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ぶらりくり -愛媛・大洲編-

 フェリーが八幡浜港に到着すると、港町を散策しながら港のすぐそばにある「八幡浜みなっと」から伊予鉄南予バスに乗り、大洲に向かった。約30分ほどバスに揺られ大洲本町駅で下車。投宿先は大洲城下に点在する歴史的な邸宅をリノベーションしたNIPPONIA HOTEL 大洲城下町


1日目

 大洲を出た後は同後に向かい、温泉にでも使ってゆっくりしようとしていたのだけれども、ではなぜ中継ぎ大洲に宿をとったのかというと大洲市長浜の冬の風物詩「肱川あらし」を一度見たいと思ったからだ。これは早朝に発生するので松山から朝一の電車に乗って向かっていたのでは借りに発生したとしてもとうてい間に合わない。肱川あらしを見学するためには大洲に停泊することが必須条件になる。
 とはいえ、発生確率は非常に低くそれでもみられるかどうかはわからない。ありがたいことに現地の有志による「肱川あらし予報会」が前日に翌朝の発生確率を教えてくれるので、そこで可能性が高そうだったら向かってみる。ダメそうなら諦めて道後に向かうというプランで行こうと思う。

臥龍山荘

 大洲は大洲城の城下町である古い町並みが広がっていて、明治の建築や昭和レトロなテーマ館や昔の建物を利用した商店などが点在している。その中でも特別な名所が肱川を借景とした庭と凝ったつくりの建物が見どころの明治の山荘庭園・臥龍山荘である。

 臥龍山荘は予州大洲藩3代藩主・加藤泰恒が山荘の正面に位置する蓬莱山が龍の伏す姿に似ていることから「臥龍」と命名したことに由来するという。幕末までは歴代藩主の雄招致都市手厚く保護されてきたものの、明治維新後には人の手を離れ自然交配してしまった。現在の山荘は木蝋と絹の貿易商・河内寅次郎が余生を過ごすために資材を投じて、大洲の大工・中野虎雄とともに築いたとされている。

 臥龍山荘は臥龍院、知止庵、不老庵の3つの建物からなる。山荘に入ってまず目に入る臥龍院は茅葺屋根の農家風の外観で、桂離宮や修学院離宮、梨本宮御常御殿などを参考に建てられた。玄関は迎礼の間と呼ばれ、入口の軒下にある額は禅宗の一派である黄檗宗三筆の一人即非如一の筆で「花は開く、太平の春」と書かれている。

清吹の間

 臥龍院の清吹の間は別名「夏の部屋」とも呼ばれ北向きで風通しが良く、高天井に藤の敷物など夏向けに工夫された部屋となっている。

 ます。この部屋は、泉水の間といいます。夏向きに作られた部屋ですので、北向きで風通しがよく、足元には塔が敷かれ、天井は他の部屋より高く作られており、涼しさを表現した細工が随所に見られる。また天井は二重張りになっており、天井裏には柴栗のイガを敷き詰めネズミの害を防ぐ工夫がなされている。

 神棚の下の広い書院の欄間には高台寺の蒔絵を模した「花筏」の透かし彫りがみられ、水にちなんだ透かし彫りが視覚的にも涼しさを感じさせてくれる。これは桜の花に筏で春だが、中庭に面した欄間には水門で夏、左側の「壱是の間」との欄間には菊水で秋、仏間との間の丸い窓は、雪輪窓と呼ばれる窓で冬を表しており、それぞれに水にちなんだ彫刻で、四季が表現されている。

 彫り物は、すべて十三代駒沢利斎、塗りは九代中村宗哲、金具は九代中川浄益など、茶道の千家歴代の家元が好んだ茶道具を作る千家十職の手によるものとなっている。

 正面の上段にある神棚は正面に皇大神宮、両側には大洲地方の神社がまつられている。河内寅次郎は敬神の念が厚く毎年神楽を奉納をしていた。神棚はイチイの木を使って山形の落とし掛けを作り、その下の所員は楠の壱枚板が使われている。

