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【エヴァ考察】「さよなら、すべてのエヴァンゲリオン」のメッセージとは ※ネタバレあり

「さよなら、すべてのエヴァンゲリオン」
そのメッセージとともにエヴァンゲリオンシリーズ最後の作品「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」が2021年2月に公開された。完璧な終幕だった。

僕が生まれたのはテレビアニメ版が深夜一挙再放送された1996年。エヴァンゲリオンの存在を知ったのは新劇場版「序」が公開された時がはじめてで、エヴァのストーリーを知ったのは2011年の高校一年生のとき。高校の現国の先生が授業時間が余ったときに、たしかクラスメイトと何気なく雑談していた流れでエヴァの面白さを熱く演説しだしたのだ。学校の先生がアニメの話をするのがまず衝撃的で、一体どんなアニメなんだとすごく気になった。

折しも翌年、新劇場版「Q」が公開されるにあたり再放送された「序」と「破」を観て、この作品の虜になった。
その後、wowwowで放送されていたテレビ版も余すなく堪能した。

テレビアニメ版からエヴァを追ってきた人生の諸先輩たちからすれば、僕なんてにわかも同然だと自覚している。だけど、シンエヴァを観て頭の中を巡りに巡った考えを具体的な形として残したい思い、このnoteのプラットフォームを利用し、筆を取らせてもらった。

これから書き並べる僕の考察はもしかすると全くの的外れかもしれないし、あるいは案外的を得ているかもしれない。

ただこの文章に目を通してくれた皆さんが次にシンエヴァを観たときに、また違う新鮮な角度で作品を楽しんで頂ければと願います。僕の妄想多分な考えに共感するか否かは皆さん次第です。

庵野監督のラジオ発言

「僕の考察」と、なんかカッコよさげなことを言ったけど、だいたいは生みの親である庵野秀明監督がお話しされていることだ。

以下は綾波レイ役の林原めぐみさんとのラジオで話した庵野監督の発言だ。
(たまたまYouTubeで見つけたラジオなので、ソースは不明です。申し訳ありません。)

庵野監督「とにかく自分の部屋から外に出ようってことですね。」
林原さん「そうですね」
庵野監督「自分の部屋に篭っててパソコン通信やっていると、危ないっすよ。」
林原さん「うーん、危ないですかね。でも、例えばその中にいる人たちにそういうことを言ってみたときに、なぜ!?って言われたときに、なぜここにいちゃいけないんだい!って言われたら、どうしよう?っていう気持ちにもなるんですけどね、わたし。」
庵野監督「うん、ああ、それを全否定するわけじゃないっすよ。なんかこの間のやつも一切見るなっていうんじゃなくて、アニメだけに縋るなって言っているんだよね。他のこともやってみたら?ってね。」
(中略)
庵野監督「アニメだけが世の中で、幸せなものを与えてくれるものじゃないんだよね。」
庵野監督「アニメファンにね、今一番足りないのは僕、プライドだと思うんですよ。アニメファンっていうのは不安材料でしか生きてない人達だから、とにかく自分の中にものが欠けているんだけど、何が欠けているのか全然自分で分かっていないんですよ。だから救いを求めてアニメーションに逃げ込んでいるんだよね。アニメ見ている間は自分は安心できるから、とにかく安心したい。」
林原さん「それはシンジ君なのかしら?」
庵野監督「いや、まあ…、他の人もあると思いますよ。それは女に逃げるとか、サッカーに逃げるとか、野球に逃げるとか、逃げる先は色々あるんだけど、その中で、一番アニメーションっていう、なんていうのかなぁ・・・、母親のお腹に近いようなもの?なんかそういうのを選んでいるわけなんだよね。まあ、そのぶん心が弱いというのは変な言い方かもしれないけど、そういう人たちなんです。
林原さん「そうですか。」
庵野監督「その中で僕がやったのは・・・、最後の(テレビ版)26話はこれはもう、自分の言葉というよりは一般論に近いんだけど、君たちが要するに・・・本来見たい予定調和的な終わり方じゃなくて、それは多分大多数の人が見たかったと思うんだけど、じゃなくてあれに対する僕のメッセージ性というのは、君らが見たいものじゃなくて、君らに必要なのはこれなんだよ!!っていうラストなんですよ。」
林原さん「それは逆に・・・、言っているようなことは驚かされるようなことなんですけど、一つの優しさですね。私はそう思う」
庵野監督「いや、突き放したとこで出たものかもしれない」
林原さん「いや!でも、突き放したところではじめて、動物っていうか、キリンでもなんでもさ?、立つわけじゃない!突き放すっていうことも一つの愛のカタチであり、優しさでもあると思うのよね」
庵野監督「アニメに逃げ込んでいるわけじゃなくて、現実に帰れっていうのが最後なんですよね

