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生活のために働く


アルゼンチンに移住してから2年ほど、現地の会社で働いていた。会社と言っても、ひとつは従業員4名の園芸店、もうひとつはボスと僕だけの車塗装・修理工場。

別にそこで働きたかったわけではない。そこで働けたから、働いただけだ。他にも選択肢があったら、園芸店や車の修理工場なんて選ぶわけがない。

仕事のやりがいなんてない。毎日太陽の光を浴びながら植物の世話をする、もしくは冷たくて乾燥した空気で手の皮膚を切りながらねじを絞めるだけの日々。

昇進も、昇給もない。

生活のために働くだけの2年間。

やりがいこそないが、良い面もあった。労働として割り切れたことだ。給料の分だけ仕事をする。定時になったら、他の人の仕事が終わってなくとも、ふら~と帰ってしまう。

初めはそれに慣れなかったし、罪悪感のような、後ろめたさのようなものもあったから、同僚の手伝いをしたりした。でも、誰も僕の仕事が終わるのを待ってはくれなかったから、いつの間にか僕も定時帰宅するようになった。

8時間きっちり働いて、その日の労働は終了。

帰宅したら仕事のことは一切考えない。残りの一日を楽しむだけだ。ある意味で、その日暮らしの生活の気楽な生活だった。

そんな生活ぶりだから、給料も安い。外食や映画鑑賞などの贅沢はめったにできなかった。

やることと言えば、家族で昼食を食べた後、昼寝をして、午後の仕事へ。帰宅したら夕食を食べ、夏は1時間ほど散歩、冬はテレビで放映されている映画を観る。牧歌的な生活だと思う。

あの時代のおかげでお金の大切さも痛感した。お金があれば生活は豊かになる。外食もできるし、おしゃれな洋服を着て映画館にも行ける、バケーション中に旅行だって行けるのだ。

ただ、お金が増えるほど執着心は大きくなった。いつのころか、僕はお金が減るのを恐れて、心身削ってまで執筆をしていた。

今はライターという仕事が好きだ。でも、やりがいを感じられる執筆依頼なんて、めったにない。大半は、生活のために書いている。むしろ、こうしてnoteに気ままに書いているときに、大きなやりがいを感じる。

仕事って難しい。めったにやりがいのある仕事依頼はこないからこそ、毎日8時間生活のために執筆しつつ、こうやって1~2時間好きなように文章をつづって勝手にやりがいを感じるのが僕には合っているのかもしれない。

サポートありがとうございます。頂いたお金で、マテ茶の茶菓子を買ったり、炭火焼肉アサドをしたり、もしくは生活費に使わせていただきます(現実的)。