見出し画像

ぶらりくり -長崎編-


1日目

 長崎は結構見どころの多い町だと思ったので3泊とやや長めに滞在することにした。投宿先は「セトレ グラバーズハウス 長崎」。グラバー園や大浦天主堂の近くにある眺望のよい高台のホテルだ。午前中に到着したのでホテルに荷物を預けて観光に繰り出す。

眼鏡橋

 現存する最古のアーチ型石橋で日本三代名橋の一つで、1634年に興福寺の唐僧住職・黙子如定によって架けられた長さ22mの橋である。名前の由来は橋と川面に移り込む姿を合わせると眼鏡に見えることから。手前の石段はギザギザの歯に見えるから川全体が怪物みたい。

長崎歴史文化博物館

 江戸時代に長崎奉行所立山役所があった場所に、長崎の海外交流史をテーマにした博物館が建っている。日曜日に行くとお白洲でお裁きの寸劇が行われる。見どころが結構あったので3時間くらい見学時間を見込んでいたけど全然足りなかった。

夜ご飯 (1日目)

 夜ご飯を食べるために、飲食店が軒を連ねる思案橋横丁に来た。

「康楽」という中華料理屋さんに入ってちゃんぽんを頼んだ。鶏ガラのスープがすっきりとしていておいしい。

長崎新地中華街

 ホテルに帰る途中に長崎新地中華街に立ち寄った。お土産に「マファール」というお菓子を買った。

2日目

朝ご飯 (2日目)

 朝食は喫茶店でとることにした。冨士男という店で、遠藤周作の『砂の城』にも登場した店だ。

 タナカヤで流行の服を見物したあとは、銀嶺か富士男という店でやすむ。富士男は珈琲がおいしい。

『砂の城』遠藤周作

 エッグサンドセットを頼んだ。卵がふわっふわでおいしい。

長崎ハタ資料館

 風頭公園の入り口に「ハタ資料館」がある。長崎では凧のことを「ハタ」と呼ぶらしい。
 1570年に長崎が開港された際に流入した中国人の影響によりバラモン凧が上げられるようになった。一方で、1673年には西山宗因が長崎凧を句に詠んでいるため、寛文年間には長崎凧もあげられていた。

見わたせば 長崎のぼり いかのぼり

西山宗因『西翁十百韻』

 他にも、「長崎名勝図絵」では出島のオランダ商館のニ階建ての屋根の上に陣取ったインドネシア人らと木橋の上の長崎の人らが凧の切り合いをしている場面が描かれており、当時中国人らが宿泊した唐人屋敷でも盛んに蝶バタやバラモン凧が挙げられ、長崎凧との揚げ比べがあったと考えられている。
 また、凧揚げで切られた凧をとるために「ヤダモン」と呼ばれる長い竹竿の先に鍵をつけて切られた凧を奪い合う用具をもって走り回って、喧嘩に発展したり畑を踏み荒らすことも多々あり、長崎奉行所から取り締まりが布告されたこともあった。その布告もほとんど意味をなさず、1816年に長崎奉行所は凧の所持を禁止する取締令を出すことになる。
 とはいえ、幕末には再び凧が挙げられるようになり、明治時代になると凧あげに対する規制が撤廃され、「長崎ぶらぶら節」では「凧揚げするなら、金毘羅、風頭……」と唄われ、多くの人が凧あげに興じていた。
 また当時はアドバルーン的な役割でも凧が挙げられ、煙草の発売時には宣伝凧が盛んに揚げられたという。
 現在でも、4月の第一日曜日に唐八景公園で「長崎ハタ揚げ大会」が行われている。

風頭公園

 標高151.9mの高台にある風頭公園中心では坂本龍馬ゆかりの名所が多くあり、彼らが歩いたであろう赤道や石段を散策できる。

「日本の夜明けぜよ!!!」

 高台にあるので長崎港が一望できる。

 公園にある上野彦馬の墓。上野家は絵画・鋳金に秀でた絵師の家系であり、幕末の当主・俊之丞と彦馬は2代にわたり写真技術の習得と普及に尽力した。彦馬は日本最初の職業写真家であり、高杉晋作や桂小五郎を撮影したことでも知られている。

若宮稲荷神社

 1673年に創建された「勤皇稲荷神社」とも呼ばれる、亀山社中の面々が参拝した神社。秋には狐に扮した若者が10mの青竹上で曲芸を披露する「竹ン芸」が行われる。

 境内には坂本龍馬の像が置かれている。南北朝時代の武将・楠木正成の守護神であったこの神社は、幕末に頼山陽『日本外史』の影響で楠木正成の人気が高まったことで勤皇の志士たちの熱い尊敬を集めており、龍馬もまた正成を崇拝していた。正成の最期の地である神戸・湊川では楠木正成を偲ぶ歌を詠んでいる。

月と日の むかしをしのぶ みなと川 流れて清き 菊の下水

坂本龍馬

亀山社中記念館

 坂本龍馬は1665年に薩摩藩や長崎商人・小曽根家の援助を受け、日本初の商社「亀山社中」を結成した。亀山社中は勝塾や操練所で学んだ航海技術を生かして物資の運搬や商取引の仲介を行っていた。
 メンバーは土佐・紀州などの脱藩浪士や水夫など約20人ほどで、新宮馬之助、近藤長次郎、高松太郎、菅野覚兵衛、白峰駿馬、陸奥陽之助、沢村惣之丞、黒木小太郎、池内蔵太らが所属していた。
 亀山社中の最大の業績の一つが1866年に長州藩のために薩摩藩名義での大量の小銃や蒸気船ユニオン号(乙丑丸)の購入・運搬であり、これが1866年1月の薩長同盟盟約へとつながり、新しい時代を開くための足掛かりとなった。
 また、1866年の第2次長幕戦争の際、6月17日の下関海峡戦では亀山社中隊士たちが乙丑丸に乗船して戦い、長州の勝利に貢献した。
 しかし、1866年5月、社中が乗り組んだワイル・ウエフ号が五島・潮合岬で難破し、黒木小太郎、池内蔵太らが犠牲になる。龍馬はは車中の解散も考えたが、伊予大洲藩の船いろは丸への乗員派遣や薩摩藩の援助により社中の維持を図った。
 1867年4月、亀山社中は「海援隊」となり、土佐藩の外部団体に改編。その活動期間は2年ばかりだったが、幕末史に大きな足跡を残した。

 高杉晋作から贈られた、龍馬が愛用したアメリカ・スミス&ウェッソン社製のピストル(複製)。1866年1月23日の夜、伏見の寺田屋で奉行所の捕方に襲撃された際にこのピストルで応戦した。1867年11月15日に京都の近江屋で襲撃された際にもこのピストルを持っていた。

龍馬のぶーつ像

 日本で初めてブーツをはいたのは坂本龍馬だといわれている。そのエピソードにあやかり、1995年に亀山社中創設130周年を記念して作られたモニュメント。長崎の町並みが見渡せる。

興福寺

 1620年に中国僧・真円が航海安全を祈願して創建した国内最古の日本黄檗宗の唐寺。中国人によって建てられた純中国建築で柱や梁に技術が詰まっている。山門が朱塗りであることから「あか寺」、浙江省・江蘇省出身の信徒が多いことから「南京寺」とも呼ばれた。
 1654年には黄檗宗の隠元禅師が渡来して住職となり、興福寺は日本黄檗宗の発祥の地としてその名が全国に知れ渡った。

 興福寺は長崎の唐寺「四福寺」の一つで、他に福済寺、崇福寺、聖福寺があり、興福寺と崇福寺には中国南部沿岸地域の人々らに信仰されている航海の神様・媽祖を祀る媽祖堂が建てられている。

 鱖魚と呼ばれる揚子江にいる幻の魚。飯梆僧らの飯時を告げるために叩いたもので、叩くとかなり遠くまで音が響き渡るらしい。

 境内にある、江南・浙江・江西の3省の出身者による会・三江会の事務所へ通ずる門。「豚返しの敷居」と呼ばれる敷居で、放し飼いの豚が門内に入らないように敷居が高くなっており、人が通るときには二段式の上部が取り外しできるようになっている。

 氷裂式組子の丸窓。文字通り氷を砕いたような文様が奇麗。組子とはくぎを使わずに気を組み付ける技術であり、細くひき割った木に溝・穴・ホゾ加工を施してカンナやノコギリ、ノミ等で調節しながら1本1本組付けして作られる。
 当時は組子の裏側全体がガラス張りになっていたためステンドグラスのような輝きを放っていたらしいが、第二次世界大戦時の原爆投下の爆風により吹き飛んでしまった。

 寺の鐘鼓楼は1663年の火災により焼失してしまったたため、残っているのは1691年に再建されたもの。2階建ての建物で2階には梵鐘を釣り、1階は禅堂として使用された。梵鐘自体は第二次世界大戦中に金属供出されたため残っていない。2階の窓は梵鐘や太鼓の音を拡散させるために火灯窓がつけられている。
 2階の周囲には勾欄が付き、軒廻りは彫刻や彩色で装飾されており、他の木部は朱丹塗りが施されている。
 屋根の隅鬼瓦は、境内の外に向いた北面には鬼面が、中に向いた南側には大国店像が設置されている。これは中国人ではなく日本人のアイデアとされており、いわゆる「福は内、鬼は外」を意味している。

