見出し画像

恋と染み

 夏になると西瓜とインクの匂いを思い出す。

 大学二年の五月。僕が伯父の家で居候を始めたのはその頃だった。自宅から二時間の通学時間に耐えかねて、伯父に助けを求めたのだった。伯父の家は僕の通う大学から自転車で通える距離で、その大学には伯父の息子、つまり僕から見た従兄弟である大輔も通っていた。
僕に宛てがわれたのは伯父家族が『おじいちゃんの部屋』と呼ぶ亡き祖父の部屋だった。畳張りで床の間に掛け軸など掛かっている純和室で、古いけれど、入るといぐさのいい匂いがする。この家はこの部屋に負けず劣らず今時珍しいような日本家屋で、お寺にあるような長い廊下があり、庭に面する部分には縁側もあり、祖母はまだ普段着として着物など着ている。
祖母は小柄な人で、遠目に見ると瓢箪が着物を着ているようだ。近所でも有名なお婆ちゃんだったが、そんな祖母は、僕が小さい頃からじっくりと顔を見つめて、
「似ていなさる」と言う。
僕が祖父によく似ているというのだった。その『似ていなさる』のおかげか否か、僕はこの祖母からも伯父家族からもよくよく可愛がられていたように思う。
越してきて数日、僕が荷物の整理をしていると大輔が得意げな様子で部屋に入ってきた。今晩友人たちと酒を飲むから僕にも来いと言う。断ると、女も来るからと食い下がった。まず一人胸が大きくて明るい、もう一人は頭がいいし顔も女優の誰それに似ている、もう一人は小柄で笑顔がよく何にでもころころとよく笑ってくれる。下手なドラマのような修羅場は御免だから言っておくが、自分はこの三人目の子を狙っているからどうか好きになってくれるなと大輔は語るのだった。
僕は大いに笑いその飲み会に興味を持ったが、やはり断った。転居したことで大学に提出せねばならない書類が幾つかあったのだ。
大輔を見送った後、書き物机に書類を広げながら僕はまた少し笑った。幼い頃から一緒にいた従兄弟の女の好みを垣間見た気がしたからだ。一緒にカブトムシなんか捕らえて喜んでいたあの大輔が。
(一緒に居て、笑ってくれる女が好きなんだな、あいつは)
女の趣味か。
自分はどうだろう。高校時代付き合っていた恋人とはいつの間にか連絡を取らなくなってしまっていた。
髪は暗く、短いのがいい。風が吹くとたまに耳が見えるのが僕は好きだった。顔立ちにあまりこだわりはないが、派手であるよりはかすみ草やすみれのような控えめで可愛らしいのがいいかもしれない。
僕は試し書きをしていた紙を裏返し、さらさらとそこに女の絵を書いた。気負いなく描いたからか存外上手く描け、紙の上には、何処か寂しげな黒髪の美女が映し出されている。僕はその絵が気に入った。
大輔を除いた伯父家族と晩飯を取った後、部屋に帰ってきて気付いたのだが、この絵がなくなっている。そこで僕は昔祖母に聞いた話を思い出したのだ。
僕も大輔も幼い頃はこの部屋を恐れていた。この部屋には座敷童が出ると祖母に言われていたからだった。祖母が祖父から聞いた話によると、それは彼の小さな頃からここに居て家を守ってくれているのだという。祖母も、祖父がまだ存命の時はふとした折に、よく何かの影を見たと言った。
祖母はいつも恐ろしい剣幕でそれを話すので、僕らが部屋で悪戯するのを防ぐためだと思っていたが、あながちほらでもなかったのかもしれない。だが、僕は悪い気はしなかった。他の書類ならともかく、それらを放っておいて悪戯描きを好んで持っていくようなお化けなら、可愛いものだ。実物の女を億劫がって理想を紙に描いているような僕に丁度いい。その後も時々この部屋ではおかしなことが起こったが、僕はあまり気にならなかった。

