれだけ景気がよくても同じ国内で貧困にあえいでいたひとはいたのだから、やはり、その時代にはその時代で、歪んではいたのかもしれないが、特定のスタイルの批評に対する「必要」があったのだと思う。あいかわらずなぜそうなっていたのかはわからないのだけれども。

 この文章は、小林秀雄の文章を読みながら、その必要の姿にすこしでも迫ることを目的としている。なぜある時期に小林のようなスタイルの批評が必要とされていたのか。その表現で食べていくことができたのか。それを小林の文章を読みながら考えたい。

 それを客観的に分析する方法もあるのだろうが、私の能力的にそれはできないし、まあ、やれることといえば文章を読んで考えるくらいのことなので、私は私のやり方でやろうと思う。

 生きていて、それなりに歳を重ねれば、自分のなかにひとつやふたつは信念というものが生まれる。自分が生きるうえで、ゆるがせにできない指針のようなものだ。その信念のひとつに従って、この仕事は進められることになる。その信念とは「過去のひとは、間違ったわけではなかった」というものだ。

 むろん日常生活のなかで「あのときの判断は間違っていた」とかいうことはある。しかし、その瞬間にはその瞬間の論理というものがあって、その場にいればそれが選ぶべきことだったという理由で、ひとはなにがしかを判断し、その判断の積み重ねによって歴史は編まれてきたのだと、私は考える。

 いまを生きる私たちにできることは、過去の人間がどのような環境に置かれ、どのような選択肢が目の前にあり、そのときどのような心情をもっていて、そしてあるときにはなにかが最善の選択と思われた、しかしそれをいまの視点から見返すと、まったくもって視野狭窄としかいいようがないのであるが、ただそれを指摘しても、過去はどうすることもできないので、そのような実例の分析を重ねることで、次に我々が似たような判断をくださなければならなくなったときに、同じ構造の狭窄に巻き込まれないようにする、ということしかない。

 だから私は小林の批評文のような表現がある時代に必要とされたことには、それだけの理由があるし、その理由は小林の文章のなかにあると考えて、以降の読解を進める。

 マルクスが『資本論』のなかで分析したように、商品には使用価値を規定として交換価値がつく。なにも使いようがないものに値段はつかない。

 文章でも同じで、その文章自体になにかの価値があったからこそ、必要ともされたし、必要とされたことによって、その文章を書くひとがその時代のなかで生きることができたのだ。

 ところで、そのような信念はもはや「信仰」に近い。そして信仰に対する最近の風当たりは強い。とはいえ、あとから「どのような枠組みに従って小林を読んでいるのですか」と聞かれても説明が面倒くさくなるだけなので、あらかじめ以上のような信念あるいは信仰にしたがって、私は小林を読むのだということは明かしておく。

2 小林秀雄を読む私

 さて、いきなり小林を読みはじめてもいいのだが、初回にしては、わりに中途半端な文字数になってしまっている。最初は「様々なる意匠」を読もうと思うのだが、それをはじめると分量が多くなりすぎる。それは避けたい。

 くわえて「いろいろつらつらと書いてはいるがよ、お前は誰なんだよ」という声が聞こえてくる気がしないでもない。だから残りの紙幅は、その疑問に答えるあれこれを書いて、今回はおしまいということにしておきたい。

 私は文章を書くひとで、音楽を作るひとで(とはいえ、曲を作る才能はからっきしのようで、相方の曲の半分にいつも詞を載せさせてもらっている。ありがたいはなしだ)、話すひとだ。編集人として同人誌をだしたりもしている。

 そろそろ故郷である熊本を中心としたコミュニティペーパーを出版したりする、という話もきく。近しいひとが出しているフリーペーパーの編集を手伝うようになる、という話もきいている。マンガ教室に通っているという話もきく。日中は仕事でプログラムを書いている。それも大枠でみれば文章を書く人、というくくりにいれられそうだ。