 旧唐人屋敷門。出島が完成してから54年後の1689年に十善寺御薬園跡に唐人屋敷が完成。長崎に渡航した中国人の民宿を禁じて、ここに居住させることになった。唐人屋敷の広さは約3万m2で住宅・店舗・祠堂が軒を連ね、一大市街地が形成された。その後数度の火災が発生したが、1784年の大火で関帝堂を残しほとんどが焼失、以降は中国人が自前で受託などを建築することが許可された。門の材木は中国の広葉杉。

オランダ坂

 興福寺から20分ほど南に歩いたところにオランダ坂という坂がある。長崎では東洋人以外の外国人を「オランダさん」と呼んでいたことから居留地の道をオランダ坂と名付けられた。中国風の欄間飾りや日本瓦、西洋のマントルピースと和洋中が入り混じった特徴持つ居留地群は東山手洋風住宅群とも呼ばれている。

東山手甲十三番館

 緑映えるさわやかなブルーの外観を持つ1894年ごろに建てられた木造二階建ての居留地。香港上海銀行の長崎支店長のイギリス人やホームリンガー商会の従業員の社宅としても使われた。

 青い外観がとても映える。

 庭にはハートリーフがある。

東山手十二番館

 1868年にアメリカ人商人ジョン・ウォルシュによって建てられ、当初はロシア大使館として利用されていた明治初期建造の重厚感ある木造洋館。東山手で現存する洋風建築では最古の遺構であり、メソジスト派の宣教師住宅になったこともあるため現在は東山手のミッションスクールの歴史を紹介する施設になっている。1941年に活水学院に譲渡されたが、1976年に長崎市に寄贈された。

 広い廊下や大きな居室、三面に設けられたベランダなどに当時の名残がみられる。

 長崎は1567年にルイス・デ・アルメイダ(Luís de Almeida)によって布教が行われて以来、日本におけるキリスト教布教の中心地であった。250年余りの鎖国やキリスト教が禁じられた時代を経て、幕末から明治初期にかけてはキリスト教の殿堂のためにプロテスタント教会各派から宣教師が長崎に派遣され、C.M.ウィリアムズ、G.F.フルベッキ、H.スタウト、J.C.デビソン、E.ラッセルなど多くの宣教師らが長崎に来日し、聖書の翻訳、伝道、教育の傍ら、西洋文明の紹介や上海からの漢文書籍の取り寄せ・販売など、幅広い分野にわたって活動し、彼らは教育実現のため、長崎の旧居留地において多くのプロテスタント系の男子校・女子高が設立された。

G.F. フルベッキ (Guido Herman Fridolin Verbeck)
 アメリカのオランダ改革派宣教師で、1859年に長崎に来日し、済美館や佐賀藩の致遠館で教育にあたった。1869年に政府に招かれ大学南校頭取や元老院顧問などを歴任し、日本の近代化に貢献した。

H.スタウト & E.スタウトと梅光女学院 (Henry Stout & Elizabeth Stout)
 アメリカのオランダ改革派宣教師で、1869年から1904年まで長崎に滞在。伝道活動を行うとともに広運館(現・長崎東高校)にて英語教師をしていたが、1872年の学制公布により日本の教育制度が整ったのを機に自宅に私塾として英語学校を開校。その後、スチール記念学校やスターヂェス女学校を創立するなど教育活動に献身した。東山手の丘に最初に学校を建てたのはスタウトである。
 スターヂェス女学校を前進として梅光女学院短期大学を経て、1967年に大学となり山口県下関市を本拠地として現在に至る。

J.M. ギール (Jean ”Jennie” Margaret Gheer)
 アメリカのメソジスト派宣教師で、1879年にラッセルともに長崎に来日。1880年5月に浪の平町で日曜学校を開いて音楽教育を施し、1885年に福岡英和女学校を創設。音楽教育や福音奉仕活動に尽力した。

E.ラッセルと活水学院 (Elizabeth Russell)
 アメリカのメソジスト派宣教師で、バージニア州内の各学校で教育に携わっていた。1879年に長崎にJ.M.ギールとともに来日して活水女学校を創立し、日本女性に女性本来の在り方と高度な教育ウィ広めた。以後、40年間にわたってキリスト教による教育活動に尽力。1919年に藍綬褒章を授与。
 活水女学校の高等女学部は1947年に新制中学校、1948年に高等学校になり、専門学校は1950年に短期大学となり、1981年には女子大学を設立し、活水学院として現在に至る。

 ラッセルが授与された藍綬褒章。

 活水学院の模型。

 E.ラッセルの著書。

E.グッドオール (Eliza Goodall)
 イギリス人。1876年に長崎に来日し、出島聖三一教会の名誉宣教師として16年間奉仕するとともに、女子塾ガールズ・トレーニング・ホームを創立し、長崎の女子教育に貢献。坂本国際墓地にグッドオール女史の墓地がある。

J.バルツと海星学園
 カトリック・マリア会の宣教師で、1892年に海星学校を創立。英語、フランス語、ドイツ語による語学教育を中心に、カトリック的人格主義に基づく教育を行い、現在の海星学園の基礎を築き上げた。
 1895年に現在地に移転し、1948年に新制中学校を併設する新制海星高等学校となった。

C.S.ロングと鎮西学院 (Carrol Summerfield Long)
 アメリカのメソジスト派宣教師。1880年に長崎に来日し、翌年に加伯利英和学校(現・鎮西学院)を創立し教育活動にあたる。その一方で出島メソジスト教会の牧師を兼ね、伝道活動も精力的に行った。
 1948年には新制中学校と高等学校が開設され、1966年に短期大学(長崎ウエスレヤン短期大学)が設立されて今に至る。

J.C.デビソン (J.C. Davison)
 1873年に長崎に来日し、1876年に長崎出島メソジスト教会を設立。その後、伝道の拠点を外国人居留地から市民の生活の場に移していく。その一環として、E.ラッセルとJ.M.ギールを長崎の地に派遣するよう要請した。

お昼ご飯 (2日目) - 四海楼

 1899年創業のちゃんぽん発祥の店。当時お金のなかった中国人留学生のために安くて栄養のある食べ物を提供しようとして考案されたのが「長崎ちゃんぽん」である。
 ちゃんぽんの語源は福建語の挨拶「吃飯」からきている説、「混ぜる」という意味の「掺混」からきている説、鉦の音と鼓の音の擬音を組み合わせた造語という説などがあるが、いずれも確かなものではない。

 多くの具とスープと面を中華鍋で一緒にして作る「鍋炊き」が特徴の料理で、ラーメンと違ってかん水ではなく唐灰汁を使って麺が造られている。鶏ガラ多めのスープに具材の甘みが加わってクリーミーになっている。錦糸卵が乗っていて見た目も華やか。

大浦天主堂

 午後は国宝の大浦天主堂へ。プティジャン司教の元1865年2月19日に献堂式が行われた現存する日本最古の境界。1597年2月5日西坂の丘で殉教した日本二十六聖人に捧げられた教会で、殉教地の方角に向けて建てられた。正式名称は「日本二十六聖殉教者聖堂」。潜伏キリシタンが250年の時を経て信仰を打ち明けた歴史的な「信徒発見」の舞台である。
 建物は高い尖塔を持つ白亜のゴシック様式で、正面に「天主堂」の文字を掲げている。内装としては荘厳なステンドグラスが目を惹き、主祭壇奥には赤や青の色使いの美しい『十字架のキリスト像』がある (原爆により破壊されてしまったが1951年にロジェ商会により復元)。
 日本古来の工法で西洋式のアーチを作った、柱を少なくして広い空間を作るリブ・ヴォールト天井と呼ばれる天井も見ていて面白い。欧米では石を積んでアーチを作るのに対し、この聖堂では木製の柱から竹で曲線で作って漆喰で固められている。屋根は瓦葺きの純和風。

 以下、大浦天主堂にまつわり歴史を簡単に記述しておく。

1596年 サン・フェリペ号事件
 浦戸沖にスペイン船サン・フェリペ号が漂着。水先案内人が「スペインは宣教師を送り込んで信者を増やし、軍隊を送って征服する」と発言してスペイン領の広大さを示し、これがキリスト教弾圧のきっかけとなっていく。
1597年 二十六聖人の殉教
 政府の方針が禁教へと転換し、キリスト教の帰郷を促された聖人らは長崎・西坂の丘で殉教。中でも12歳のルドビコ茨城は「この世の短いいのちと永遠のいのちを取り換えるわけにはいきません」ときっぱりと棄教を断り、この発言は仲間の信者たちを勇気づけ、海外にも大きな反響を呼んだ。26人は1627年に列福。その後200年以上もの時を経て1862年に列聖。
 この事件はプティジャン神父がバチカンで開催される公会議に出席するために渡欧した際にフランスのセシル=マリー・トレルに依頼し、『日本二十六聖人殉教図』として描き現在でも堂内に掲げられている。
1614年 禁教令発布
 江戸時代になるとキリシタンの取り締まりはさらに厳しくなっていき、禁教令が発布され、教会の破壊を命じ、布教を禁じた。その背景には宣教師の背後にあるポルトガルやスペインの軍事的脅威があるといわれている。
1637年 島原・天草一揆
 キリシタンが危険な存在であるというイメージがさらに加速する。