大輔とは学部もキャンパスも違っていたから、彼のお目当ての女の子達とも僕は暫く接点がなかった。
初めて会ったのは夏のことだ。
大輔が仲間を呼んで家の庭で花火をするというのでこの時は僕も混ざった。女たちは皆浴衣を着てやってきて、この絵に描いたような夏の情景を皆して写真に切り取っていた。そこに彼女がいたのだ。
梅の木の下に少し寄りかかるような形で、騒ぐ面々とは少し距離を置いて、彼女は立っていた。黒い髪を顎の辺りでちょんと揃え、派手ではないが美しい可憐な顔立ちで、浴衣も他の女達の色取り取りの物とは違って、一人、母か祖母にでも借りたような落ち着いた紺の古典を着ていて、それがよく似合っていた。
僕がじっと見つめると、彼女は気が付いて少し困ったような、気恥ずかしそうな笑みを浮かべた。僕は彼女に惹かれていた。
伯母が切り分けた西瓜を運んできた。花火の片手間皆が口々に運ぶ中、彼女はいつまでも梅の木の傍から離れないので、僕は手招きをして彼女を呼び寄せた。
僕は皆から少し離れて西瓜を勧めた。彼女が西瓜は苦手だと言ったので、僕が代わりに食べながら僕らは少し話をした。学生らしい他愛のない話を。
「ここでは騒がしくて声が聞こえないから、中で話さないか」
彼女は頷き、縁側で草履を脱いで上がった。誰か私の分の西瓜食べたでしょう。そんなことを言って、誰かが騒いでいる。僕らはそんな喧騒を尻目に暗い廊下の隅でそっと手を繋いだ。
それから僕と彼女はよく会う仲になった。僕は色々と遊びに誘ったが、彼女はいつも遠出を嫌がり、近くを散歩することを望んだ。家の近くや大学の近く、すぐ傍の河原の辺りなんかを僕らはよく歩いた。彼女は汗一つかかずずんずんとよく歩き、僕がお茶に誘っても断るのだった。これには僕も驚いたが、彼女と歩くのが僕は好きだった。彼女の笑顔や、少し困った顔や、日差しを眩しがる細めた眼差しなどは僕の心に甘く刺さるのだった。

それから一月ほどしたある日、支持している政治家の講演会があるからと言って伯父たちが揃って家を空ける日があった。大輔はその情報を仕入れるなりあの手この手を使って例の彼女と旅行の手筈を整えてしまい、授業終わりにそのまま関東に旅立ってしまった。家は案外祖母がその辺りには厳しくて、目を光らせているのだ。羽目を外すのに格好の日だったわけだが、しかしそれは暗に『家はお前に譲ってやる』という大輔の優しさでもあったかもしれない。
その優しさを有難く頂いて、僕は彼女を部屋に招いた。僕はだらしないふりをして、布団を敷いたままにしていた。彼女はその布団の傍に無警戒に座った。窓からの西日が彼女の頬を染めていた。僕は彼女の隣に座り、その頬に触れた。僕らはまだ口付けをしたことがなかった。僕がそっと顔を近付けると、彼女はそれを制した。
「あの、お慕いしています、本当に……」
僕は少し驚いた。一緒に散歩をしていたのも手を繋いだのも、好き合っているからに違いない。僕は言うまでもないと思っていたのだ。いつからだろう。恋に答え合わせをしないようになったのは。
僕は晴れやかな気持ちだった。彼女の純粋さを改めて知った気がした。またその純真さが僕の中にも甦った気がしたのだ。
僕も好きだ。そう言って口付けた時だった。柔らかいと思われたそこに予期していた心地よさはなく、代わりにべったりと濡れた感覚が口に残った。咄嗟に口を離し、拭うと、手の平が黒く汚れる。インクか何かのようだ。彼女を見ると、なんとその唇がなくなっているではないか。
彼女はそれを知っていたようだった。悲しげに瞳を歪めて、ぽろぽろと涙を溢し始めた。大粒の真珠のような涙。その涙が落ちた所から彼女が滲んでいく。顔を覆った手の平、衣、膝の上。黒く滲んで彼女の輪郭が、彼女の色がなくなっていく。
「待って、泣かないで」
しかし遅かった。彼女は見る見るうちに形をなくして、布団の上に残る真っ黒な染みになってしまったのだった。
その日から僕の部屋で起きていた不思議な出来事はぱったりと止み、それと同時にこの家に悪いことばかりがよく起こった。庭の梅の木に落雷があった。大輔がバイクで事故を起こした。伯父の会社の製品に不備が見つかり、暫く謝罪行脚の日々だった。僕はその度、内心では自分のせいだと思いながら、結局この事を大輔にさえ打ち明けられなかった。よくある怪奇と同じく、誰に尋ねても彼女の存在を覚えている者はいなかったのだ。
大学の卒業が決まり、部屋の荷物を纏めた時に、押し入れの奥底から一枚の紙きれが出てきた。それはここの住所や大学の学部などが乱雑に書き散らされたあの日の試し書きだった。しかし、裏返してもそこに女の絵はなかった。まるで抜き取ったかのように。僕は、ずっと分かってはいたが、確信となった彼女の正体に微笑した。寂しい微笑だったと思う。
彼女は全て知っていたのだろう。
口付ければ自らの唇が消え去ってしまうこと。全てが明らかになってしまうことを。
声の消える前に愛を紡ごうというその心、消えると知りながら口付けを受け入れたその心、その健気さが数年と経った今でも僕の心にインクの染みのように鮮明に残っている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?