見出し画像

『ぷかりの、遊園』11

 帰り道、森永さんと手を繋いて歩いた。空の建物の間に見えている部分が、濃いサーモンピンクに染まっていた。から揚げやケーキをたくさん食べたので、お腹が結構いっぱいで、ちょっと眠かった。というか、薬のせいとかがあって、毎日常に何となく眠いのだった。
「指輪、うれしいんでしょう。にやにやしてるよ」
 森永さんが言った。
「あーあ。俺には何もくれないもんな、泉美ちゃん」
「いいじゃん。柚くんは、あなたのことお気に入りでしょ」
 私は言った。
 それから私は、泉美ちゃんが家ではしゃべるということを、お母さまが私たちに教えてくれた時の感動について、話した。
「母親って、忍者みたいだね」
「なんで?」
「忍耐力がある」
「はあ」
「忍者もさ、戦ったり、厳しい環境で身をひそめたりしなきゃいけないんだから、かなりしんどい時もあると思うのよね。すいとんの術とか。あれって息は吸えるとはいえ、ストローみたいなやつで口呼吸だけでしょ? すっごい苦しいと思うのに耐えるんだから、まさに忍耐力だよ」
「そうだね。そりゃそうだろうけど、それと泉美ちゃんの話の感動と、何の関係があるの?」
 森永さんがそう言って、私の言いたいことが全然伝わっていないということに、そこで初めて気付いた。
「だからつまり、泉美ちゃんのお母さまは、泉美ちゃんが外でしゃべらないことに関して、それなりに心配しているはずなのに、それを見た目に出すことは、誰にも望まれていないじゃない。ああやって、爽やかに笑って、あたたかな母親然としていることが、本当はとても辛いだろうに。だから母親ってすごいなって、そう感動したの」
 私は言った。森永さんは笑って、「なるほどね」と言った。
「もしそうだとしたら、まりかも母親になったら、そうなるんだよ、きっと」
 森永さんは繋いでいる手を軽く振った。一人で歩いている学生や、OLふうの女の人など、道行く人にちらちら見られている気がする。
「私は無理。たぶん、そういうのは絶対無理。そんなに大人になれないもの」
 言って、手を強くぶんぶん振ると、
「なるなる。女って、そんなもんだよ」
 と、森永さんが腕に力を込めて静止しようとして、空中腕相撲みたいになった。あなたが女の何を知っているというのか、と思い、勢いをつけて腕相撲に勝ってやろうとして、肩ごと森永さんを押したら、私たちの横をすり抜けようとしていた歩行者のおじさんに当たってしまって謝った。それで、私たちはくすくすとひたすら笑いながら、大人しく帰るのだった。