 禁教令が布かれる中、仏教徒を装い隠れてキリシタンとしての信仰をつづける人々もいた。潜伏キリシタンが生き延びる手段の一つが取り締まりの厳しい地域から比較的穏やかな地域へ移住することであり、特に五島列島には18世紀に大村藩などからキリシタンが多く移住し、再移住を繰り返しながら信仰共同体が形成されていった。
 その信仰形態は地域差があり、長崎では大きく長崎・外海・五島系と平戸・生月系の2系統があった。
 長崎・外海・五島系は仏像などを聖母マリアや聖人に見立てて信仰に用い、日本人伝道師・バスチャンがつくった「バスチャン歴」に従って生活を営み、信仰上の行事を行っていた。
 平戸・生月系はヨーロッパから伝わった聖画を日本風に描き、掛け軸に仕立てたものを拝み、殉教地である中江ノ島から水を汲み儀式に使用していた。

開国から再布教へ
 19世紀中ごろにはアメリカ艦隊の来航に始まり、次々とやってきた列強諸国に開国を迫られて日本は開国を決断する。数世紀の間続いた鎖国は終焉を迎え、日本としての新しい時代が始まるとともにキリスト教が再び日本で布教される時代に入っていく。
1858年 アメリカ・イギリス・フランス・ロシア・オランダと修好通商条約を締結
 条約によって函館・横浜・長崎・神戸・新潟の5港が開港し、外国人居留地が形成され、長崎の居留地にはカトリックのフランス人宣教師たちによって大浦天主堂の建造が始まった。

パリ外国宣教会
 日本のカトリック教会の礎を築いた神父らはそのほとんどがパリ外国宣教会の神父であった。パリ外国宣教会とは修道会に属さない教区司祭の会であり、フランス語を母国語とするフランス人司祭で構成され、1653年にフランソワ・パリュー(François Pallu)らによって創設され、1664年にパリに神学校を開設して総本部とし、タイのアユタヤなどに神学校を創建した。1831年にローマ教皇庁は日本の布教をパリ外国宣教会に任せ、宣教師らは日本語を学ぶために琉球に滞在し、1858年に領事付通訳兼司祭として江戸に入り、1863年に長崎に上陸することになる。
テオドール・オーギュスタン・フォルカード (Théodore-Augustin Forcade)
 1844年に日本語習得のため琉球に渡る。1846年には日本の司教に指名され、叙階のため香港に向かい途中長崎港に停泊するが、日本は禁教下で開国していなかったため上陸は叶わなかった。香港で数年間永崎上陸の機会をうかがうも、体調がすぐれず日本入国は叶わないまま帰国した。
プリュダンス・セラファン・バルテルミー・ジラール (Prudence Seraphin-Barthelemy Girard)
 1857年に日本布教の総責任者に任命され、フランス駐日総領事の通訳として日本に上陸。神父は領事館の業務の傍らで横浜の外国人居留地に教会を創建するため土地を入手し、1862年には開国後初となる聖心協会が献堂。日本布教の責任者として大浦天主堂の献堂式も執り行った。
ルイ・テオドール・フューレ (Louis-Theodore Furet)
 1860年に日本の布教長であるじらーる神父によって琉球から長崎に派遣。天主堂建設を主導していたが禁教下にあったため建設途中で一時帰国。しかし、信徒発見の報せが届くと再び長崎を訪れ、各地から天主堂を訪れる信徒の対応や浦上村キリシタンの指導に尽力した。
ジョゼフ・マリー・ローケーニュ (Joseph-Marie Laucaigne)
 1863年に横浜に来日し、1864年一時帰国したフューレ神父の後任として長崎に赴任。信徒発見後は信徒らが造った秘密礼拝堂を巡回し、神学生の養成にも着手。1876年にプティジャン神父が大阪を拠点にしようと考えたため、ローケーニュ神父が長崎で指導を行った。
ジュール・アルフォンス・クーザン (Jules-Alphonse Cousin)
 1866年にフューレ神父とともに来日し長崎に到着。1867年に信徒の要請を受け秘かに上五島を訪れてミサを実施。1869年には大阪に着任し、1870年に川口居留地に仮聖堂を建設。1879年には川口教会を完成させ、1891年に九州全域を統括する長崎司教に任命され、教区の指導に尽力した。

協会建設に活躍した神父
 神父らは各地で布教活動に取り組んだが、建築学に素養のある神父は自ら設計を行い、日本人の大工とともに西洋建築の教会を完成させる神父もいた。現在では日本における貴重な近代建築の事例として重要文化財に指定されている教会も多い。
オーギュスト・フロランタン・ブレルと鯛之浦教会
 1876年に来日し、伊王島や上五島を中心に担当。大明寺協会、仲知教会、江袋教会、鯛之浦教会、など多くの教会の建設に尽力した。
アルベール・シャルル・アルセーヌ・ペリューと堂崎教会
 1872年に来日し、1875年に長崎に移り外海や黒島、佐賀県の馬渡島などを担当した後、五島列島の責任者となる。大曽教会、本場教会、
ジャン・フランソワ・マリー・マトラと田平教会
 1881年に来日し、平戸や黒島など広範な地域を担当。上神崎教会、宝亀教会などの建設を担当。
ジョゼフ・フェルディナン・マルマンと黒島教会
 1876年に来日し、下後藤や長崎港外、奄美大島などを担当。黒島教会、岳教会、浜脇教会、大熊教会などの建設を担当。
マルク・マリー・ド・ロと出津教会
 1868年に来日し長崎、外海を担当。出津教会、大野教会、出津救助院の建設を担当。
ピエール・テオドール・フレノーと浦上教会
 1873年来日し、五島列島や大分を担当。長崎公教神学校の校長を務め、浦上教会の設計・建設をお行うが、完成を待たず急逝した。

1863年 ベルナール・タデー・プティジャン来日
 日本のキリシタン復活の父と呼ばれるフランス・パリ外国宣教会のプティジャン神父が来日し、長崎を拠点に布教活動に取り組む。その後日本司教を18年勤める。墓碑は大浦天主堂内部に設置されている。
1864年12月 大浦天主堂完成
 長崎の人々らはフランス人宣教師らが建造したことから「フランス寺」と呼ばれる。翌年2月に献堂式が行われた。
1865年3月17日 信徒発見
 浦上村の隠れキリシタンらがプティジャン神父に信仰を告白した。また、神学教育が始まったのもこの頃であり、1765年秋に大浦の司祭館の屋根裏に少年たちを住まわせ、キリスト教の教理とラテン語が教えられ、長崎の神学校の始まりとなった。
1868年 浦上村のキリシタンら総流刑
 キリシタンの取り締まりが厳しくなり、プティジャン神父は神学生を各地に分散して避難させ、2回にわたって国外に神学生を送った。
 第一次は1868年7月に行われ、クザン神父の引率で10名の神学生が上海に渡り、香港を経てマレーシアのベナンの神学校に入学。5年後に帰国するもそのうち4名は熱病などで源氏で死亡し、2名は途中帰国することとなった。
 第二次は1869年12月に行われ、ローケーニュ神父の引率で13名の神学生と印刷事業に取り組んでいた数人を上海に避難。ほとんどの神学生は1871年に長崎か横浜の神学校に帰還するが、2名はペナンの神学校に渡って第1次の神学生とともに1872年に帰国した。
1873年 キリシタン制札の撤去
 実質的にキリスト教が解禁。一方で、キリスト教を信仰する自由が法的に保障されるには1890年大日本帝国憲法まで待つことになる。

神学校の歴史と教育
 1870年代には東京に次いで長崎に新学校が設立され、浦上に新学校が移転するまでは1875年にド・ロ神父(Marc Marie de Rotz)の設計により完成した大浦の「旧羅典神学校」が教育の拠点として使われた。
1882年12月31日 ペナンの神学生3名が叙階
 国外避難していた神学生3名(深堀達右衛門、高木源太郎、有安秀之進)が最初の邦人司祭としてプティジャンにより叙階。叙階式には3000人もの信徒が列席したという。また、この時期に丁度新学校の最初の卒業生を送り出す。
1925年 本原町に新学校が移転。旧羅典神学校は神学生の宿舎に
1928年 第六代校長に初の日本人神父が着任
1929年 神学生は海星中学に通学
1930年 浦上の神学校が閉鎖し、大浦に新学校が戻る
1932年 東山手に移転
1940年 大浦に新学校が戻り、神学生は東陵中学に通学
1947年 大村に大神学校が移転 (翌年閉鎖され、大神学校は福岡に)
1952年 「長崎公教神学校」として橋口町に新校舎を建設し移転、南山学園が設立され、小神学生が通学
1972年 旧羅典神学校が重要文化財に指定
1989年 新しい校舎に移転し「長崎カトリック神学院」に改称

