見出し画像

哲学っぽい事をしてみた。

本質とケースバイケース
高校時代と今
大学受験の現代文
多様性の力
死の淵にみる解答


「本質」っていう単語と「ケースバイケース」っていう単語は一見相性が良くない組み合わせだと思う。

今一度、単語の意味を整理する為に辞書を引いてみると
本質とは

物事の根本的な性質・要素。そのものの、本来の姿。

との事。本質という単語を意識し始めたのは高校生くらいだったと思う。なんか響きがカッコいい。「本質を見極める」とか少年誌のセリフにありがちだ。カッコいいからだ。

僕の中で今、辞書を引くたった先程までのイメージは「⇒○」の"○"だ。どの方角からの"⇒"も必ず"○"に辿り着く。言語より記号のイメージだ。

なので"○"を知っていると、どの方角ですら"⇒"の道筋を逸れることなく○に辿り着ける事になる。○は心の拠り所であり全てが還る場所なのだ。全てが還る場所なのだから○はこの世で一つだ。○がいくつもあれば「全てが還る」のではなく「一部のみ還る」という事になるので、○は僕の中では一つだ。

31歳まで生きてきて、○がなんなのか歳を取れば取るほどわからなくなっている。なぜかというと、先に取り上げた「ケースバイケース」って言葉を使いがちだからだ。

日本語を使い始めた高校時代に良く耳に残った「本質」というセリフに対して今の自分は「ケースバイケース」というセリフを意識的に使っている。

ちなみにこの「ケースバイケース」という単語、英語圏の人達はあまり使うことがないそうだ。日本語にぴったり対応する単語もなく、強いて挙げるとするならば「状況に応じて」「適宜」「時と場合によって」だろうか。

「ケースバイケース」という言葉をよく使うということは、良く言えば変化する状況に常に適応しようとしている意識があると言える。悪く言えば状況に振り回されているとも言える。

そう僕がいうと、本質を捉えている人は変化する状況にも本質を理解しているからこそ対応出来る。振り回されているのは本質を理解していないからだ。
という声がどこからか上がりそうだ。

もし、仮にこの理論が合っている場合、極々限られた状況にしか対応出来ないという自意識が強い僕にとって、本質を捉えて如何なる状況にも瞬時に適応出来る人はこの世に居るのだろうか?居たのだろうか?と思ってしまう。
居たらその人を人生のお手本にしたいと思っている。

別の考え方として「ケースバイケース」の考え方そのものが本質であり「○その1⇔○その2」の"⇔"が先でいうところの○に当たるというイメージだ。(何言ってんだ)

つまり考え方や理論(○)は無数あり、その状況応じて適宜それに対応する"⇔"を選択しようとすることという具合だ。

大学受験の時の現代文で僕は「逆説(=パラドックス)」の有無は論説文において頻度では一番多く問われる。それほど逆説を探すことは大事な視点であると教えられた。

逆説とは、矛盾した事が成立している事。の意味で

本質とケースバイケース、この2つの一見、相対する意味を持つ意味が同時に成立し逆説が成立している。

しかし、その逆説が成立する場合、どうしてもケースバイケース寄りの意味が強く「本質」の意味からは遠ざかってしまっている気がして個人的に納得がいかない。

昨今、最早流行語と化している「多様性」という言葉の力を借りて各々が信じる本質をぶつけ合ったりor分断してしまったりするケースを意識する事が多くなっている気がしている。

今現在のいち個人的な感覚に過ぎないが、「本質」は多様性や変化する状況とは独立したそういった次元にないものという感覚がある。

人はその本質たるものを様々な経験を通して人生をかけて見つけようとしているのかもと思っている。

こと生物に限定して共通する事は「生まれて死ぬ事」。もしかしたら全ての魂が還らんとする死の淵に、本質たるものがようやく顔を出してくれるのだとしたら

自分の信じている本質は「現状での予測解答」で常に更新されるもので、それと同時に他者の考える本質もまたそれを信じきる事は出来ないのだとすると、各々が現状での予測解答を把握しあうことは死の淵に立つ前の準備と言える気がしている。

って、最近のとあるニュース達を見てて思いました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?