今井良朗

ポスターや絵本などのグラフィック表現について考えてきました。展覧会の企画、ワークショッ…

今井良朗

ポスターや絵本などのグラフィック表現について考えてきました。展覧会の企画、ワークショップなどの地域活動、執筆が主な仕事です。現在は絵本をアート・デザインから研究していこうと思っています。  今井良朗のサイト=https://imaiyimp.jp

最近の記事

アウトプットとインプット

昨年9月から再開した研究会が先日4回目を終えた。参加者は7~8名ほどだが、私にとっては想定していなかった収穫があった。参加者からの希望もあり、これまで私が話してきたテーマを4回に分けて講義した。イメージによるコミュニケーションとイメージはどのように視覚化されてきたか、というのが大きなテーマである。  参加者は研究者、美術館学芸員、編集者、翻訳家、表現者と多彩だが、それぞれが抱えている問題意識を刺激し、イメージとことばについて本質的なところから意見交換できるよう心がけた。

    • デイビッド・ホックニーの眼

      東京都現代美術館で開催されている「デイビッド・ホックニー展」をやっと観ることができた。もっと早く出かけたかったのだが、会期中に鑑賞することができて本当に良かったと思っている。ちょうどホックニーの写真を話題にしていたこともあり、9台のカメラを用いた実験的な映像が気になった。  「四季、ウォルゲートの木々」と題する作品は、2010年夏、秋、冬、2011年春の4部で構成されている。  ジープに9台のカメラを取り付け、時速5マイル(8キロ)で1時間ほど移動し撮影したそうだ。映像は、カ

      • 絵本のイラストレーション

        私が絵本に興味を持ったのは、絵本はことばとイラストレーションが織りなす重層的な空間であることだ。複数のページがもたらす独特の時間と空間の表現に惹かれる。次の画面があることを前提にした構成と展開は、一枚の絵と異なり一冊全体で構想される。テキストだけを読んでも、イラストレーションだけを見てもすべては伝わってこない。この両者の相関性こそが大きな特徴になっている。  絵本と関わるようになったきっかけは、武蔵美の図書館で絵本を重点的に収集することになり、その収集を手伝ったことからだ。

        • 身体的記憶とデザイン

          デパートのエスカレーターが点検のために途中で止まっていた。4階から3階へは歩いて下りなければならない。歩いて下りると足の踏む出し方が不自然でなんともぎこちない。このような経験はこれまでにも何度かある。その度にぎこちなさを感じる。動いていることを前提に、身体的な記憶が止まったエスカレーターに反応してしまうからだろう。 人は、経験や身体の記憶を手がかりに行動していることが思いのほかある。突き出たものがあればとっさに身をかわす、水たまりはまたぐ、ベンチでなくても、腰掛けられそうな

        アウトプットとインプット

          書物は家のように ウオルター・クレインのデザイン

          「この美しい家は線と色彩から成る構築物」 、とウオルター・クレインは書物を家に喩えた。 表紙、見返し、扉(タイトルページ)、本文と続く流れは、門から入り、前庭、玄関、それぞれの部屋に続く流れと同じであり、書物をデザインすることは、家を設計する建築家のようなものとクレインは考えていた。  表紙はその家の門にあたり顔になる。表紙をめくると最初に現れるのは見返しだが、クレインは、「見返しは、一種の四角形の中庭、前庭、もしくは扉の前の庭、草地」と述べ、家の扉を開けて入っていくようにこ

          書物は家のように ウオルター・クレインのデザイン

          受け継がれてきたもの−原弘のデザイン

          武蔵野美術大学美術館で「原弘と造型:1920年代の新興美術運動から」展が開催されている。原弘の仕事は、東京国立近代美術館をはじめ多くの美術館で紹介されてきた。ほとんどは戦後のポスターや装幀を中心にしたものだが、1920年代30年代に焦点を合わせた展覧会ははじめてだろう。  展示作品には東京府立工芸学校教員時代のものも含まれている。新興美術運動に身を投じた20代30代のものが中心で、展示公開されてこなかった作品も多い。特種東海製紙が所蔵する作品が多数含まれている。 今年の4月

          受け継がれてきたもの−原弘のデザイン

          芸術性と複製性のはざまで

          先頃、立川市にあるたましん美術館に出かけた。「The Adventure of Fine Prints 版画からグラフィックアーツへ」と題した展覧会は、版画の来し方行く末を考えるうえで興味深いものだった。 版画は芸術性と複製性のはざまで揺らぎ葛藤してきた長い歴史がある。版画は宗教的図像や書物に挿入された挿画の複製が起源であり、複数制作することを前提にした印刷表現だった。作家の創造性と芸術性の探求が、商業的な印刷物と区分して考えられてきたが、もともとは版画と複製−印刷の境界が

          芸術性と複製性のはざまで

          ロシア絵本と光吉夏弥、原弘

          先日、白百合女子大学で行われた沼部信一さんの講演会に出かけた。「光吉文庫のロシア絵本について」の講演は、午後1時から5時過ぎまでという長時間にもかかわらず、時間を忘れるほど刺激的だった。  ロシア絵本については、これまで『ソビエトの絵本』『子どもの本1920年代』『幻のロシア絵本1920-30年代』などで紹介されてきた。光吉文庫として白百合女子大学が所蔵するロシア絵本に関連した講演会だった。  光吉夏弥とロシア絵本との関係、出版された同時期に日本に移入された絵本は誰の手に渡