神学校の教育と生活
 神父を志す生徒らは中学校に入る年齢から親元を離れて神学生となり、規律正しい共同生活を送ることになる。小神学校と大神学校においてラテン語、哲学、神学などを10年以上かけて学んだ。
 小神学校(Minor Seminary)では、12歳から18歳までの神学生が共同生活を営みながら宗教教育を受け、聖職者的精神を培う。神学生は中学校・高等学校に通学しながら、一般の学生と同じように人文科学・自然科学の教養を身に着けた。
 大神学校(Major Seminary)では、18歳以上の神学生が在籍し、哲学や進学を6年間学ぶ。2009年以降は大学卒業、もしくはそれに準じることが入学条件となった。最終学年では助祭となり教会で司祭の補助をし、卒業後には司祭に叙階されて各地の教会に配属となる。
 長崎の神学校は創立以来、小神学校と大神学校の両方の機能を有していたが、1929年に東京に大神学校が開校すると長崎には神学科がなくなり、1948年には大神学校の教育は長崎では行われなくなった。
 長崎の神学校生活では「知育」「徳育」「体育」の3つのモットーが重視され、共同生活を営むにあたって「校舎内では食事以外の会話は控える」「週に1度の校外散歩、運動場でのテニスやソフトボールを楽しむ」「自習時間にラテン語などの勉強に取り組む」などの規則がある。

神学校の教授・生徒
 長崎の神学校において著名な歴代の教授にジャン・クロード・コンバスと浦川和三郎の2人がいる。
ジャン・クロード・コンバス (Jean-Claude Combaz)
 1880年に来日し大阪に配属され、1881年の大阪神学校で経済理論の教授を担当。1882年に大阪の神学校を長崎に統合し、ラテン語の教育に当たった。非常に教育熱心であったらしく、長崎司教に任命された後も数年間教授を務めた。
浦川和三郎
 1906年に出身地である長崎で司祭に叙階。1907年から大浦天主堂の主任司祭と神学校教授を務め、1918年には長崎公教神学校の専任教授となる。1928年からは6代目校長に任命され、初の邦人校長となった。『切支丹の復活』など、各地のキリシタン史について多数の書籍を執筆した。

 天主堂入り口手前の広場にある信徒発見の様子を描いたレリーフ。

長崎孔子廟

 大浦天主堂から北に5分ほど歩いたところに、中国の儒学の祖・孔子を祀った聖廟がある。1893年に在長崎華僑と中国・清政府によって建立された中国人が海外で建立した唯一の聖廟であり、細部まで本格的な中国の伝統様式が散りばめられている。
 最初にある儀門は聖廟の正式な内正門で昭和初期に台風で破壊されたものを再建したもので、神様と皇帝以外通行が禁止されていた。門の上部の赤い玉は太陽とも月とも表現される。

 72賢人の像。孔子の弟子の中でも特に優れていた72人で、徳・知・体に秀でた6つの芸能「六芸」に通じた賢者らの像が並んでいる。

 大成殿という1893年に建立された木造の神殿に孔子座像、父母位牌、四聖位牌などが祀られている。軒下の幕には「有教無類」(学ぶものは誰でも入門できる)の字が書かれている。

 孔子は紀元前551年に中国の春秋時代に魯国の曲阜に生まれ、釈迦、ソクラテス、キリストとともに世界の四大聖人としてたたえられた思想家である。没後には弟子らによりその教えは「論語」としてまとめられ、儒学の基となった。
 孔子の時代は「諸子百家」と呼ばれる多くの学者や論客が排出され古代思想が花開いた時代であるが、孔子はその先駆者として活躍し、学問の神様としても崇められ受験生らも多く参拝する。
 長崎孔子廟の孔子座像は高さ2mで座像としては国内最大のものらしい。

 孔子廟の奥には資料館があり、孔子の教えや日本の儒教の歴史に関する展示物が並んでいる。
 長崎が中国と頻繁に交流を持ったのは1570年に室町幕府がポルトガルとの貿易のために開港したことが発端となり、これを機に中国の唐の船も長崎に入港するようになった。当時はポルトガルとの貿易が中心であったため唐人たちは稲佐山麓に住み、稲佐の悟真寺を菩提所としていた。
 江戸時代には鎖国政策によって海外との貿易功を平戸と長崎の二か所に制限、1635年には長崎の身に制限した。その後、1639年にポルトガル船の来航を禁止したため、海外貿易はオランダと中国の2か国のみとなり、中国が貿易の主流となっていった。
 唐人らは禁教であるキリスト教を信仰していないことの証として興福寺などの唐寺を建立し、日本黄檗宗の開祖である隠元禅師が中国の高僧らを迎えた。唐人らは初期の頃は長崎の町民と一緒に住むことを許されていたが、密貿易などの弊害が起こり、1689年に長崎奉行所は十善寺郷に唐人専用の住居地・唐人屋敷を作りそこに住むように命じた。
 唐人屋敷はその後の開国や大火によって廃屋となり1870年に焼失するが、その遺構は現在も残っており、長崎中華街など中国の香り高い文化や生活習慣は長崎の地に根を張り、長崎華僑らの手によって引き継がれていっている。

稲佐山公園展望台

 そろそろ日も暮れそうなので、モナコ、香港とともに世界新三大夜景に選ばれた長崎の夜景を見ようと思い、稲佐山の展望台に上ることにした。孔子廟から中華街まで歩くとそこから稲佐山の麓までバスが出ているので、そこからロープウェイに乗って展望台を目指す。

 ロープウェイからは山の中腹に並ぶ家々を見ることができ、長崎が「坂の町」であることが実感できる。平地に住むなら住み良さそうな街だけど、坂に住むと生活は大変そうだ。

 日が沈む前に山頂についた。これが……

 こう。
 日没後15~20分も夕焼から夜空へと空の色彩が変化していくトワイライトタイムも美しい。標高333mにある県内屈指の夜景観賞スポットで坂の多い長崎の地形を活かした立体感のある夜景が見える。

 これや山の麓で見付けたリンガーハット。「長崎で一番おいしいちゃんぽんはリンガーハット」と言われるけど、長崎に来て初めて店舗を見かけたかもしれない。

夜ご飯 (2日目) - トルコライスとミルクセーキ

 1枚の皿にピラフ、スパゲティナポリタン、ポークカツの3つの味が集結した長崎生まれの洋食、トルコライス。「レストラントルコ」という店にあったワンプレートの定食が起源と言われている。1925年に創業した九州最古の喫茶店・ツル茶んでは多様な長崎洋食が食べられる。言うなれば大人向けのお子様ランチ。

 元祖長崎風ミルクセーキ。長崎のカフェの定番メニューでシャリシャリ食感が楽しめるご当地スイーツ。練乳でコクを出してレモンでさわやかな仕上がりになっている。

3日目

軍艦島

 3日目は午前中に軍艦島に行くことにした。正式名称は端島、長崎港から南西の海上約18kmに浮かぶ、明治から昭和にかけて改訂炭鉱によって栄えた島だ。

 軍艦の形をしているから軍艦島と呼ばれているけど、本当に軍艦の形してる!

 軍艦島から石炭が発見されて初期の頃は小規模な掘削が行われただけだったが、明治23年に三菱が掘削権を島ごと買収し本格的な海底炭鉱と変貌する。しかし燃料革命が起こり石油が主要エネルギー源となら石炭産業は衰退。軍艦島も昭和49年で閉山となり、無人化し朽ちていった。

 真ん中の白い建物は1-4階が小学校、5-7階が中学校で多い時には1,000名近くの生徒が在籍していた。その左の黒い建物が坑夫の住宅でトイレや洗濯場や風呂は共同。学校とは渡り廊下で結ばれており通学は容易だったそう。屋上にある増築された小さな建物は幼稚園。エレベーターはないので園児は毎日9階まで登った。

 坑夫宅のさらに左にあるのは幹部社員用住居でトイレや風呂や洗濯場も個別。坑夫宅の間取りはせいぜい二間だが、幹部用の住居は三間もあった。

 白い灯台の右にあるのが給水タンク。当初は海水を蒸留していたが、人口増加により水が運ばれてくるようになりタンクに貯められ、住宅に送られていく。右の下にある階段は現在では消失している櫓に繋がっており、炭鉱の入り口であった。地下においては火気厳禁であり、坑員はここでタバコやマッチを持っていないかの厳重な検査を受けた。
 ここから真下に600mエレベーターで下り、2500mの坑道をトロッコで移動。坑道は温度30℃湿度95%という過酷な環境の中8時間3交代制で24時間稼働していた。坑員の服は真っ黒になるため、帰る時は三層に分かれた風呂があり服を着たまま一番下の風呂に入り、その後やっと裸になり上層の風呂に入ったそうだ。

 この赤い土は天川と呼ばれる土で石灰石と赤土を混ぜたもので水を通さない性質を持ち、接着剤として使われていた。明治時代における産業革命の遺産の一つで、グラバー邸や出島の建物にも使われている。

 正面の建物は30号棟と呼ばれる大正5年に建てられた日本初の高層鉄筋集合住宅アパート。現在軍艦島に建っている建物の中で最も先に壊れるであろうと予想されている。左手の建物の31号棟は繁華街であり食糧品が運ばれた。奥には映画館 (当時は活動写真)、公民館、パチンコ (当時は椅子はなく立って打っていた) がある。
 坑員の給与水準は高く、一般的な給与の2.5倍程度であり電気ガス水道は無料だったため生活は裕福だった。そのため日本でもいち早く電化製品が一式全て揃った地域でもあったそう。建物は渡り廊下で繋がっているため、別の棟に行くのも容易。人口密度は当時の東京の9倍だった。

