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ぶらりくり -博多編-

 フグを食べ終わると、ホテルから荷物を回収してJRで下関から博多駅に向かった。小倉駅から博多駅まで新幹線に乗ってしまっても良かったが、乗り換えるのが面倒だったので鈍行で博多まで行くことにした。福岡での投宿先はソラリア西鉄ホテル福岡。滞在期間は3泊。宿についたのは22時頃ともう遅かったので、この日はさくっとシャワーを浴びて寝ることにした。

博多 - 2日目

 博多観光2日目? (inの日を含めなければ初日) に真っ先に向かったのは志賀島。博多湾の北部にある島だが、砂州でつながっているので九州とは陸続きになっている。

博多湾の北にある島

西戸崎駅

 ただ島に行くだけであれば天神から志賀島行きのバスが出ているが、香椎線の電車にも興味があったので博多駅まで歩き、そこから香椎駅で香椎線に乗り換えて西戸崎駅まで行くことにした。

 西戸崎駅は香椎線の終着駅。海が見える駅が好き。

 西戸崎駅から志賀島まではバスも出ているが海風にあたりたいので歩く。大体地図で見れば目と鼻の先だったけれども、徒歩では1時間以上かかった。

 西戸崎小学校。見知らぬ土地の、特に海の存在が日常に食い込んでいる地域の学校にはついつい目がいってしまう。この学校に通う生徒たちは普段どんなことを考え、どのような遊びをし、どう大人になっていくのか。彼らの日常生活を想像することは旅の一番の楽しみの一つだ。

 ただのミニストップだが、イオンが併設されたミニストップは始めて見また。過去に出会ったイオンの中では最小規模のものかもしれない。普通のコンビニだけれども、都心のそれとは生活における役割もだいぶん違っているだろう。

 歩いていると徐々に波の音が聞こえてくるようになる。両側は木々にさえぎられていて海を見渡せられるような環境ではないが、歩くたびに海の存在を耳から感じられる。

 そして、ある地点まで歩いてくると一気に森が開けて左手に海が現れた!

 この砂州を渡った先にあるのが志賀島だ。

 島の小学校。幼少期は海からかなり離れたところに住んでいたので、僕はにとって海は非日常な存在だった。海の存在が日常的な幼年期はどのようなものなのか、想像が捗る。

金印公園

 志賀島において一番著名な存在の一つが金印である。中学校の歴史の授業を覚えている人も多いだろう、「漢委奴国王」と記された金印は、天明4年(1784年)にここ志賀島で発見された。中国の「後漢書」には紀元57年に後漢の光武帝が弥生時代に福岡の小国であった「奴国」の王に金印を与えたと記されている。
 場所も大体この金印公園がある位置とほぼ同じ。その金印がなぜ志賀島で発見されることになったのかは、「後の大乱によって島に隠された」「奴国の王の墓や宮殿が志賀島にあった」等様々な説があるが、未だ解明されてはいない。公園の入り口には「漢委奴国王金印発光之所」と記された石碑が立っていた。

 展望広場には金印のモニュメントが建っていたりする。
 ところで金印って何のために使われたのか、今の印鑑的な役割だったのか? ということが気になったので調べてみたが、重要な文書や荷物を入れた箱をひもで縛り、その結び目につけた粘土に金印を押し付けて風雨をするという重要文書の封印に使用されていたみたいだ。

蒙古塚

 金印公園からさらに西に歩いていくと蒙古塚が見えてくる。これも歴史の授業で記憶に残っている人も多いだろう、文永11年(1274年)と弘安4年(1281年)の二度にわたって行われた元寇襲来の古戦場である。

 数多の供養塔があるが、戦死したモンゴル軍の兵士のために日蓮宗の高鍋日統によって建てられたものだ。昭和13年(1938年)には蒙古連盟自治政府の指導者・徳王も参拝に来たらしい。

キッチンしま

 蒙古塚からもと来た道を引き返し、東の方に歩いていくと丁度お昼時だったので、近くの食堂に入ることにした。

 海鮮丼をいただく。いくらや鮭などの北の魚介類を以外は全て志賀島近辺でとれた魚介類らしい。全部地物でも良いような気もするけどやはり見栄えが悪いのだろうか。見栄えは大切なので仕方ない。
 九州でイカと言えば佐賀の呼子だが、志賀島のイカも負けじとうまかった。

志賀海神社

 きっちんしまから10分ほど歩いたところに、志賀海神社という神社があった。海神の総本社とも言われており、『万葉集』にも海上守護の神をまつった神社として詠れている。

 敷地内にある万葉歌碑。

ちはやぶる鐘の岬を過ぎぬとも われは忘れじ志賀の皇神

 志賀島から船出して奈良の都へと向かう官人が詠んだ歌で、航海の難所である鐘の岬を過ぎたとしても海路の無事を祈願した志賀の神を忘れることはない、という意である。

潮見公園

 志賀海神社から20分ほど北に歩いたところに潮見公園という高台の見晴らしの良い公園がある。「歩いて」とは言っても結構傾斜がきついので散歩というよりは軽い山登りに近い。