自分の部屋から外に出よう。
アニメに縋るな。アニメに逃げ込むな。
現実に帰れ。

ラジオで庵野監督が引き合いに出していたのはテレビ版最終話だったけど、今回のシンエヴァでもやはりテーマとしていたのは、このメッセージだと僕は思った。

「さよなら、すべてのエヴァンゲリオン」というのは、エヴァンゲリオンそのものがアニメーションのメタファーと考えれば、アニメーションという虚像とお別れして現実に帰ろうというメッセージではないだろうか。

さて、結論は以上。結論というほどの新しさには満ちてなくて、コアなファンからすれば常識的な話だったかもしれない。
次にシンエヴァでの各メインキャラを描かれ方から、この結論の裏付けをしてきたいと思う。

レイ(仮)=純真な子供

綾波レイ(仮)は生まれてからずっとNERV本部だけで過ごして、碇ゲンドウの命令しか聞いてこなかった。
そんなレイが生き残り人類が身を潜めて暮らす村(第三村)で過ごすようになると、そこははじめてのものばかりだった。

はじめて見る赤ん坊。
はじめて聞く言葉。
 おやすみ。
 おはよう。
命令ではない仕事。働いて流す汗の尊さ。汗を風呂場で流す気持ちよさ。

レイは見るもの、聞くもの、体験することにキラキラと好奇心を輝かせる。そして、はじめて自分の心というものを自覚し、この村で自分自身のアイデンティティを持って生きていきたいと思うようになる。

このようにレイは純真な子供のように劇中で描かれている。

そんなレイに言葉の意味を教えたり生活の支えをするのが、かつてシンジたちと同じクラスメートで今は一児の母親となったアカリだ。
アカリの言動、口調はかなり「母親」らしさを強調されている。なんと言ったってほぼ初登場のときに子供にお乳を与えているシーンが生々しく描かれているくらいだ。

レイとアカリのやりとりはまさに子供と母親という構図になっている。

レイを通じてみえるメッセージ性というのは、僕が思うに、子供だった頃は新しく触れる現実に「あれは何?」「これは何?」と目を輝かせて、母親や父親からいろいろなことを教えてもらって、心をドキドキワクワクさせていたんじゃないのかという問いかけに思う。

この世界・現実は多くの知らないことに満ち溢れている。
現実逃避するレベルでアニメなんかに依存せず、かつて子供の時に抱いていたあの純真な心を再び思い出して、世界と触れ合ってみてもいいんじゃないか。

朝起きて家族に「おはよう」と言って、
友達や同僚と汗水垂らして一生懸命に身体を動かして、
仕事後はお風呂に浸かって疲れた身体を癒す。

そんな平凡だけれでも尊い毎日が人にとって素晴らしいんじゃないかと、言ってくれているような気がした。

アスカ=子供から卒業した大人

レイが子供なら、アスカを通して描かれているのは「大人」に成長したかつての子供だ。

まず印象的なのは第三村でのアスカの初シーン。ケンスケの自宅に連れられたシンジはいきなり風呂上がりで全裸のアスカを目にする。これはアスカがはじめてミサトさんの部屋に来たときと同じ構図だ。その時は「キャー」と赤面してシンジに物を投げつけていたけれど、今回のアスカは「なによ。私の裸よ」と憮然とした態度でシンジに身体を見せる。

その直後にアスカの横に現れたケンスケも裸体に驚かず、どころか手慣れた動作でアスカの体にタオルをポトンと落とす。子供のまま時間が止まっているシンジに対し、大人になった二人の姿が対比的に描かれている。

またアスカは、ケンスケの家から家出して旧NERV施設の廃墟に閉じこもったシンジの安否をこっそりと伺うことをしていた。
そのときアスカが心を壊したシンジに向ける視線というのが、一見尖った雰囲気がありながらも、陰ながらに子供を見守る「大人」のように感じた。

最後に極め付けとして描かれるのは、最終決戦前の一幕だ。マリと一緒にシンジを訪れたアスカはシンジに思いを打ち明ける。シンジのことが好きだったこと、でも自分はもう大人になってしまったこと。恥じらいやデレが全くなしに、淡々とアスカは告げる。

淡々としていること=大人では決してないんだけど、過去(子供時代)と決別して新しい自分として生きようと決心することは、ある種の脱皮だ。

子供・青春時代の苦い失恋やいじめなどのトラウマを引きずって、そのまま体と年齢だけが大人になってしまう人は少なくないだろうし、僕もある部分はまだ引きずっているものを抱えていると思う。いい意味で大人になるというのは、そういう過去から時間をかけて養分を吸い上げて、その殻を破ることではないだろかとアスカの姿を見て僕は思った。