出島和蘭商館跡

 港から東に10分ほど歩いたところに出島がある。江戸時代に唯一ヨーロッパとの貿易を許されていた場所で、ここを通して様々な文書が行き交い、コーヒートマトビリヤードバドミントン蘭学と呼ばれた西洋の学問も持ち込まれた。現在は当時のように海に突出しているわけではないが町並みは再現されており、19世紀初頭の姿に近づきつつある。

 暮らしていた日々と美とは最高責任者の商館長(カピタン)を筆頭に、商館長次席(へトル)、貨物管理責任者の荷蔵役、医師など最大で15名のオランダ商館員や東南アジア人の使用人数名が生活していた。ただしカピタンの部屋は工事中のため公開中止になっていた。
 出島での生活は長崎奉行の厳しい管理下に置かれ、オランダ商館員は出島外への自由な外出は禁止されていた。島内ではビールの醸造やビリヤードなどの娯楽が行われていたそうだ。

へトル部屋

 へトルとは次席商館長のことであり、この建物の二階が居住スペースで、日本人使用人も二階に住んでいた。一回は東南アジア人の使用人が住み、商館用の食糧が貯蔵されていた。屋上にはもの見台が造られ、ここから湾内の船を眺める様子が多くの絵画に描かれている。内部の状況を示す資料はないため外観のみが復元されている。

一番蔵

 砂糖蔵とも呼ばれ、傷んだサトウキビを治めるのに使われてきた。オランダ人は倉庫を花の名前のコードねむで呼び、この建物は「バラ」蔵と呼んでいた。

二番蔵

 オランダ人には「チューリップ」蔵と呼ばれており、砂糖蔵や蘇木蔵とも呼ばれる。蘇木は染料に用いるスオウという木の枝の事で、輸入品用の倉庫として用いられた。

三番蔵

 オランダ人からはピンクのカーネーションを意味する「アニェリール」と呼ばれており、輸入した砂糖のほか様々な個人商売用のわきにの収納に使われた。海に面する出島の建物は建物の損傷も激しく、羽目板を張ったような見た目をしているが、もともとは漆喰塗りだったが改修のために現在のような見た目になった。

拝礼筆者蘭神部屋

 筆者とは書記役のことで、オランダ商館員の住居として使われていた。内部は長屋のように4区分に分かれ、数人の筆者が住んでいた。1階の使われ方は明らかになっていないが、土中から水銀が検出されたことから工房や医薬関係などの仕事が行われた可能性が考えられている。

地番境石

 居留地時代の出島の地番を表す境石。石には「五、四番 No5 4」と記され、五番と四番の敷地境におかれている。この出島五番地には当時ピナテール商会が設立され、父ユージヌ・ピニャテル(Eugène Pignatel)は大浦天主堂の建設に関わり、子のヴィクトレル・レオポルド・ピニャテル(Victor Leopold Pignatel)は父の事業を引き継ぐが、最愛の遊女に先立たれ長崎で死去。

組頭部屋・銅蔵

 江戸時代、日本国内の銅山で生産された銅は大阪に集められ、長崎の胴吹所で精錬・鋳造され、御用棹銅(貿易用に生産された銅)はここから中国、オランダの貿易船によって世界に輸出された。その銅を保管していた蔵と銅の計量をしていた組頭部屋が公開されている。
 銅蔵の1階には輸出用の棹銅が保管され、2階には輸入品の鮫皮が収められていた。

 銅を保管していた蔵の再現。出島では17世紀ごろには主に銀や金を輸出していたが、18世紀から主な輸出品が和銭や棹銅に形成された銅に移り変わった。
 この箱は棹銅入箱と呼ばれ、輸出用の棹銅は同じ大きさの木箱に収められ、銅蔵の中に一時保管された。箱の重さは100斤(約60kg)で半斤の棹銅200本が詰められた。

 鮫皮は輸入品の一つで鮫に限らず南シナ海やインド洋にいるエイなどの皮の総称である。日本では主に刀の鞘や柄の装飾に用いられた。鮫皮は銅蔵の2階に保管され、組頭部屋の2階で鮫皮目利による幕府買い上げ用の選別作業が行われた。

旧長崎内外クラブ

 貿易商グラバーの息子・倉場富三郎、三菱造船所所長・荘田平五郎、長崎商工会議所会頭・松田源五郎、長崎市長・横山寅一郎、などが設立の発起人となりF.リンガー(Frederick Ringer)によって建てられた、長崎に在留する外国人と日本人の振興の場として1903年に建てられた洋風建築。

 スコットランド人実業家・トーマス・ブレーク・グラバー(Thomas Blake Glover)は21歳で長崎に来日してグラバー商会を設立、幕府や各藩に武器や船舶などを販売し莫大な利益を得た。近代的な最短技術を導入した高島炭鉱の経営など日本の近代化にも多く貢献し、岩崎弥太郎が経営する三菱財閥の顧問として三菱の国際化のアドバイザーとしても活躍。自身の息子である倉場富三郎を学習院に通わせた際には二代目三菱社長・岩崎弥之助の私邸に下宿させ、富三郎がアメリカに留学した際にはのちに三代目社長となる岩崎久弥も同時期にアメリカで勉学に励んだ。

 倉場富三郎は1870年にグラバーの子として生まれ、10歳の時に長崎の居留地に回航したメソジスト派のカブリ英和学院(後の鎮西学院)に入学。その3年後、グラバーと親交の深かった伊藤博文の勧めで学習院に転向。その後ペンシルベニア大学医学部予科の生物家庭に進学して魚の研究に取り組み、1892年にホーム・リンガー商会勤務のために長崎に帰国した。

 ホーム・リンガー商会はグラバー商会の後を引き継ぐ形で設立され、製茶業、漁業、保険、ホテル業などを経営した。富三郎は年とともに昇進を重ね、新会社「汽船漁業会社」の専務取締役に任命。日本で初めて蒸気トロール船を取り入れるなど、それまで海に恵まれつつも磯漁中心であった長崎の漁業を一新し、今日の長崎の水産業の礎を築いた。

 長崎内外倶楽部(Nagasaki International Club)は、外国人居留地の制度が廃止され壁が無くなった外国人と日本人の一層の友好を目的とした社交クラブとして創設された。内外倶楽部は歴代の県知事を会長に、市長と専任外国領事を副会長にして運営された。初会合は1899年8月1日に西浜町の料亭「精洋邸」で開かれ、日本人125名、中国人5名、欧米人20名が出席した。

 毎月開催された例会は当初商工会議所ホールで行われていたが、3か月後の同年11月に浜町の「港湾事務所」の建物に移転。1903年に倉場富三郎は雇い主のF・リンガーに内外倶楽部を出島に新築移転するための協力を要請し、リンガーが建築費の大部分を負担する形で出島7番に「内外倶楽部」の建物が新築された。

 長崎内外倶楽部の会員名札入れ。当時の会員であった日本人と在留外国人双方の名前札が入れられた。

旧出島神学校

 1875年に創設された出島教会に隣接して1878年に建てられた英学校。1883年には出島聖公会神学校となり、日本で最初に設立されたキリスト教プロテスタントの神学校である。

 1859年に出嶋和蘭商館が閉鎖されると出島にはオランダ領時間が置かれ、最後の商館長が初の領事として就任。幕府が諸外国と結んだ条約では外国から来た人々が住むための居留地を設置することが定められ、出島も1866年に外国人居留地の一部となった。

 1873年にキリシタン禁制の高札が撤去されると出島の中にも協会が建てられるようになり、日本人を対象とした英国系の出島教会が1875年に建設されると、1878年に現存する新学校の建物が建設。その他にも米国系の出島ウエスレー協会が建てられるなど、出島の東側を中心に新教の教会や学校が立ち並んだ。

 イギリス教会伝道協会のバーンサイド(Henderson Burnside)は居留地の外への外国人の出入りが制限されていたため日本人伝道者の育成が急務だと考え、日本人向けの英語教育とキリスト教教育を行う神学校として出島英和学校を建設。出島英和学校が閉鎖されると「聖アンデレ神学校」を移転させ出島聖公会神学校となった。

 神学校としての役割は1886年に終了し、その後は宣教師の宿舎などとして使用されたが1910年に民間に譲渡され、その後は病院棟として使用。1972年に長崎市が買収した。2006年には史跡全体が「出島」として開場された。

ケンペル・ツュンベリー記念碑

 商館医シーボルト(P.F. von Siebold)は同じく商館医として来日したケンペル(E. Kaempfer)ツュンベリー(C. Thunberg)の偉業を検証するために1826年に記念碑を出島の花畑に建てた。シーボルト、ケンペル、ツュンベリーの3人は出島の三学者といわれ、日本の発展に寄与した。

