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人が母性に目覚めるとき 〜 湊かなえ「母性」より

 昨年、姉が女の子を産んで、僕は伯父さんになった。

 実家に立ち寄った折に、生まれたばかりのその子を抱かせてもらった。赤ちゃんの体が放つ体温が思いのほか熱くてびっくりした。長い時間抱いていると手のひらに汗が滲みそうなほどだった。僕の腕の中で新しい命がたしかに燃えていた。

 「ようこそ世界へ」

 心の中で祝福の言葉を呟いた。頭の中では大好きなシンガーソングライター、黒木渚さんの曲が流れていた。

 それから少しして、一つ変化があった。

 今年の初めにテレビで「はじめてのおつかい」を見ていた時のことだ。おつかいを終えた小さいお兄ちゃんと妹が手を繋ぎ、夕焼けを背に家路についていた。B.B.QUEENSの「しょげないでよBaby」が二人を応援する。

 おつかい袋を引きずりながら、二人で力を合わせて一歩一歩、家への道を歩いていく。家で待つお母さん。帰ってくる二人。大冒険を終えた二人の笑顔。

 僕にとっては信じられないことに、そんな子供たちの姿に、ぽろぽろと涙を流してしまった。そんなこと一度もなかった。むしろスタジオで涙する出演者たちに「自分の子どもではないのにどうしてそんなに泣いているんだろう。歳を取ると涙脆くなるからかな」と、ちょっと引いた目で見るひねくれた人間だった。

 僕は頭の片隅で生まれたばかりの姪を重ねていた。
 姪もあと数年したらあの子たちくらい大きくなって、自分の足で、家に向かって歩くようになるのだろうか。想像すると胸がいっぱいになってしまった。

 完全に姪っ子大好きおじさんと化している。ある意味で歳を取って涙脆くなっていたわけだ。

 一方、姉はどんな思いで「はじめてのおつかい」を見ているのか気になった。伯父ですらこんなにも子供に対する気持ちがガラリと変わったのだ。母親になった姉はどれほどの気持ちになっているのだろうか。

 子供ができると母性が出てくるという話をたまに聞いたり聞かなかったりする。

 世の中には子供を自分の命以上に愛する親もいれば、そうではない親もいる。結局人それぞれなのだろう。子供の時に虐待を受けた親が(もちろん全員がそうではないが)、自分の子供にも同じように虐待をしてしまう傾向があるように、親から受けた愛情のあり方や育った境遇が、「母性」や「父性」を形成していくのだろうか。

 そんな物思いに耽っていた僕の前に、湊かなえさんの小説「母性」が現れた。

 作品のあらすじを簡単に紹介すると、ある女子高生が自殺未遂を図り、どうして彼女(娘)がそこまで追い詰められたのかを、母親の手記と娘の回想を通して追っていくという話になる。

 母娘の気持ちは変にすれ違っている。すれ違いがすれ違いを呼んで、またさらに紐が絡まるようにすれ違う。母親は娘を「愛能う限り、大切に育ててきた」と語り、一方、娘は母親からの愛情に飢えていた子供時代を振り返る。まるで鏡のように逆さの思いを二人は抱く。

 そんな母娘の関係性を通して、母親はいかにして娘を愛すればよかったのだろうかと考えさせられる。母性や愛情がない訳ではないのだが、何か違和感を感じてしまい、読んでいるうちに、その違和感の正体を探す沼にハマってしまう。

 僕個人の感想として、この母親は精神的に一人の人間として独立できていない人間だと思った。「未熟」の二文字で片づけるほど単純ではない。

 母親は娘を産んでからも自分の母親が大好きなあまり母親離れができず、「娘の母親」よりも「母親の娘」というアイデンティティが非常に強い精神性になっている。

 彼女は大人になりきれておらず、大人として自分一人で何かを決断して人生を進めたことがない人のように見えた。経済的にも精神的にも他者への依存が強いあまり、自分に対する自信や愛情(自己愛)をあまり持っていない人間になっている。そう僕は感じた。

 社会心理学者のエーリッヒ・フロムの著書「愛するということ」に次の一文がある。

もし他人しか愛せないとしたら、その人はまったく愛することができないのである。

エーリッヒ・フロム「愛するということ」- 鈴木晶 訳

 たしかに、自己愛がない状態で他人を愛そうとしたら、相手からの感謝やイイねといった自己承認や対価をもらうことが愛情の目的に差し代わってしまいそうである。

 だから人は自己愛がなければ本当の意味で他人を愛することができないのかもしれない。

 物語に話を戻すと、母親は自分の母親がかつてそうしてくれたように娘を愛しているのに、娘がかつての自分のように母親への愛着をまるで見せないことに嘆き、失望する。母親が見せる「母性」は娘からの「いいね」のための「母性」になっている。

 一方、娘は母親が失望する様子から自分の何かがいけないのか。どうすれば母が喜んでくれるのかと思い悩んでは、空回りする調子になってしまう。

 これは僕個人の願望だが、親から子供への愛情は、特別な対価を求め合うことが前提のものであってはならない。特別じゃなくてもいい。偉大にならなくてもいい。人より優れなくてもいい。ただ、この世界に生まれてきてくれたこと。それだけで人は子どもを愛することができる。いつか自分に子どもができたら、そうやって愛情を注ぎたいと思う。

 まとめると、子供時代に親からの愛情を受け、その上で精神的に一人の大人として独立し、一定程度の自己肯定感があれば、人は子供を無条件に愛する心を持てるのではないだろうか。それが今時点の僕の考えだ。

 勿論、これが唯一の方程式ではないことは承知だ。人は人と人の出会いの数だけ変わることができる生物だから、道のりは一つだけではない。

 この方程式がイージーに聞こえるかハードに聞こえるかは人それぞれだと思う。日本は豊かで治安のいい国であるから、イージーに聞こえる人がきっと多数派だと信じたい。

 しかし、もしこれがハードになっていく現実が増えていったら、子供にとって不幸なだけでなく、大人にとっても不幸ではないだろうか。

 「ようこそ世界へ」

 姪っ子に対して心の中でとはいえ、そう言ったからには、生まれてきてくれた世界がイイものであるようにしたい。

 世界そのものを変えることは難しいから、せめて彼女が大きくなって何かに悩んだり困ったりした時に、力になれる、そんなおじさんになってやろう。

 それが結果的に世界がよくなることにつながると信じて。


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