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人生の”聴衆”を得ること

ここ数ヶ月、ナラティヴ・セラピーやオープンダイアローグの本を仲間と読んだり、日本体験学習研究所(JIEL)ナラティヴ実践協働研究センター(NPACCのナラティヴ関連の講座に参加する機会が何度かありました

ナラティヴの学びをする中で、主に次の体験をしていました。
「語ることー語りを聴いてもらうこと」
「語りに耳を傾けることーそこから語ること」

お互いに十分に語ったり、素直に語りに耳を傾けたり、耳にした語りから受けた影響について話したり、それらを聴いたりすることは、想像するよりもかなり難しいし、かなりインパクトのあるものでした。

私が「なるほどなぁ~」と思ったことは、以下の3点です。

① 誰を中心に据えるのか?私か、相手か?
② 私の耳に残る言葉は、私の経験の影響を受けている
③ 「役に立ちたい」と思う働きかけは空振りに終わる

せっかく考えたので、以下に書いてまとめてみようと思います。

① 誰を中心に据えるのか?

語り<ストーリー>を聴くとき、相手に働きかけるとき、何も意識せずにいると「私なら…」と考えながら聴いたり、「〇〇してみたら?」と余分なアドバイスをしてしまいがちな私です。

相手の役に立つかもしれないことを意識する
少し表現が違ったかもしれませんが、講師からそういう声かけが何度かあり、簡単な文章なのに、私にとってはものすごく難しいものでした。

講師からの声かけを、私は自分なりに次のように解釈しました。
「語りを聴いた私が、私の価値観で、相手を褒めたり、けなしたりしない」「語った本人が忘れてしまうような小さなことだけど、聴いた私の耳に残ったことを丁寧に扱う」

もう一つ、相手の語りを聴いて、言葉を返すときは
相手の役に立とうとしなくていい」という声かけもありました。
私から相手に伝える際に、「あなたのために言うけど…」は不要なんだな、と解釈しました。

そこから、私は次の二つの仮説を立てました。
「聴くときは、相手を中心に据える」
「語るとき・働きかけるときは、私を中心に据える」
ワーク中に四苦八苦しながらも、この2つの意識があると、今のところ一番しっくりくる聴き方・働きかけができるなぁ、と思っています。
(今後、実践を進めていく中で、移ろっていくかもしれません…)

② 耳に残る言葉は、私の経験の影響を受けている

ものすごく当たり前のことですが...
数人で同じ「語り」を聴いたときに、印象に残る言葉・耳に残る言葉は、結構ばらつきます。 また、同じ言葉・フレーズに心が動いたとしても、そこからイメージする世界は、人それぞれだったりします。

一つの語りの中から、どの言葉をピックアップするのか、そこには私の価値観が現れるようです。 さらに言えば、私が歩んできた人生、私が積んできた経験の影響が、色濃く出るものだと感じています。

例えば、管理職として「部下を指導する」経験は、「この方は、どんなところに不安を感じているのだろう?」と、話し手の不安を探しています。
また、「辛さや苦しさを深堀りしても、そこには楽しさも幸せも見つからなかった」と言う価値観は、話し手の「辛さ」よりも「うまくできたこと」を探すように促します。

良いとか悪いとかではなく、そういうものなんだなぁ、と思っています。

③ 「役に立ちたい」と思う働きかけは空振りに終わる

不思議なもので、「相手の役にたつかもしれないことを意識する」と、ついつい「相手の役に立ちたい」と思ってしまいます。 これが曲者です(笑)。

「〇〇に気付いてほしい」
「自信をもって欲しい」
「アドバイスしたい」

相手が「教えていただけませんか?」や「とにかく褒めてほしい!」、「アドバイスをお願いします」という意識や態度でない限り、「役に立ちたい」と思うことから生まれてくる働きかけは、「空振りに終わるなぁ...」と言う実感があります。 最初は、なかなか切なかったですが、今や「そうだ、今のは空振りだ」と平常心で受けとめられるようになりました(笑)。

人生の ”聴衆” を得ること

ここ数ヶ月間、一連のナラティヴの講座に参加して、最も印象に残っているフレーズは、「その人の歴史、人生の ”聴衆” を得る」と言うものです。

世の中には、様々な理由で差別を受けたり、気を配ってもらえない立場の人がいます。 そんな大それた状況でなくても、例えばテレビのチャンネル争いに負け続ける…とか、そのくらいのことでも積み重なることで、なかなかのダメージになっていきます(これは私の子ども時代のこと)。

私も「端っこに追いやられているな」や、「居ないように扱われているな」と感じるときがあります。 サラリとやり過ごせることが多いものの、心が潰れてしまうのではないか?と思う程、辛くて悲しくなることもあります。

この「端っこに追いやられている」感覚は、私の場合、かなりの毒を持っています。 すぐに泣けるときはまだよくて、相手を攻撃したくなったり、周囲に意地悪したくなったり、一人の世界に閉じこもりたくなったりします。

そんな時!
「語りを十分に聴いてもらえること」、言い換えると「人生の "聴衆" を得ること」が、端っこに追いやられて傷つき、くたびれてしまった私を癒すのに役立つのだそうです。

褒めるわけでも、けなすわけでもなく、一切の評価をせずに、ただ「端っこに追いやられている私の人生」の語りに耳を傾け、受けとめてもらう体験。
   +
私の人生が、耳を傾けてくれている人に、何らかの影響をもたらす体験。
   ↓
心、晴れやか~(問題は解決せずに、解消していく)

割と集中的にナラティヴの講座に参加し、色々なテーマのワークを通じて、「人生の "聴衆" を得ること」の大切さについて、なんとなくイメージが湧くようになってきました。

家庭でも 学校でも 会社(所属組織)でも

何の気なしに過ごしていると、どんな人でも「端っこ」感を覚えることがあると思います。 たぶん、それは避けられないのだと思います。

で、あるならば...
「語ることー語りを聴いてもらうこと」
「語りに耳を傾けることーそこから語ること」
「人生の "聴衆" を得ること」
日々の生活(家庭)や勉強(学校)、仕事の場(会社)でも、そんなことが普通にできるようになると、幸せが増えていきそうだなぁ~と思います。

おわりに

今回は、ここ数ヶ月の間、集中的に取り組んでいた「社会構成主義」をベースにした学びのまとめをやりきるぞ!と言う決意のもと、書き進めました。それにしても、時間がかかりました(笑)。

日々の暮らしの中で、はたまた組織づくりの支援や管理職育成の支援をする際に、一連の学びを埋め込んでいこうと思っています。

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