 私は夢を見やすい体質だ。昼寝をしても夢を見る。
 お誕生日パーティーの翌々日に、自宅のお風呂場の浴槽を洗った後で、私は手足を拭いたバスタオルにそのままくるまって、ストーブの前で昼寝をした。それで夢を見たのだ。
 夢の中で、私はどうやら人ではないみたいだった。普段よりも目線が低くて、四つん這いで歩いていて、しかも全身、毛むくじゃらだったから。でも、それが何故だか違和感はなくて、掌の肉球が地面に吸い付く感じが、なんとも心地よくもあった(そう、手足に肉球が付いていた)。
 けものの私は四つ足で、公園の一角に立ち尽くしていた。なんだかやたらと眩しい昼間だった。夢らしく、余計な音が淘汰されていて、ああ風の音が聞こえそう、と思うと、さわさわと葉っぱが風にこすれる音だけが聞こえてくるような、そういう居心地の良さを感じていた。公園の風景はいつもとほとんど同じだけれど、汽車の乗り口に何故かのれんのようなものがかかっていて、車内を見ることができないのだった。
 知り合いがいないかしらと、私は周りをきょろきょろと見回してみた。けれど、周りには誰もいなくて、代わりにどこからか、「次の方、どうぞー」という女の人の声が聞こえてきた。のれんが勝手に開いたので、汽車の中に入った。汽車の中は形だけの、病院の診察室のようになっていて、窓際の座席に、黄緑色のワンピースを着た泉美ちゃんが座っていた。
「はーい。こんにちはー。どうですか調子はー」
 泉美ちゃんが手元の台の上のカルテを見ながら言う。ページをめくって確認したり、何かを書き込んだりしていて、なんだか手慣れていてベテランのお医者みたいだった。
 だから、夢の中の動物の私は、彼女をすっかり信用しきってしまい、それで自分の悩みやら、心配事やら、最近あった困ったことやら、不安に思っていることなどを、何時間も何時間もかけて彼女に打ち明けたのだった。
 泉美ちゃんは真面目な、穏やかな顔で、ときどき「ああそうねー」とか「そうなんだー」とか、相槌を打ちながら私の話を聞いてくれ、聞いたことをそのままつぶさにカルテに書き込んで、それを目を細めて読み返していた。
 私はそれを見て、本当に頼りになる先生だわ、彼女が大好きだ、と思った。彼女にかわいがられるために、私は愛想よく振る舞おうとして、その結果お尻を振ったり、口が半開きになったりするのだった。四つ足だと、それ以上のことをするのが難しいのだと知った。全身がどことなく痒い。
「患者さまは、実によく頑張っていらっしゃいます。からだの不調を訴える方はたくさんいらっしゃいますが、生き物というものはそれだけじゃありませんもんねえ。
 何をするにも、こつというものがありますし、生きるこつというものも、ありますから、それがだんだんわかってくると、患者さまは今までほどは苦しまずに済むと思いますよ。
 あとはもう、今足りないものは、後からでもじょじょに身につけるしかないのです。どこまで望まれるかにもよりますが、もう少し今のままやっていこうと思われるなら、そうですね、これを差し上げます」
 泉美ちゃんは言って、握った手を差し出した。受け取るとそれは、ライオンの指輪で、
「お飲みください。噛まずにぐっと」
 と勧められるので、私は一口でぱくっと指輪を飲んだ。指輪は薄いオレンジ味で、胃の中ですーっと消えていく感じがした。私はものすごく安心して、ああここへ来てよかった、としみじみ思った。
 では次回の予約を、と泉美ちゃんが言い、いつの間にか貼ってあるカレンダーを見ながら、次月の診察の予約をしたところで、目が覚めた。ストーブの表示は二十五度になっていて、私は暑くてふうふう言いながら電源を切った。
 冷たい麦茶をコップに入れて、飲みながら、夢のことをぼんやり考えた。
 泉美ちゃんがしゃべっていた。彼女が言っていたことはなんとなく思い出せるのに、彼女の声はどうしても思い出せなかった。女の人の声だと思ったし、その声を聞いて私はとても好感をもったはずなのに、肝心の声の特徴などがまったく思い出せないのが残念だった。
 それにしてもよくしゃべる泉美ちゃんだったなあ、本物もあれくらいしゃべれば、お母さまも心配を隠して、爽やかに笑ったりせずに済むだろうに、と不覚にも思ってしまった。
 思ってから、それを恥じた。人によって、幸福や不幸の種類って違うじゃないの。ぱっとした印象や主観だけで、決めつけてはいけない。今の私は、そのことが昔よりもよくわかっているのだった。
 いつから、私は泉美ちゃんが大好きだったのだろう。
 いつから、泉美ちゃんは私が大好きだったのだろう。
 後になってからじゃ、もうわからない。どこの瞬間からか、その好意は始まっていて、近付くたびに私たちの間をひらひらと行き交っていた。まるで幼い磁力の帯のように。
 私たちの好意は薄くて、儚く、でも特別なもので、ちゃんと存在した。そう、特別だった。たぶん、お互いに。だから、私たちはそれをちろちろと舐めながら生きて、お互いにそれ以上の干渉をしなかったのだ。それが、きっと私たちのちょうどいい距離感だったから。
 儚いけれど、けして意味のないものではなかった。少なくとも、私には大いにありがたかった。
 そう思って、私は二日前から洗面所に置きっぱなしだった指輪を取りに行った。ここが夢の中でなければ、ライオンは私のお腹の中ではなく、洗面台の上の歯ブラシ差しの横にちゃんと置いてあるはずだ。

~続く~

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?