お昼ご飯 -3日目-

 出島を後し、長崎の郷土料理である卓袱料理を食べるためにレストランに向かう。
 卓袱料理は丸い食卓を囲んで大皿に盛られた料理を各人が自由に取り分けて食べる長崎の宴会料理であり、中国語で卓袱の「卓」はテーブル、「袱」はクロスを意味する。それまでの日本では一人一人のお膳が基本であったが、唐人屋敷ができるまで中国人と長崎の市民は街の中で一緒に暮らしていたため、この中国式の食事形態が長崎の町民に広まったとされている。後に、一般の家庭に普及した小型の食卓「卓袱台(ちゃぶだい)」もこれが語源になった。
 料理の内容としては和食、中華、オランダの要素が混じって構成されていることから「和華蘭料理(わからんりょうり)」と呼ばれている。

グラバー園

 長崎観光の最期の目玉は2015年に世界遺産に登録された旧グラバー住宅をはじめ、旧リンガー住宅、旧オルト住宅、旧ウォーカー住宅などを復元・移築によって保存させた洋風建築9棟が公開されているグラバー園。建物だけでなく長崎港を見下ろす景色や四季の花が咲き乱れる庭園、レトロなカフェなど様々な魅力が詰まっている。

旧三菱造船所第2ドックハウス

 1896年に三菱造船所第2ドックの建設時に建てられた外国人乗組員用の宿舎。

 ドッグハウスからの眺めがめちゃくちゃ良い。

 ドックハウスの側には兵学者・高島秋帆による大砲が接地されている。鉄砲鍛冶の野川清造によるものらしい。

旧ウォーカー住宅

 ロバート・N・ウォーカー(Robert N. Walker)は1898年に荷揚げ業R.N.ウォーカー商会を設立し、1904年にはバンザイ飲料製造会社の清涼飲料を販売しバンザイブランドとして成功を収めた実業家である。
 1908年に事業を譲り受けた次男のロバート・ウォーカー二世が1915年に購入し生涯を過ごし、1974年に南山手28番地からグラバー園に移築された。

 ロバート・ウォーカー2世は、ウォーカーと福田サトの次男として1882年に神戸で生まれた。北アイルランドのベルファストの学校を卒業したのちに長崎に踊り、R・N・ウォーカー商会に就職。1908年にウォーカーが4人の娘とともにカナダに移住する際にR・N・ウォーカー商会の権限を譲られる。
 1915年にロバート・ウォーカー2世はこの旧ウォーカー邸を購入。無国籍だったウォーカー2世は1928年に日本国籍を取得しRobert Walkerから「ウォーカー・ロバート」に改名した。
 1937年にはメイプル・シゲコ・マックミランと結婚し、2人の息子の父となる。
 太平洋戦争勃発にともない憲兵隊によりR・N・ウォーカー商会の閉鎖を命じられる。ウォーカー2世夫妻は日本国籍を取得していたために強制収容所行きは免れたが、憲兵や特高警察により一挙一動や隣人の行動は厳しき監視された。
 1945年8月9日午前11時、飛行機の爆音とパラシュートの落下を目撃したウォーカー2世は妻と子の3人を防空壕に避難させたが、自身が避難する時間は残されておらず、この際に強力な熱線を背中に浴びた。
 終戦後の1945年9月23日、連合軍の第一波が長崎港に到着。ロバート・ウォーカー2世一家は長崎に残る唯一の「外国人」とみなされ連合軍から食料や生活物資が与えられた。連合軍が去った後は2人のっ息子とともに南山手乙28番地の住宅で静かな老後の生活を送り、長崎港を見つめながら隠遁生活を送った。
 1858年8月22日、ロバート・ウォーカー2世は死去。彼の死が新聞に取り上げられることはなかった。

 ウォーカーの前にはベル・ビュー・ホテルのイタリア人経営者C・N・マンチーが住んでおり、1871年6月10の英字新聞「ナガサキ・エクスプレス」に「南山手乙28番地のバンガロー式邸宅」の売却広告が載っている。この時の買い手は明らかになっていないが、その後1888年にデンマーク生まれのアメリカ人航海士M・C・カールセンが妻・上杉ソモと共に住んでいたことが記録されている。カールセンは1895年10月に他界し、遺体は坂本国際墓地に埋葬されたが親族の希望で掘り起こされ、アメリカに返されることになった。

祈りの泉

 庭園内にキリシタン迫害による隠れキリシタンの苦悩と救いを象徴したデザインの壁泉がある。三角形は祭壇を表しており、滝は苦悩や矛盾を洗い清めて救いに導かれる過程を表現している。

プッチーニと三浦環の像

 イタリアの作曲家ジャコモ・プッチーニ(Giacomo Antonio Domenico Michele Secondo Maria Puccini)と長崎を主題としたオペラ『蝶々夫人』を唄い続けた三浦環の像が飾られている。
 1943年から3年間旧グラバー住宅に住んだ、最期の住居者であるアメリカ進駐軍大佐のジョセフ・ゴールズビーと妻のバーバラはグラバー邸の事を「マダム・バタフライ・ハウス」と呼んでいたが、ゴールズビー夫妻より前に「蝶々夫人の家」と詠んだ形跡とは見当たらないため、長崎がオペラの舞台であることを知っていたゴールズビー夫妻がエキゾチックな建築様式と美しい景色に魅せられて使い始めたといわれている。次第に日本人もこの愛称に乗っかり、復興ならない被爆地に観光客を誘って経済を立て直すきっかけにしようと考えるようになっていった。
 1949年にはアメリカ進駐軍が接収していた旧グラバー住宅を開け渡し長崎から去っていったため、長崎の観光産業を活性化させるために広く使われるようになり、1963年5月に三浦環の銅像がグラバー園の真横に設置された。銅像のポーズは蝶々夫人が幼い息子を隣に、父親のピンカートン大尉が間もなく帰ってくるはずの長崎港を指す姿が表現されている。

旧リンガー住宅

 建物自体はトーマス・グラバーの弟アレキザンダーが1864年に永代借地権を取得し、1868年に住宅が建てられた。その後、フレデリック・リンガー(Frederick Ringer)が1874年に取得し、カロリナ・ガワーとの結婚を機に1883年から自邸とし、1913年からは次男シドニー・リンガーが住み、戦乱の時を経て1965年まで暮らしていた。家の愛称は「ニバン」。
 イギリス・ノーフォークに生まれ若くして中国に渡ったフレデリック・リンガーは中国・九江で茶葉検査官をしていたころにグラバー商会に招かれ、1865年から製茶事業技術顧問として長崎で製茶の輸出を監督。1868年にグラバー商会の茶葉貿易事業を引き継ぐ形で同僚エドワード・ホーム(Edward Zohrab Holme)と共にホーム・リンガー商会を立ち上げる。その後の事業は貿易、保険・海運会社の代理店、領事業務、英字新聞刊行、ホテル経営と多角化を遂げ、長崎の明治期の産業経済界に大きな功績を残した。

 フレデリック・リンガーは1898年に近代的な捕鯨法を持つ18tの捕鯨船・オルガ号をノルウェーの造船所に発注し捕鯨業で成功をおさめ、日本人企業家も続々ノルウェー式捕鯨船を導入するようになった。この功績により後にノルウェー王により長崎名誉ノルウェー領時の地位を与えられた。
 また、トロール船を活用した近代漁業にも貢献し、19世紀の日本の漁業は伝統的な底引き網漁法が主流だったが、グラバーは西欧流の船尾に括り付けられた袋状の網を海中に投入して船を動かし網を引くトロール漁法を日本に導入した。長崎は漁業産業における蒸気トロール船の本拠地として理想的な環境と確信したリンガーは1907年にホーム・リンガー商会事務所内に「汽船漁業」を設立し、イギリスの造船所から鉄製蒸気トロール船「深紅丸」を購入。これまでの日本の漁法と比べて飛躍的な漁獲量をもたらし、その後、汽船漁業はトロール船の数を増やし、日本初の蒸気トロール船会社として活躍していくことになる。
 晩年のリンガーはほとんどの行事や事業から身を引き、南山手2番地の自宅でゆっくりと余生を送っていた。当時長崎に住んでいたデンマーク人は「リンガー氏は隠遁していて、ときどき昼食会に顔を出す以外は、長崎居留地の楽しい社会行事に参加しようとしなかった」と述べる。また心臓病を患っていたため階段を上ることが困難になったため、自宅まで人力車を通す必要があり、結果論ではあるが日本初期のアスファルト道が造られることになった。

 フレデリック・リンガーの死後は次男・シドニー・リンガーがホーム・リンガー初回の後継者となり、南山手2番地の邸宅に妻と2人の息子マイケルヴァーニャの4人で暮らした。息子2人はイギリスの名門マルバーン・カレッジを卒業後に日本に帰国。二人の若い兄弟は旧長崎居留地に新風を巻き込み、ホーム・リンガー商会と瓜生商会(ホーム・リンガー商会の下関支店)の活動はますます活発になった。リンガー家の庭師・富田幾太郎の義理の娘・富田純子は地元の女の子らは美男子のマイケルやヴァーニャが近くを通り過ぎるたびにうっとりと見とれていたと述べている。
 シドニー・リンガーは1940年10月に戦争勃発の危機を感じ、妻・アイリーンと共に上海に逃れるも1943年に日本軍により拘留され、終戦まで中国の強制収容所に投獄された。長崎におけるリンガー家所有の土地と建物は「敵国財産」として売却された。
 1951年2月に2人は長崎に帰国するも、その時に旧リンガー住宅は日本人家族が住み着いており、財産を取り戻す法的手続きに数年かかった。その後は一時的に日本を訪れることはあるものの定住することはなかった。
 邸宅は1958年から1964年まで広島と長崎に設立された原爆渉外調査委員会のアメリカ人専門家らに賃貸に出していたが、1965年にシドニー・リンガーは1,800万円で土地と建物を長崎市に売却。1966年に「旧リンガー住宅」として一般公開された。