 つまり私は文章を書くひとだ。しかし文章といってもいろいろある。どんな文章を書いているのか。はたして茫漠としている。

 小林秀雄について、なにかをこれから書こうとしているのだから、「批評」を書いているのではないか、と思われるかもしれないし、実際、私が書いている一部の文章は「批評」と呼ばれうるものだと思う。「強いていうなれば」という冠はつきまとうが。

 なんだか振り切れていないのは、私自身が「批評」という言葉に対してアンビバレントな感情を抱いているからで、自分の生みだした文章にいまだ適切な名前をあてられないでいる。

 だから小林秀雄について書き、批評について考えるのは、私自身のなかの「批評」という言葉にたいする複合感情を解くためであって、要は心すっきりさせるためだ。

 そのアンビバレントの内実とはこうである。「私は批評とよばれうる文章を書いてはいる。しかしそれで飯が食えるわけでもないのに、なんでそんなことをしているのか?」

 ものすごく稀な時代に生まれていれば、このような問いにかかずらう必要はなかったのかもしれない。

 とにかく批評を書いて、書いて、書きまくれば、食える。そういう時代に生まれたかった気もするが、しかしそんな時代は本当に稀で、そんな稀な時代のなかにいて感覚が鈍麻してしまうくらいであれば、いまのままでもいいとも思う。奇しくも小林秀雄が小説について似たようなことを書いている。

今から一世紀以前といえば、ちょうど為永春水が盛んに書いていた頃である。彼もまた一八三〇年代の先端を切った男であった。私は「梅麿」と「放浪時代(引用者注:龍胆寺雄の小説。現在は講談社文芸文庫に収められたものが入手しやすい)」を比較しようなどとは思わない。ここで話に必要なだけを抽象する。春水の生きた時代は、恐らく日本文学史上で、芸術が最も大衆に近づいた唯一の時代であった。こういう時代に享楽小説が唯一の小説形式であったことは言うを待たぬ。こういう時代では、優れた作家も、この世での作家たる覚悟をしかと定める必要もない、その制作過程に倫理的影も必要としない。すべては趣味であり、趣味を持つことが生きることであった。

「物質への情熱」『新訂 小林秀雄全集 第一巻』、新潮社、一九七八年、九五頁、旧仮名・旧漢字は改めた

 景気がいい、という使い古された言葉を使おう。つまり景気がよければ、作家はなにも考える必要はない。小林の活写する享楽小説全盛の時代。「日本文学史上で、芸術が最も大衆に近づいた唯一の時代」。

 まあつまりは作家が食うに困らなかったという理想郷として、小林はその時代を設定している。実際にそうだったかは置いとくとして、そのような仮定をおいたうえで小林が書くことを読もう。

 そのような時代には、作家は(一)作家である覚悟を決める必要がない(二)制作にあたって倫理の問題を考える必要もない。では、時代がそうでなくなれば、どうなるのか。そのふたつの問題を考えなくては、ひとは作家になれなくなる。そう小林は書いている。

 作家である覚悟と制作における倫理の問題。冒頭で正岡子規の「歌よみに与える書」をとりあげ、そして当時の作家の「先端女性(なんというか、まあ、当時イケてるとされていた女性たちのことである)」の描き方について批判をしている小林のこの文章は、そのようなふたつの問題を取り扱ったものだ、と要約してもさしつかえはないだろう。そしてその背後に景気の問題がある。

 いうまでもなく現在、批評文だけを書いて生活できる人間などいない(いや、もしかすると、いるのかもなあ、とも思ったがとりあえずいないということにしておこう)。

 しかし、これは批評という表現形式にかぎらずとも、小説であれ、音楽であれ、芸術であれ、似たようなものだと思う。

 しかし厄介なのは、批評の場合は、すこしまえの時代にそれができた世代がいたということだ(ほかの領域については知らない)。

 一〇〇年ほど離れていれば、別に気にもならないのだろうが、五〇年を割ってくると話が変わってくる。一言でいえば、その世代が仮想敵としての実体をもつ。

 私もそのひとたちが著した文章を読んでいるし、それを読んだことのある読者層に向けて、自分の文章を問わなければならない。そのひとたちが著した文章と自分の文章とを競わせなければならない。