壱是の間

 壱是の間は天井を高くした拡張の高い書院座敷であり、丸窓、濡縁、障子戸、天井板などに桂離宮の様式が取り入れられている。床の間は殿様を迎えるために一段高く作られており、床柱は杉の木の名木の四方糸柾を使い左側の書院窓の欄間には十三代駒沢利斎の手による鳳凰の透かし彫りが見られ脇板には樹齢3000年の化石化した非常に硬い屋久杉の木が使われている。

 この部屋にはエピソードがあり、建築後20年を経たある日、建築に携わった大工の草木國太郎が立ち寄ったが、床の間の回し長押を一目見て「寸分の狂いもない他は見る必要はない」と言って引き上げたという。

 畳は目が非常に細かくて一日一枚しか作れなかったといわれており、この畳を上げると板の間となり能舞台に変わるようになっている。床下には音響をよくするために備前焼きの壺が四方に3個ずつ合計12個置かれてある。

 廊下の上の丸窓は桂離宮では横一辺に6個の同じ丸窓が並べてられているが、ここでは5個の小さな丸窓と2個の大きな丸窓をバランスを取るために上下に散らしてある。

 また座敷に座り中庭を見ると廊下の障子戸が目障りにならないように柱がなく、腰板には唐紙が張られている。反対に庭から中を見ると腰板と天井に同じ春日杉が使われている。

霞月の間

 臥龍院最後の部屋は霞月の間と呼ばれ、京都大徳寺の別院玉林院にある茶席の霞床の席が参考にされて作られた部屋である。床の間にある違い棚はかすみ棚と呼ばれ霞を表しており、丸窓の奥は仏間になっており蝋燭に明かりが灯されると月明かりのような情景が醸し出されるという。つまり、月に霞で霞月の間というわけである。

 2枚の薄間は薄暮れを表現しており引き手にはコウモリの意匠があしらわれている。


 床の間は通し落とし掛けと呼ばれる床柱を省いて桐の木で渡すようになっており、床框は九代中村宗哲のため塗りによるもの。
 欄間の左隅は壁の一部を故意に塗り残して荒れた農家の風情を表し、わびさびの表現がなされている。

 縁側の廊下は仙台松の一枚板が使われている。寄木のごとく溝が彫ってあるが、よく見ると木目がきちんと揃っていることがわかる。
 壱是の間との間の廊下にある板は松を好んで描いたといわれる日本書家の大家鈴木松年の作。

知止庵

 臥龍院から中庭を歩いた先に知止庵と呼ばれる建物が建っている。これは臥龍院と同時期に浴室として建てられ、1949年に茶室に改造されました建物である。この茶室には大洲藩十代藩主加藤泰済公の筆による「知止」の額を掲げており、「知止」とは大洲に所縁のある陽明学の祖中江藤樹が中国戦国時代の思想書『大学』より引用した言葉で「人間は適当なところで留まることを心得なければならない」との教えを意味する言葉である。

 知止庵の側の庭園は肱川冨士山の眺望を利用した借景庭園で神戸の庭師植徳が十年の歳月を費やして築き上げた河岸庭園となっている。石積みは「流れ積み」、「乱れ積み」、「末広積み」など多種類の様式を随所に取り入れ、庭石一つ一つにもこだわりがみられ、例えば丸く糸を巻いたような手まり石は大阪・淀屋辰五郎の庭にあったもの。石臼は兵庫六甲渓谷の銘酒、灘の酒米をつく水車に使用していたものと言われている。
 庭園の樹木にはかつては三代藩主加藤泰恒公が持ち帰ったと言われる吉野の桜(現在はなくなってしまっている)があり、その他には竜田の楓、榎、犬槙、栴檀の巨木が使われ、数百年の深い生命が保たれている。

 また苔にも珍種が見られ、石燈籠の上に映えている白い牡丹苔は通常成長するには100年余りの歳月を要すると言われているが、ここでは湿度が高いため6、70年で生育する。