 あまり知られていないが、フレデリック・リンガーには娘リナ(Lina)がおり、1886年に長崎で生まれた。イギリスで学校教育を受け帰国したリナは父の反対を押し切り英字新聞「ナガサキ・プレス」の記者ウィルモット・ルイスと結婚。長女を出産後、ウィルもっとは「マニラ・タイムズ」紙の記者に転職し、家族でフィリピンのマニラに移住。1916年にはウィルモットは第一次世界大戦の取材のためにフリージャーナリストとなり単身でヨーロッパにわたる。その成果を讃えられ仏蘭西政府から勲章を受け、1920年には「ザ・タイムズ」紙のワシントン特派員としてアメリカに移住。一方のリナは南山手14番地の実家・旧オルト住宅に戻り、母親と兄弟とともに暮らし、娘らは聖心女学校に通学した。
 1925年にリナは夫の不倫を原因として英国裁判所に離婚申請書を提出。裁判所は離婚を認めウィルモットに慰謝料と養育費の支払いを命じるが、その4年後リナは43歳で他界した。

 国際貿易港として栄えた長崎の黄金時代に建てられ、極東一豪華なホテルと言われた「ナガサキ・ホテル」。鹿鳴館や上野博物館の建築で有名なジョサイア・コンドル(Josiah Conder)によって設計され、港の眺望、電話、自家発電、高価な欧州の家具調度品、食器類、ワイン、理容室、厨房など世界に誇る最新の設備が揃っていた。リンガー邸内にはナガサキ・ホテルで使用されたMappin & Webb社製のカトラリーが置かれており、イニシャルのNHL (Nagasaki Hotel Limited)が刻印されている。
 日露戦争後にはナガサキの繁栄は衰退し、旧外国人居留地のホテル蜂木次とホテルを消し、長崎・ホテルを経営していた会社は1904年に倒産。ホーム・リンガー商会がホテルを引き継いだが、1908年に閉業し家具や食器類はオークションに売り出された。その後商人の森荒吉が操業を再開したが運営はうまくいかず1924年に閉業し、建物は解体されることになった。

 リンガーの2人の兄も大きな功績を残している。昔「リンゲル」と言えば点滴のことを意味していた時代もあったが、輸液に使用される「リンゲル液」を発明したイギリスの医師シドニー・リンガー博士(Sydney Ringer)はフレデリック・リンガーの兄である。シドニー・リンガーはロンドン・カレッジ大学医学部教授として人間の鼓動とイオンとの関係性に関する先行的な研究で名声を博し、1885年に王立協会のフェローとなった。『リンガーの治療学ハンドブック』は薬理学者の定番教科書となり、リンガー液は現在でも世界中の医療機関で扱われている。

自由亭

 長崎市内にあった日本人シェフによる西洋料理店「自由亭」の建物を移築復元。日本に西洋料理がもたらされたのは16世紀中ごろ、ポルトガル船の来航に由来するとされており、西洋料理の味と技術は唯一の開港地・長崎のオランダ屋敷からもたらされた。

  2階は喫茶店になっていて、長崎名物にカステラとダッチコーヒーを楽しむことができる。

旧オルト住宅

 イギリス人商人・ウィリアム・オルト(William Alt)の私邸。施工は天草の小山秀之進。木造だけれども外壁は石造で天草の砂岩が使われている。噴水は長崎最古のもので高低差を利用した位置エネルギーを用いて水を噴き上げる。
 オルトは1840年に陸軍将校の長男としてロンドンで生まれるが、若くして父を亡くすと家族を助けるために13歳の時に帆船・シャーロット・ジェーン号の乗組員となる。1857年10月に上海に寄港した際に下船し、ポルトガル人経営のバロス商会に就職。1858年には上海の税関所に炎色して国際貿易のノウハウを学んだ。1859年10月には開港後の長崎を訪れて商業の可能性を感じ、税関の退職金と友人からの融資を資本に19歳で1860年にオルト商会を開業。製茶業を主軸に海産物や米の輸出と食料・布類や中古船の輸入を行う貿易商として成功。
 オルトは1868年までこの旧オルト住宅に住んでおり、その後は活水女学校の校舎、アメリカ領時間、フレデリック・リンガー長男一家の住宅として使われた。
 土佐藩との交流が深く、三菱社創設の一翼を担い、岩崎弥太郎の日記には5月22日の聖福寺での談判の後にも坂本龍馬は後藤象二郎、岩崎弥太郎とともにオルトを訪れている記述がある。

 1985年にはオルトのひ孫・モンゴメリー子爵婦人が旧オルト住宅を訪れ、その際に夫人の母親がヒッチコックのホラー映画『鳥(The Birds)』の原作者である小説家ダフネ・デュ・モーリア(Dame Daphne du Maurier)であることが明かされた。1931年に『愛はすべての上に(The Loving Sprit)』によってデビューしたモーリアはウィリアム・オルトの孫の軍人フレデリック・ブラウニング(Frederick Browning)と結婚。特に『レベッカ(Rebecca)』は『風と共に去りぬ』のデイビッド・O・セルズニックのプロデュースにより1940年五映画化され、ア古レッド・ヒッチコックのアメリカデビュー作となり、同年のアカデミー賞の作品賞に輝いた。

 旧オルト住宅の最期の外国人所有者はフレデリックリンガーの長男フレディーとその妻アルシディーである。1940年にフレディーが死去した後もアルシディーは旧オルト住宅に住み続けたが、太平洋戦争が勃発した翌年の12月8日の朝に警官によって逮捕。梅香崎刑務所で尋問され、スパイ活動の罪で告発され、罰金300円の支払いが命じられた。1942年4月に釈放されると今度は数名の外国人とともに聖マリア学院の校舎に収容され、同年7月21日にようやく自宅に戻れることになった。その直後、アルシディーはイギリス人外交官や民間人を帰国させるための交換船に乗り日本を去った。

旧スチイル記念学校

 旧スチイル記念学校は東山手9番の英国領事館跡地に建てられた学校で、1887年9月に開校。設計はアメリカ人宣教師ヘンリー・スタウト(Henry Stout)。名前の由来は宣教師W.H.スティール。長崎では東山学院と呼ばれ、英語教育が盛んなことで知られた。1932年に東京の明治学院に合併され、その後長崎公教神学校、東陵中学校、海星学園へと変遷していく。

ハートストーン

 グラバー園内にはハートストーンと呼ばれるハートの形をした石が2つだけある。両方見付けると恋が叶うといわれていたりいなかったりする。

 1つ目は比較的見付けやすく、旧グラバー住宅の庭付近にある。

 2つ目は旧グラバー住宅から南のレストハウスに折りていく途中にある。こっちはわかりにくい。

旧グラバー住宅

 グラバー園の目玉、旧グラバー住宅。スコットランドの承認トーマス・B・グラバーが親子二代で暮らした邸宅であり、日本の伝統的な建築技術と西欧様式が融合する、現存する日本最古の木造洋風建築である。建設は天草の棟梁・小山秀之進。当時は旧グラバー住宅のすぐわきに大きま末の木が聳え立っており、グラバー自身は自宅の事を「IPPONMATSU」と呼んでいた。

 グラバーは1838年にスコットランドのフレーザーバラで8人兄弟の5番目として生まれ、アバディーンに移り住んで少年期を過ごした。青年になったグラバーはイギリスの貿易会社ジャーディン・マセソン商会に入社し、1859年に21歳の時に長崎に来航。業務内容はジャーディン・マセソン商会の代理人ケネス・ロス・マッケンジーをサポートすることだったが、マッケンジーは1858年の天津条約により中国が開港すると漢口での業務のために長崎を去り、すべての業務をグラバーに一任した。その後、1862年にグラバー商会を設立。1863年にグラバー邸が建てられた。
 日本に蒸気機関を導入したのもまたグラバーである。1865年にはグラバーは大浦海岸通に数百メートルの線路を敷設し、日本初の蒸気機関車の公開運転を行った。その時の様子は唐津から長崎見物に来ていた平松義衛門が日記に書き残している。その後、グラバーは薩摩藩の五代友厚小松帯刀とともに上記の動力により大型船を陸に引き上げる終戦場を長崎港口の小菅に建設。また、長崎港外の高島において佐賀藩と共同で蒸気機関を導入した西洋式炭鉱を開発した。
 グラバーは貿易商として日本に西洋の近代技術を導入しただけでなく、日本人の英国留学を援助を行った。1865年には薩摩藩より五代友厚を含めた19名を「オーストラリアン号」で鹿児島県いちき串木野市羽島から出航させた。特に、当時13歳であった長沢鼎は学校の量ではなくスコットランドのアバディーンのグラバーの実家から中学に通ったらしい。
 造幣局の設立にも尽力し、1871年に明治政府化は貨幣制度を確立するために造幣局を設立。設立にあたり尽力した五代友厚は造幣機を導入するためにグラバーに協力を依頼した。グラバーは香港のオリエンタル銀行を通じて造幣機会を調達し、造幣局操業を監督させるためにイギリス人専門家を大阪に手配した。
 1881年2月9日にはフレデリック・リンガーと共に日本初のダイナマイトのデモンストレーションを行い、ダイナマイトの正しい取り扱い方とその爆発力、通常の状態での安全性を示し、石炭などの鉱物の産出高の向上に貢献。グラバーは自宅の庭の井戸をダイナマイトで堀り、大浦天主堂の神父らがイギリス領事に騒音の苦情を伝えた記録も残っている。
 また、1885年には横浜でビール会社「ジャパン・ブルワリー・カンパニー」の設立に尽力。国内に滞在する外国人と日本人の投資によって工場を建設し、ドイツより技術者を招聘し良質なビールを醸造。後の、キリンビール株式会社である。旧グラバー住宅の玄関には一対の狛犬があるが、この狛犬がキリンビールのラベルに描かれる麒麟の原型になった。しかしながら、キリンを描いた画家やビールのシンボルにこの生き物を選んだ経緯についてが現在でも分かっていない。

