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死せるホーおじさん、生けるベトナム共産党を走らす!?没後も6度「動いた」死後も忙しいホーチミン主席の物語

ベトナムは9月2日が独立記念日。この日は日本が東京湾上の米戦艦ミズーリ号において、連合国に対しての降伏文章に署名した日でもあります。この9月2日に故ホーチミン主席が独立宣言をハノイのバーディン広場で読み上げ、これを以てベトナム民主共和国が、日本から独立することになります。 この時ベトナムが「日本の支配から独立」したということは、ベトナムに関係する日本人として知っておいていい歴史的事実でしょう(もちろん、長年のフランス支配からの独立でもありますが)。

建国の英雄として多くの国民から尊敬されるホーチミン主席、「ホーおじさん」と言われ、(特に北部ベトナムでは)とても親しまれています。そして現在もその遺体は、ハノイの中心部、バーディン広場にあるホーチミン廟に安置されています。 この「遺体の永久保存」というのは、実はホーチミン主席自身の望むところではなかったことも、後に広く知られるようになります。本人は遺書の中で「自分が死んだら遺灰は北、中、南部それぞれ三つに分けて撒いてほしい」としており、ベトナム戦争最中の1969年に亡くなった彼は、そこに彼の果たせなかった祖国統一への想いを込めたとされています。

しかしホーチミン主席の死による権威喪失を恐れる共産党幹部の思いもあってか、遺書は当初部分的にしか公開されませんでした。彼の遺体はソ連の専門家などの助けも借り、永久保存されることになります。実はその準備がホーチミン主席が亡くなる2年前から周到に行われてきた様子が、最近明らかになった文章で示されています。 そして、永久保存されたホーチミン主席のその後の「動き」にも…。

その文章の内容を伝えたTuoiTre紙によると、ホーチミン主席の健康状態を懸念した共産党リーダーたちは、1967年には当時第一線の医師などをソ連に留学させ、早くもレーニンの遺体を永久保存した技術を、密かに学ばせていたと言います。ただホーチミン主席本人には「本人は絶対に同意しないだろう」と機密にしての行動でした。カリスマとなっていたホーチミン主席の「その後」に早くから敏感になっていた当時のベトナム共産党の様子が伺えます。

ホーチミン主席の没後、永久保存は無事に成功。ただ日増しに悪化する戦況の中、ハノイ各地でも北爆は続いています。まだ今のような立派なホーチミン廟も完成していない中、どのようにホーチミン氏の遺体を守るかがまた一つの大きな作戦となりました。 ホーチミン主席の遺体を守るための特別施設が、幾つもベトナム各地にできて(記事内でもコード番号でのみ呼ばれ、場所は記されていません)それらを何と6回も転々と移動させられたそう。 ホーチミン主席は生前も常に革命のために奔走していましたが、死んでもなかなかゆっくり休むわけにはいかなかったようですね。

その後1975年に現在のホーチミン廟が完成し、ようやく彼は安住の地と言いますか、現在の場所に移動して ようやく安らかな眠りを遂げることになります。ただ今でも、特に明日の9月2日は多くの参拝客の訪問を受けるでしょうから、「安らかな」眠りとはいかないかもしれません。しかも旧ソ連、今はロシアの専門家との今も「技術交流」は続いており、毎年一定期間のホーチミン廟休館日は「メンテナンス」に当てられています。もしかしたら時に「外遊」もしているのでしょうか…。

本人の意思に反した形の遺体永久保存、そしてホーチミン廟の建設。逝去50周年記念行事においてはフック首相がこの決断を「歴史的な英断」と呼んで改めて讃えました。本人は黄泉の国からどう思っているか分かりませんが、社会主義、共産主義のイデオロギーが国民統合のスローガンとなりえない中、「ホーチミン思想の後継者」としてのベトナム共産党は今でも、今でもホーおじさんを一つの大きな拠り所としてなっているというのは、間違いなさそうです。

11年間ベトナム(ハノイ)、6年間中国(北京、広州、香港)に滞在。ハノイ在住の目線から、時に中国との比較も加えながら、ベトナムの今を、過去を、そして未来を伝えていきたいと思います。