 あたりまえだが、それぞれの時代によって書き手の出発点は異なる。その時代のひとには、その時代の苦労があり、もしいま私が生きる時代をみることができたら羨ましがるだろうなあ、とも思う。なぜなら、私が過去の世代をみて羨ましいなあ、と思っているからだ。

 しかし食えるか食えないかというのは大きな違いだ。もうすこし穏当な言い方をすれば「批評文を売れるか売れないか」という違い。

 現在、そもそも批評文は売れない。市場がない。新人賞もない。出版社や新聞社が運営するサイトには「~の批評」という文章が載ってはいるが、どのような経路をたどれば、そこに文章を載せられるのかもわからない。あとどれくらいお金がもらえるのかもわからない。

 それでまあ地道にやっていきますかと、批評文に原稿料を出し、それを雑誌というかたちで回収しようと、自分で同人誌を出したりすると、局外者からは「ビジネス感覚が強すぎる」とか「お前の文章でその値段は高くね」みたいな嫌味を言われる。

 くわえて私の世代は、クリエイター信仰も強ければ、学問に対する信仰もなかなかに強い。となると同世代の人間からは「本当にいい作品を作れば売れる、売れないのは作品が良くないからだ」とも言われるし、「そもそもお金のことを考えることと知的な営みは相容れない」とも言われる。

 いやはや。私はこの世に居場所がほしい。五尺の身体の置き場がほしい。そしてその場所は自分がしたいこと、自分が表現したいことをやった結果として獲得したい。私は文章を書くのが好きだから、文章を売ることでその場所を確保したい。趣味ではなく、生活の手段として文章を書きたい。

 はたしてデフォルトでそれは無理なのだから、どうすればそれができるかを考えなければならない。だから「お金と知的な活動」が云々という言葉には耳を傾ける暇がない。

 そしていつかくる傑作を待っていては、明日の生活も成りたたなくなるので、どうすれば有りものを売ることができるか、それを考えなければならない。傑作はいつか書けるのかもしれないが、そのまえに死んでしまっては、元も子もないのだ。

 みたいなことを考えているわりには、これまで文筆だけで生活を成りたたせられたことなどないし、過去五年で白詰草的な文章を書き、その原稿料をとりっぱぐれたこともあるのだから、まったくもって貫徹はできていないのであるが、しかし、まあそのことを考えることをやめたことはない。

 自分の書いた文章を売る覚悟、そしてそのためにどのような営業の姿勢をとるか。それが景気の悪い時代にあって、作家としての覚悟を示すひとつのやり方だと私は考えている。

 そして景気の悪い時代にあって、作品を売るということは、即座に倫理の問題を呼び起こす。なぜか。相手もまた景気の悪い時代を生きているからだ。

 その手に握られているのは泡のような銭ではない。そのひとの生命力の結実だ。

 はたして自分の作品はその実と交換できるようなものなのか。どれだけ内容に自信があって、どれだけひとから褒めそやされても、まだ自分の知らない買い手に対して、自分の作品を売るときには、そのような不安が必ず呼びおこされる。

 つまり景気の悪い時代にあっては、小林の書く制作過程における「倫理的影」は原理的に消えない。

 快く、自信をもって作品を売るためには、そのような影に対する防波堤を作品のなかに、表現として織りこまなければならない。

 世評や自負は、見知らぬ買い手のまえでは、何の役にもたたない。そして見知らぬ買い手に売りつづけなければ、景気の悪い時代のなかで、作品を売って生き続けることはできない。

 そして、小林秀雄というひともまた、同じような状況のなかで文章を書きはじめたひとなのではないか、と私は思っている。

 それが私がいま小林秀雄について書こうと思った理由だし、どういう意味で状況が似ているのかということについては、小林の初期の時評的文章を読みとくなかで書いていきたい。