知念良智「風」

 頂上には不思議なオブジェが建っている。

 志賀の浦に漁する海人 明けくれば浦み漕ぐらしかじの音きこゆ

『万葉集』(巻十五・三六六四)

 頂上にも万葉歌碑が立っていた。「夜が明けてくると、志賀の海で漁をしていた人たちが船を漕いで家に帰っていく。その舵の音が聞こえてくる」という望郷の歌で、新羅の国に派遣される使節一行が奈良では味わえない海の旅情と望郷の思いが詠みこまれている。

 不思議な形の展望台。

 頂上から博多湾を望むことができる。

香椎駅 - 清張ゆかりの桜

 志賀島を一通り見て回った後は、郵便局前からバスで福岡女子大前まで移動し、香椎駅まで戻ってきた。香椎は松本清張の『点と線』の舞台となった街でもあり、清張が触ったのではないかと言われている桜の木が植えてある。「触ったかもしれない」だけで「清張ゆかりの桜」とまで銘打たれるのか……

むっちゃん万十

 香椎駅のすぐそばにたい焼きならぬ「むつごろう焼き」を売っている「むっちゃん万十」というおみせがあったのでむつごろう焼きを買ってみた。
 どうやら福岡のソウルフードらしい。福岡で学生時代を過ごしていたらタイ焼きじゃなくてムツゴロウ焼きを学校の帰り道に買い食いしていたのかもしれないなあとifの学生生活を想像してみる。

 タイ焼きは薄っぺらいけれども、ムツゴロウ焼きは結構厚みがある。タイ焼きよりもずっとおなかにたまる。

水炊き

 香椎駅からはバスのに乗ってホテルに戻った。たくさん歩いたので少しホテルで休憩していたら、あっという間に時間が過ぎてしまって夕食時になってしまった。予約していた水炊き屋さんに行く。

 とてもおいしかった。1度の鍋で様々な部位を食べられるのが嬉しい鶏料理の極みである。締めの麺も最高の味わい。博多に行ったらやはり水炊きである。

博多 - 3日目

大宰府

 3日目は朝から大宰府に行くことにした。西鉄の天神駅から40分ほど揺られていたらあっという間についた。

 結構観光地化していて土産物屋さんでにぎわっている。
 太宰府天満宮は菅原道真を祀った神社で、その御墓所の上に祠が創建されたのが905年であるため1100年以上の歴史を持つ、全国に12,000社以上ある天満宮の総本社だ。学問の神様として有名だが至誠・厄除けの神としても崇められており、受験合格や学業成就だけでなく、厄除け、火難除けなどの奇岩に来る人も多い。
 歴史的な面だけでなく、植物を観察するのも面白く、1~3月には飛梅、4~5月には樟若葉、6月には花菖蒲が楽しめる。

 鮮やかな朱塗りの楼門。御本殿に向かうときは檜皮葺きの二重屋根だが戻るときには一重屋根に見えるという珍しい門。

「心」の文字の形をした心字池に掛かる橋・太鼓橋。太鼓橋・平橋・太鼓橋と急勾配の橋、平たい橋、急勾配の橋と3つ連続で橋がかけられており、それぞれが過去・現在・未来を意味し、「人生山あり谷あり」が表現されている。

 太宰府天満宮の御本殿。延喜19年(919年)に醍醐天皇の勅令で社殿が造営され、天正19年(1591年)に再建された。桃山時代の建築様式が見られるのは珍しいのでこの機会にとじっくり観察した。

  道真公が丑年生まれであることから境内には牛の同牛や跡牛などの像が数多く奉納されている。この御神牛は頭をなでると知恵がつくといわれており、撫でられすぎて頭の部分だけピカピカに光っている。

 太宰府天満宮内には樟の巨木が多いが、社務所の北側に立っているこの木はひときわ目を惹く。樹高は39mだそうだ。

 御籤を引いた。中吉だった。
「旅行 連れあればよろし」
 残念ながら、一人旅である。

 太宰府天満宮は黒田官兵衛とも縁のある神社であり、福岡城内の居館が完成するまでの間に官兵衛は太宰府天満宮に二年間ほど仮住まいしていた。その当時官兵衛が茶の湯で使ったとされる井戸が如水の井戸として残っている。

九州国立博物館

 博多を観光するに当たって最も行ってみたかった場所の一つが九州国立博物館である。常設展では現代から35000年前までの人類の歴史見どころも数多くある。

 太刀 銘 国時。国時は、京都の来派の流れを汲んだ、菊池氏のお抱え刀工として活躍した述寿派を代表する刀工の一人である。

 特に「おお」と思ったのは、来場者に子供が多いことだ。確かに展示内容も子供でも分かるように工夫されているものが多く、「学習の場」としての博物館よりもエンターテイメント要素を意識した「アトラクション」としての博物館要素が濃い。
 気になる展示が多かったので本腰を入れて数かけて回ってみたかった。次回来た時はここに3~4日かけるくらいの想いで来ようと思う。