シンジ=子供から大人への成長途中(思春期)

伝え聞くところによると、テレビアニメ版が世間を席巻したときに「碇シンジは自分だ!」と共感する声が多数発生したという。それほどに、碇シンジは14歳という子供と大人の中間の年頃の心情を代表しているキャラクターだ。

長い物語の最終章ということで、シンエヴァではその点がかなり象徴的に描かれている。

本作の序盤では心を閉ざしたシンジの姿から描かれる。
ニアサードインパクトやカヲルへの負い目から、言葉を発することも食事をすることもできないほどになってしまったシンジ。

そんなシンジにアスカは「このガキ」と痺れを切らして、口の中にレーション(カロリーメイトみたいな保存食)を押し込む。完全に餌付けだ。この時のシンジは外との関わりを恐れて自分の内側に引きこもっているような状態だった。

それからなんやかんやあってシンジは心を取り戻し、第三村でケンスケの仕事を手伝うようになる。大人(ケンスケ)に付き添って外の世界に触れることでシンジは徐々に心を回復させていく。
ずっとエヴァで戦ってつらい目にあってきたから、第三村みたいに緑あふれた平和な場所で過ごすことが心の回復に必要だったように思えた。

このまま第三村でケンスケやトウジ達と静かに過ごす道もあった。すでにこの時点でシンジは自分の内側から外に出て立派に立っていた。だけど、「逃げちゃダメだ」。最初にエヴァに乗るときに絞り出したこの言葉を今回は言わなかったけど、心の中でそれを唱えていたように僕は感じた。シンジはアスカと一緒にヴンダーに乗り、最終決戦の地に向かう。

最終決戦直前、先述したようにアスカとマリがシンジの部屋を訪れる一幕がある。マリはシンジに「前とは違うね。大人の香りってやつ?」というようなことを言う。それを受けてか、アスカはそれ以降シンジを「ガキ」と呼ばなくなる。このことからシンジは「ガキ」でなくなったと思う。といってもまだ「大人」になりきってない。香りが少し出ている程度だ。それでも、自分の心の奥底に引きこもって逃避していたシンジは外に出て、逃げることからやめて、自分の運命と父親ゲンドウと対峙する道を選んだ。

そして、全ての決着がついて、大人になったシンジと仲間たちの姿がラストシーンで描かれる。ただ身体が成長しただけではない。14歳の不安定さは消えて、自信に満ちた表情で彼は新たな現実へ飛び出した。
するとそれまでアニメーションだった映像が急に現実の街の映像になって、エンドロールが流れる。アニメーションとのお別れ・現実への帰還が暗示される形で物語は終わる。

シンジはテレビ版・劇場版を通じて視聴者をうんざりさせるほどに現実逃避をしてきた主人公だったけれど、最後は物語に決着をつけた。
時には人間、逃げることも大事だ。生きるための逃げならば全然ありだと思う。大切なのはたとえ何かから逃げたとしても「逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。」と思い続ける心のありようだ。それさえ持ち続けられたら時間がかかっても最後に人は自分の内側から外に出て、縋っていた虚像から現実に戻れると、僕は信じたい。

ゲンドウ=現実逃避する大人

最後に碇ゲンドウについて見ていきたい。このキャラクターを通じて描かれたものこそが、きっと庵野監督が最も伝えたいことなのだと思う。

息子のシンジが逃げることをやめて現実と向き合った人物とするのであれば、ゲンドウはその逆で「現実から逃げる大人」だ。
この「現実から逃げる大人」と言うのが、庵野監督がラジオで語ったところの「アニメに逃げ込んでいる人」を最も暗示しているように思われる。

ゲンドウが逃げている現実とは何か。それは最愛の妻・ユイがいなくなった現実だ。彼女がいない現実でなんて生きられない。彼女がいる現実を再びこの手で作ろう。そういう動機からゲンドウは「人類補完計画」へと突き進む。

「人類補完計画」とは何かを一応簡単な形で説明すると(完璧に説明できたら神だ。。)、各個々人として分裂した人間という種を一つの生命体として統合することで、全ての人間が同じひとつ意識を共有するようにさせる、、みたいな計画だ。人間から心の壁(所謂ATフィールド)をなくして一つにすることで、人同士の争いのない平和な世界を作り、愛する人と同じ意識の中で出会える。そういうものをゲンドウは求めた。

何を言っているのか全くわからないというような人は、NARUTOで描かれていた「無限月詠計画」を参照してくれればと思う。
世界観は全然違うけど、計画の動機と実現したいことはおおよそゲンドウのそれと重なっている。