 いささか暗い話になったが、そう、こういう暗いことを常に考えている人間が、畢竟、私である。正直、自分でも「付き合いづらいひとだなあ」と思う。

3 小林秀雄を読むには

 いや。暗すぎではないか。よくないと思う。なんというか。すくなくとも「船出」という感じがしない。出港してから一〇秒後に沈没してしまいそうな勢いである。船もギシギシしてるし、曇天の空もなにかいいたげだ。これは本当によくない。

 さくっと気分を切り替えて、そもそも小林秀雄をどう読むか、という話の入り口の入り口の話をしておこう。

 まず私は一九九四年の生まれなので、同世代で小林秀雄を読んでいるひとというのは、ほとんどいなかった。

 では、なんで読むことになったのかというと、大学時代のお師匠さんに読めといわれたからだ。それまではさきほどひいた東浩紀氏の文章や、柄谷行人氏らの文章で「存在は知ってる」という程度だった。

 お師匠さんがいうには「お前は批評、批評というが、俺らの世代で批評といえば、小林秀雄だった。大学入試の国語の問題には必ず載ってたし、それで部分部分を読んで面白いとおもったら、新潮文庫で買って読んだんだよ」みたいなことを言われた。

 そのあと「それで小林秀雄も読んでないのに、お前はよく批評、批評と言ってられるよなあ」みたいなことを言われて「たはーっ」となったあと、一念発起して大学の図書館にこもって、全集を読むことにしたのだった。

 それで読みはじめてみると、すこぶる面白く、大学時代で暇だったというのもあると思うが、たしか一月もたたないうちに、全集を一通り読んでしまった。

 それでこれは「小林秀雄をおもしろく読める俺すげー」という話でもなく、小林秀雄の文章はとにかく「おもしろい」のだ。この文章はそのようなおもしろさを一片でもいいから伝えたいという試みでもある。

 そういうふうな成り行きで私は小林秀雄を読み、そのおもしろさを感得した。

 ではいま小林秀雄を読むには、なにから読むといいのか。

 たぶん手に取りやすいのは新潮文庫に収められた作品たちだと思う。一冊読むだけでもおもしろさは十分伝わると思うが、私の好みということで『近代絵画』を推しておく。

 小林秀雄というひとりの作家を総合して楽しもうとする場合は、やはり全集にあたるのがよい。

 しかし最新の全集を揃えると、なかなかに値が張る。「作品集」という括りで、旧仮名・旧漢字が改められていて、編集部による欄外注のついている版もあり、それもまだ新品で手に入るのだが、いささかお高い。

 小林秀雄で文章を書こうとするひとや研究しようとするひとは買ったほうがいいと思うが、とりあえず小林秀雄の作品を総合して読みたいのだ、という場合は、私が引用に使っている『新訂 小林秀雄全集』を古本で手に入れるとよいと思う。「日本の古本屋」というサイトにいって検索すると、全巻揃いで一万円以下で手に入れることができる。

 そして「全集」というから構えてしまう気持ちもあると思うが『新訂 小林秀雄全集』は文字の級数も大きく、余白の大きな一段組みになっていて、実際はすこし厚めの文庫本程の文字量しかない。それで全一六巻なので、ふだん本を読まないひとも、すこしチャレンジできるレベルの分量だ。

 あと、この「新訂」版は、小林秀雄の研究文献などでもよく引用するために使われているので、原文と照らしながら研究書を読むさいにも役にたつ。

 とはいえ、旧仮名・旧漢字であるし(それは最新の全集でも変わらないが)、そもそも面白く読めるか、ということは保証できないので、いちおうそのような選択肢があるということを示すにとどめておく。

 小林秀雄について論じた文章はたくさんある。挙げきれない。だから、そのなかでまた私がもっとも推したいものとして、江藤淳の『小林秀雄』をあげておく。書籍版は絶版となっているようだが、Kindle版がある。手に入れやすい。

 と、初回はこんなところである。次回は途中でも予告したとおり「様々なる意匠」を読む。

第2回→https://note.com/illbouze_/n/n6fd74188f8ac


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