梅ヶ枝餅

 太宰府名物のお菓子らしい。小豆餡を薄い餅の生地でくるんで鉄板で焼いた焼餅。外はぱりぱり、中はもちもちしておいしい。
 大宰府に配流となった道真に浄妙尼が持ちを埋め野枝にさして渡したことが始まりらしい。

お昼

 お昼は博多に戻って九州の食材を使った洋食屋に行った。

 おいしかった。

櫛田神社

 奈良時代に創建されたといわれる博多の総鎮守、通称「お櫛田さん」。商売繁盛の神様が祀られている。毎年7月には法被姿の男たちが舁き山笠を舁き町を疾走する日本三大祇園祭の一つ・博多祇園山笠が行われ、ユネスコの無形文化遺産にも登録されている。

 博多祇園山笠。めちゃくちゃ大くて迫力がある。13世紀半ばに疾病退散を祈願した祭りが始まりだといわれている。山笠は日本の歴史の勇壮な一場面や御伽噺が題材として作られているが、この展示されている山笠は義経千本桜がモチーフになっている。

 壇ノ浦の戦いで平家を討伐した源義経は、後白河法皇から禁裏の重宝「初音の鼓」を賜る。しかし、この鼓は源頼朝の討伐を暗示した者であり、義経は頼朝から謀反の疑いをかけられ、義経は頼朝に恭順の意を示すために都から離れることになった。
 一行は、都のはずれの伏見稲荷神社の鳥居の前まで落ち延びると、義経の愛妾・静御前が義経の後を追ってきた。静御前は義経との同道を望むが、義経は認めず、「初音の鼓」を静御前に預け、説得に応じない静御前を木に縛りつけた。
 そこに頼朝の家来・笹目忠太がやってきて静御前をとらえようとするが、義経の家臣・佐藤忠信が現れ笹目忠太を追い払う。
 伏見稲荷への参詣を終えた義経は静御前を救った忠信に褒美として姓名・源九郎と着背長を与え、静御前の警護を命じて、再び西国を目指す。
 義経から信頼された忠信は実は狐が化けた姿であり、幼いころにとらえられた親狐が「初音の鼓」の皮として使われていた。親狐を慕う思いから忠信の姿を狩りて、「初音の鼓」を持つ静御前の側に付き従っていたのであった。
 義経の家臣として主君に忠実を尽くす忠信の誠実な姿と、親を想う狐としての優しさが、この山笠に表現されている。

 神社の楼門の天井には干支恵方盤が吊り下げられている。昔の暦は五行十干十二支を組み合わせて時や方角を刻んだが、この干支恵方盤は内側に東西南北の方位を表し、外側に十二支を配して恵方を示している。

「博多町屋」ふるさと館

 櫛田神社のすぐそばに、明治・大正期の博多の暮らしと文化を紹介した建物があり、明治中期の町屋が復元されている。
 博多の町屋は秀吉が行った都市計画・太閤町割の中に建ち並んでおり、切妻の屋根が連続していた。

 屋根はきわめて高い。江戸末期から明治初期までは約6.3m程度だったが、それ以降は9mを超えるものもある。見上げると太い梁組がそのまま見え、広々とした空間が形成されている。

 その一方で間口は6mほどで、構造としては奥が深い「うなぎの寝床」のような家が大部分であった。入って左側では商売ができるようになっており、博多が商人の町であった面影が残っている。

 当時の産業で有名なものが博多織。起源は約750年前に商人・満田彌三右衛門が中国(宋)にわたり織物の技法を取得したことに由来する。その後、彌三右衛門の子孫の彦三郎が再び中国(明)にわたり、広東で織物の技法を研究した。帰国後は竹若伊右衛門とともに広報改良を重ね、厚地の織物を作り出すことに成功。「覇家台織」と名付けられ、現在にも博多織として伝わっている。
 筑前藩主・黒田長政は幕府への献上品としてこの博多織を選択した。以来黒田家は帯十筋と反物三疋の博多織を毎年三月に献上することになっていった。

フランス菓子16区

 福岡で食べたかったものの一つが、フランス菓子16区のダックワーズだ。今では日本全国で知れ渡っているダックワーズだが、生まれたのは実は福岡である。

 嚙んだ瞬間に口の中にアーモンドの風味が広がる。おいしい。

 16区はダックワーズだけではない。秋にはマロンパイもおいしいらしいということで買ってみた。1つのパイに丸ごと1個大きな栗が入っていて、さっくりとしたパイ生地と栗の風味が合わさってとてもおいしかった。栗の美味しい調理法は栗きんとんだけではないことを思い知らされた。

もつ鍋

 夜ご飯は博多名物のもつ鍋をいただいた。福岡には結構1人でも鍋を楽しめる場所が多くて助かる。聳え立つニラ、琥珀色のスープ、鉄分豊富な牛モツ。至高である。

博多 - 4日目

 4日目はホテルをチェックアウトしたら朝一で博多港に向かった。ここから壱岐の郷ノ浦へ行く船が出ているので、このフェリーに乗って長崎の離島・壱岐へと向かう。

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