          ロシア絵本と光吉夏弥、原弘

          見つけだすこと、感じとること

          挨拶は小さな声で、友だちとも距離を空ける。映像で流れる小学校の授業風景を見ていると切なくなる。とりわけコロナ禍で入学した子どもたちにとって、学校生活がどのようなものかいまだに手探りのままだ。小学校低学年は、いろいろ学ぶことも多いだけに心が痛む。  思い返すと、私が小学校低学年のころは学校での生活も遊びも目一杯楽しんでいた。学校は特別の空間であり、周辺の空き地や丘、池、友だちの家、すべての場所が繋がっていた。それほど掛け替えのない時期だった。このころの記憶も鮮明に蘇る。  

          見つけだすこと、感じとること

          紙芝居のある風景

          絵本作家であり紙芝居作家でもある長野ヒデ子さんから『かこさとしの手作り紙芝居と私−原点はセツルメント時代』を贈っていただいた。  かこさとしさんの絵本づくりの原点がが手作り紙芝居にあること、子どもたちに近い距離で語りかけるように描こうとしていたことが、長野さんのかこさんへの並並ならぬ愛情とともに伝わってくる。1951年からはじまったセツルメント活動、そのころ制作された『わっしょい わっしょい ぶんぶんぶん』など手作り紙芝居にまつわる話はとても興味深い。  紙芝居の魅力をあら

          紙芝居のある風景

          コミュニケーション・デザインと絵本

          日本ではなぜ絵本とデザインを分けて考えるのだろう。これはデザイン的な絵本だとか、デザイン的で子ども向きではない、という声をときどき聞く。だとすれば、デザイン的でない絵本や絵本らしい絵本とはどのようなものを指すのだろう。  デザインという言葉も、使われ方がさまざまであることを考えれば、仕方のないことかもしれないが、絵本の分野ではどうも造形的な面、しかもシンプルで飾り気のない平面的な形や色彩に対していわれることが多い。  絵本は絵の入った本であるために美術との関係は当然強いが、表

          コミュニケーション・デザインと絵本

          エリック・カールを偲ぶ

          エリック・カールが亡くなった。訃報に接したのが、コラージュについてエッセーを書いた翌日だったこともあり驚いている。エリック・カールにも触れていたからだ。  代表作『はらぺこあおむし』は、最も親しまれている絵本だが、鮮やかな色紙によるコラージュが、独特の世界をつくり出し、色彩の魔術師とも呼ばれている。  カールがつくる色紙は、薄い紙に色をつけたものだが、筆で塗るだけでなく、こすったり、ひっかいたりとさまざまな手法を用いることで、独特の質感と模様が表れる。つくりためた色紙はマップ

          エリック・カールを偲ぶ

          コラージュ、イメージの引き出し

          最近コラージュにはまっている。これもコロナ禍の影響かもしれないが、つくることが愉しい。つくづく手を動かすことが好きなのだと実感している。  といっても印刷物などを貼り付けるのではなく、パソコンのモニター上で作業する。アプリケーション・ソフトを使い、数枚のレイヤーを重ねていく。重ねる順番や大きさ、配置を自在に変えることができる。空間に縛られることのない自由度がとてもいい。  最終的な仕上がりは一切考慮しない。スケッチもなければ、事前の計画も立てない。頭に浮かぶことを形にしていく

          コラージュ、イメージの引き出し

          「ミチクサ先生」に漱石を想う

          新聞小説「ミチクサ先生」を毎朝読むのを愉しみにしている。伊集院静による夏目漱石を題材にしているものだ。描写されている漱石の人柄もそうだが、明治期の日本の文化的土壌を正岡子規や寺田寅彦、高浜虚子らとの交流を通して感じ取ることができる。イギリス留学のころの逸話も興味が尽きない。  当時多くの若者が海外に派遣され、それぞれの専門分野の礎を築いた。しかも分野を超えて人脈を広げている。一つの専門にこだわらない視野の広さとどん欲に学ぶ姿勢が共通するところだろう。漱石を通してあらためて分野

          「ミチクサ先生」に漱石を想う

          ウオーキングを愉しむ

           昨年緊急事態宣言が出て以来、ウオーキングを心がけている。コロナ禍で出かけることが少なくなり、回数を増やしたが思いのほか身も心も安らぐ。40分ほど歩いているが、以前と比べると出会う人の数も多い。いままではそんなことをしなかったのに、出会った人を数えてみると多いときは30人ほどにもなる。トレーニングウエアに身を固めさっそうと歩いている人、犬の散歩をしている人、夫婦でのんびり歩いている人、実にさまざまだ。いつも見かける人もいるが、どんなことを考えながら歩いているのだろう、と想像し

          ウオーキングを愉しむ

          消費行動を見直してみる

           辛い花粉シーズンもようやく終わろうとしている。先日定期的に処方してもらっている花粉症治療薬をジェネリックから先発医薬品に変えてもらった。なんと、はっきり分かるほど効果が違う。ここ数年花粉症が悪化したのかと思うほど苦しんでいた。薬を追加したり、点鼻薬を使ったりしてもあまり変わらなかった。ところが、2週間ほどになるがくしゃみも鼻をかむ回数も大幅に減った。花粉シーズンが終わりがけだからかとも思ったが、夜に飲み忘れるとてきめんにくしゃみが出る。明らかに違いが分かる。このジェネリック

          消費行動を見直してみる