まあ要するに彼はエヴァ初号機に取り込まれていなくなった最愛の人ともう一度会いたいのだ。そのために今の現実を全て破壊し、新たな世界を作ろうとしている。

「人類補完計画」とは、そんな現実逃避した人間が行き着く最後の場所だった。

この「現実逃避した人間が行き着く最後の場所」を”アニメーション”に置き換えてみよう。庵野監督が言うところの”アニメに縋る人”、”アニメに逃げる人”になるのではないか。そう僕は思った。

シンジが愛用しているS-DAT(初代ウォークマンみたいな音楽プレイヤー)、あれは元々ゲンドウの持ち物だった。本来のゲンドウは超内向人間で(庵野さんが言うところの)アニメファンよろしく、不安材料でしか生きていない人間だった。他人と関わることが怖く、イヤホンの中の音楽や勉強や読書に没頭することが好きな、自分の内側に逃げ込むような人間だった。だけどユイと出会ったことで彼は自分の内側から出ることができた。シンジも生まれて幸せになった。

しかし、ユイをなくして彼はまた元の内向人間に戻り、かつて没頭していたものの代わりに「人類補完計画」を現実逃避の材料にした。(だからS-DATはシンジの手に渡ったのかもしれない)

こういう、つらい時に何かに逃げ込むことは人間誰だってやる。      ゲンドウが別に特別じゃない。
庵野監督も別のラジオで、アニメに逃げること自体は悪くない。逃げていることに自分で気がついていればいい。、と言っている。そう、罪なのは逃げていることに無自覚であることだ。ゲンドウは「人類補完計画」という如何にも崇高な計画を進めている自己に錯覚して、実質はただつらい現実から逃げていることに無自覚な人間だった。僕はそう思った。

そしてシンエヴァを観終わったあと、僕もある部分でゲンドウと同じことをしているかもしれないと思った。僕も本を読むのと音楽に耳を澄ませることが好きだ。新しい知識や物語に触れたり音楽の中に意識を溶け込ませるのが好きだ。知的好奇心を満たすことで自尊心が満たされる。それ自体は決して罪なことでなく、僕の成長の源泉でもある。だけど、ゲンドウと同じように他人と関わることが苦手ということが僕を本や音楽に向かわせていることも一つの事実だ。僕はそのことに無自覚だった。逃げているつもりはなかった。ただ好きなことに熱中しているつもりでいた。それはすごく紙一重で、熱中がある一線を超えると現実逃避に無自覚な人間が完成してしまうのだと気付かされた。

エヴァンゲリオンという作品が伝えたかったのはきっとそういうことだ。
少し説教くさいと感じるかもしれない。実際それでテレビ版や旧劇では冷や水を浴びせるような終わり方になってしまった。だけどシンエヴァでは最高の終わり方をしてくれた。現実から逃避する登場人物たちに優しく寄り添った本作は、きっかけをつかめたらならいつでも逃げた場所から帰ってくればいいよと言ってくれているような温かさがあった。

最後に

シンエヴァを初見で見たときはあまりの面白さにスクリーンからいっときも目を離せなかった。普通上映時間が2時間半もあれば集中を切らして別の世界に行ってしまうものだけど、そういうことが全くないほど釘付けにさせられた。

ストーリーがどう展開していくのかに目が離せないのはもちろん、驚かされたのはやはり現実を超えた映像体験だ。実際に目の前でエヴァンゲリオンが動いているように錯覚してしまったし、虚構と現実との境目がなくなりかける瞬間が幾度かあった。

しかしラストのクライマックスで、撮影スタジオのセット裏が描かれたり、作画が突然ラフ画になるという演出が出たりした。
これはテレビ版でもあった演出で、冷静に考えると、あの演出は暗に「あなたたちがさっきまで見入っていたアニメーションは所詮ただの点と線で描かれたお絵かきですよ」と言われているように感じた。

現実を超えた映像体験などアニメには本来ないのだとそれで思わされた。アニメにあるのは人の手が時間と労力をかけて作った偽物だけで、現実を超えたように見えるのは実際の映像よりも現実たらしめようという人間の意志と技術がこれでもかというくらい人為的に加わっているためだ。

アニメーションは言わずもがな日本を代表するエンターテインメントになっている。昨今では「君の名は。」や「鬼滅の刃」が社会現象を巻き起こした。かつては子供や一部のファンに楽しまれていたのが、今や老若男女が楽しめる娯楽となりつつある。

それくらいアニメーションは人を魅了する力に満ちたすごい創作物だ。
だからといって魅了されすぎてアニメで現実逃避しないでね。あれは所詮絵を組み合わせたフィクションなんだから。用法・用量を守ってこれからも正しくお楽しみください

そんな注意喚起がラフ画から透き通って聞こえた気がした。

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