不老庵

 山荘の南端に臥龍の淵を見下ろす眺望の良い場所に不老庵と呼ばれる建物が建っている。

 臥龍淵は肱川の中でも特筆すべき景勝地となっていて眺めが素晴らしい。臥龍淵には数多くの逸話が残されており、その底には今でも龍が眠っていると伝えられている。

 不老庵は建物の半分が崖から出ており7メートル余り下の地面から束柱で支えられている。この工法は掛け作りと呼ばれ京都の清水寺の舞台と同じ様式となっている。
 最も上手の角の柱は生きた薪の木がそのまま使われており、この建物が完成して100年以上になるが、太りもせず伸びもせず、当時のままの大きさでのままという。この建物はこの木を基準として建てられており、捨て柱と言呼ばれている。

 建物自体は船に見立てて建築されており、天井をは普通の形状ではなく竹を張り船底のような形をしている。これは対岸の冨士山の右端から月が昇りそれが川面に映って天井に反射し、部屋の中が明るくなるように設計された。建築家黒川紀章もこの不老庵を「利休の草庵の侘びを超えて、もう一つの数寄屋の傑作といってよいのではないかと思う」と称賛している。

盤泉荘

 臥龍山荘の近くには貿易業で大きな財を成した松井國五郎氏によって1926年に建設された国際性豊かな大正時代の別荘・盤泉荘が立っている。

 外観は石積みが特徴的で、現地周辺で切り出された石がX状に積み上げられている珍しい形。

 1900年にフィリピンのマニラにおいて日本製の商品を扱う「松井商会」を大洲出身の松井傳三郎松井國五郎が立ち上げた。明治維新によって産業構造が大きく変化し、仕事を求めて海外に移住する出稼ぎ労働者が現れ始めたのがこの時期であり、松井兄弟もその一端で、当時のフィリピン全体での日本人移民は170人であった。しかし、その後はさらに多くの日本人がフィリピンに進出するようになり、1938年には3万人にまで増加。松井兄弟は『合名会社大阪バザー』、『大阪貿易株式会社』を立て続けに設立し急速に業務を拡大していき商業人として成功を収めていった。

 主屋などの建物には東南アジアから輸入された南洋材が使用されていたり、当時の日本家屋には珍しい2階建てのバルコニーや國五郎のイニシャルである「K.M.」が刻まれていた瓦が採用されるなど、彼らの別荘である盤泉荘には彼らのチャレンジ精神や国際性などが感じられるつくりとなっている。

廊下
 廊下はフィリピンの木材が使われていて、長大な一枚板が20枚連続する

一階座敷
 格式高い伝統的書院造の座敷。高い天井に筬欄間、無節の檜材に黒塗料で仕上げられた框、違い棚、付書院。

客間・茶室
 網代建具や赤松皮付床柱、舟板の古材を使うなど手の込んだ細工がみられる。

 茶室も同様の作りがなされてる

横井戸
 裏庭には横井戸につながっている。ここから奥に向けて50m以上が彫られていて、井戸の奥から流れ込んできた水が台所に設けられた貯水槽に送られる仕組みになっている (大正期にはまだ上水道が整備されていなかった)。

 庭

 眺望はめちゃ良い。

ライオン像
 前提には新やなせ焼のライオン像が置かれている。

 17時を過ぎて開いている観光名所もなくなってしまったが、ホテルに戻るのは少し寂しいので近所のスーパーマーケットを物色する。旅行先のスーパーではその地域でしか手に入らないものが売っていたり、各家庭がどういう生活をしているのかが垣間見えたりするので好きだ。価格はやや安い ~  普通くらいだった。すなわち他の西日本の地域と同じくらい。倉敷が奇抜なほどに安く、養父だけが異様に高かった。あれは何だったんspmp

 そういえば忘れてはいけない、大洲に停泊した第一の目的肱川あらしである。そろそろ予報が更新されてると思い発生予報を確認する。
 さて、いけそうか……

 ……無理そう。

2日目

 2日目は起きたら雪だった。愛媛でも雪か。
 朝食を終えてホテルをチェックアウトすると朝一で次の投宿先である道後に向かう。ここがおそらくこの旅行の最期の停泊地となる。「大洲本町」から宇和島バスが出ており、75分ほどで道後まで連れて行ってくれる。雪の生家バスは大幅に遅れてやってきたが、道中ふぶいていたものの道後に着くころには雪はやんでいた。さて、次からは「ぶらりくり -松山・道後編-」となります。それでは。

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