 これらの功績が讃えられ、1908年7月10日に明治政府より勲二等旭日重光章を授与された。伊藤博文と井上馨による叙勲申請書草案では「彼素より営利の商人なれども、その自信の方針を貫徹せんとせば、勢い営利の範囲を脱して誠意と熱心とを以て事に当たらざるを得ず。この形跡は前記の事実に徴らして較然明著なりと請うべし」と記述されている。
 叙勲から3年後の1911年12月16日、グラバーは東京の自邸にて死去。享年73歳。グラバーの死は彼の功績とともに国内外の新聞に掲載され、東京と長崎の双方で執り行われた葬儀には政府高官や各国体し、実業界の代表など数多くの著名人が参列した。墓は長崎の坂本国際墓地にある。

  解法的なベランダを持つバンガロー形式の洋風建築で、T字型の平面や、放射状に棟を付けた屋根、曲線を多用したベランダなど。特徴的な意匠が目に留まる。屋根は瓦葺きで一部はガラス葺き。ベランダの床はウラジオストクの御影石。
 グラバーは1877年に三菱の顧問として東京に移住する際に長崎の英字新聞に家の売却広告を出したが、結局は売らずに所有権を持ち続け、長崎にいない間は他の外国人居留者に賃貸に出していた。

 ベランダは丸柱やアーチなどの曲線が多用されている。柱の間隔は広く、天井が湾曲させてあるので開放感がある。

 明治20年頃に増築された温室は腰壁に石を使い、窓と屋根の前面にガラスが使用された西洋式。当時もサイネリアやゼラニウムが所狭しと置かれていた。

 20代のグラバーが日本人と多くの取引をこなしており、1863年に長崎イギリス領事のジョージ・モリソン(George Staunton Morrison)は「日本語が流ちょうなグラバーは高い階層の日本人と友好関係にあり、その人々からとても尊敬されている」と報告している。実際、外国人居留地内でも中心的な存在であり、居留地内の自治会などでも中心的役割を果たしていたらしい。

 グラバーの息子の倉場富三郎は1871年1月にグラバーと加賀マキとの息子・新三郎として誕生した。淡路屋ツルを養母として育った新三郎は東山手の加伯利英和学校(Cobleigh Seminary)に入学後、東京の学習院に転校。この頃から富三郎を名乗り、東京では三菱社長・岩崎弥太郎の私邸に下宿していた。その後魚類の研究のためのアメリカ留学を経て1892年に長崎のホーム・リンガー商会に入社。日本国籍を取得し倉場富三郎に改名。
 居留地制度が廃止となった1899年にスコットランド人と日本人の地を引く富三郎は外国人との交流の場を設けるために「長崎内外倶楽部」を設立し、出島7番地に2階建ての洋風クラブハウスを建設。晩餐会を取材した『ザ・ナガサキ・プレス』は「知事、市長、米国領事を含む76人のメンバーが出席したが、堅苦しさや過度のフォーマルさはなく、素晴らしい食事が終始スムーズに進行した」と報じている。
 同じく1899年、グラバーの知人であったイギリス人商人ジェイムズ・ウォルターと中野エイ夫妻の次女・中野ワカと結婚。2人の間に子供はできなかったが、亡くなるまで仲睦まじく連れ添ったそう。
 1913年には避暑地として人気の雲仙に日本初のパブリックコース(非会員制のゴルフ場)「雲仙ゴルフ場」を作ることに尽力し、当時は外国人専用のゴルフ場ばかりであった中、日本人も利用可能としたコースによって日本人と外国人の交流はより盛んになった。
 1912年に、アメリカ留学の事から魚の研究を行っていた飛び三郎は地元の画家5人を雇い魚の写生を開始。飛び三郎が市場で仕入れた魚を自宅に持ち込み、20年余りの歳月をかけて完成した絵図は「日本西部及び南部魚類図譜」、通称「グラバー図譜」として現存しており。558種の魚を写生した700枚と123枚の貝、鯨図譜を含む823枚で構成され、日本四大魚譜の一つとなっている。

 倉場富三郎とワカは1909年から1939年の間旧グラバー住宅を自宅として使い続けたが、1939年に三菱長崎造船所に売却。進駐軍の撤退後に三菱長崎造船所は旧グラバー住宅の所有権を取り戻し、しばらく社員クラブとして利用されていたが、1957年に造船所の前身・長崎溶鉄所の100周年記念として長崎市に寄贈。1958年に入場料10円で一般公開された。1961年には日本政府に重要文化財として指定され、1974年にオープンした「グラバー園」の目玉となる。2015年7月5日には「明治日本の産業革命遺産 製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」構成資産の一つとして世界遺産登録された。

 1945年8月9日、富三郎は長崎の北部で原爆投下の際に強烈な爆風を感じたと記録している。そしてその17日後の8月26日に自害。戦争への絶望感ではなく、アメリカと日本の両方のバックグラウンドを持つゆえに根本的にどちらの側につくこともできない葛藤からの自殺であると考えられている。

 富三郎の育ての親である淡路屋ツルについてはほとんど知られていないが、グラバーとツルは正式な婚姻関係は結んでいなかった。また、ツルについても大阪市新町に生まれ「淡路屋安兵衛」の養子になったと戸籍に記されている一方で、大分県出身という記述もあり、その身元は謎に包まれている。1949年には義理のひ孫にあたる野田平之助が長崎日々新聞に以下のように述べている

「大分県竹田村岡城御普請大工中西安兵衛の娘としてツルさんは生まれ、十五の時同町の山村國太郎と結婚して山村ツルと名乗り文久三年娘センを生んだが、しゅうととの折れ合いがわるくそのうえ夫國太郎の乱行にたまりかねて離婚して大阪で一年ばかり芸者をしたのち長崎に渡り、ここでも芸者をしているうち、当時の三菱造船所の技術顧問をしていた英人グラバーと結婚、東京で四十九歳を最後として華やかな環境の中に死んで行った」

「長崎日々新聞」昭和24年10月2日号

 また、長崎市役所に保管されている戸籍では1876年9月9日に女の子を出産しハナと命名した。ハナは幼少期を長崎と東京で過ごし、1897年1月にホーム・リンガー商会に勤務するイギリス人ウォルター・ベネットと結婚。翌年にベネットはホーム・リンガー商会仁川支店の営業責任者となり、その後独立して「ベネット商会」を旗揚げし、院長における英国領時も務めた。夫婦は1938年にハナが亡くなるまで朝鮮に滞在し、ハナの死後ベネットは対栄養戦争勃発直前にイギリスに戻りロンドンで病没した。
 ウォルターとハナとの間には4人の子供がおり、仁川で生まれ育ったが学齢に達した際に日本やアメリカに留学。長男トーマス・ベネットはマリア会が経営する長崎東山手の海星学校初等科に入学し、叔父の倉場富三郎が住むグラバー邸から通学。15歳でオハイオ州デイトンにある聖マリア大学(現・デイトン大学)に進学し、第一次世界大戦中はパイロットとして米国空軍に仕え、戦後はウィスコンシン大学を卒業して電気工学技士としてジェネラル・モーターズ社に就職した。4人の子供のうちトーマスのみが子宝に恵まれたため、長男ロナルドが現存するグラバー唯一のひ孫である。

 グラバー園から三菱の造船所が見えるめちゃ良い光景。

シースクリーム

 散歩がてら商店街にある梅月堂でシースクリームという長方形の長崎の定番スイーツを買ってみた。カスタードをスポンジケーキでサンドして生クリーム、シロップ漬けの黄桃とパイナップルを載せたケーキ。生地とクリームとフルーツの組み合わせが良い。

夜ご飯 -3日目-

 夜ご飯は思案橋横丁にある街中華でカレー皿うどんを食べた。極細麺にカレー風味のあんが絡んでとてもおいしい。

4日目

 ホテルを引き払って長崎を去る。正直な所3泊では少し足りなかった。もう1泊したい。しかし旅程の都合もあるので、次は同じく長崎県の小浜・雲仙に向かう。雲仙行きのバスが長崎から出ているので1時間15分くらいバスに揺られて小浜へと向かう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?