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メコンデルタは誰のものか?ー映画「ĐẤT RỪNG PHƯƠNG NAM」から見た中華文化とベトナム文化

久々の投稿、かつ久々になかなかマニアック、かつ長文です(笑)。今回は先日観たベトナム映画「Song of the South (Đất rng phương Nam)」、そして同映画が巻き起こした議論から感じた、ベトナム南部、特にメコンデルタ地方における文化・社会の現在について書いてみようと思います。

ちなみに上記ツイートでは「まだ観られます」と書いていますが、この記事を書いている11月末段階では上映館はかなり縮小、主に南部でのみの上映となっています。ただ、逆に言うと10月20日上映開始でまだ観られるということは、特に南部においてまだ多くの客が見込める、それほどのヒットになっているといっても過言ではないでしょう。

11月末でも南部ではまだ根強く上映中

メコンデルタでの反仏抗争を描いた映画

ネタバレはせずに若干概要に触れますと、舞台は1920年代の南部、メコンデルタ地方。植民地支配に苦しむベトナムの人々は、表向きはそれに甘んじて暮らしているようであっても、地下に潜伏して反仏・反植民地抗争を行う人たちがいました。その抗争に身を投じたベトナム人一家と、それがゆえに流浪と闘いの日々を送ることになる少年の姿を描いた映画です。

この映画は公開後大ヒット。当初は南部ホーチミン市を中心に学校単位で授業の一環として鑑賞に行くようなニュースもあり、いわゆる正統な歴史観を描く映画なのかと思って、あまり自分自身も触手が伸びませんでした。ただ「海外でも上映決定!」と話題になるにつれ、そして上記の学校単位での集団鑑賞が宜しくないとされ中止されるというニュースも見られる中、賛否が飛び交うようになり、諸々の意味で観てみようと関心を向けるようになりました。ちなみに既にオーストラリアで11月上旬から、更にアメリカでも11月23日から上映されています。アメリカには多くの在外ベトナム人(越僑)もいますので、南部ベトナムを描いたこの映画は注目を集めるかもしれません。

自分は映画館で鑑賞しましたが、当時の雰囲気もとてもリアルに感じ取れ、メコン川の自然の恵みと共に暮らす人々、またその地形を利用して闘う人々の様子などは、とても面白い映画でした。ハノイの北部ベトナムとは全く違うとさえ思える、自然・社会背景もとても興味深かったです。今後機会がありましたら、是非皆さんもご覧ください。

反仏抗争は「ベトナム人」が起こしたのではないのか?

と、ここまでは順風満帆に見えるこの映画ですが、それが大変な議論に巻き込まれました。何がそれほどの「議論」を引き起こしたのでしょうか?

大きな問題は映画が描く世界と「中華世界」との関係でした。最も顕著に非難されたのは、劇中にある反仏抗争を行った団体を当初「義和団、天地会(Nghĩa Hòa đoàn, Thiên Địa hội)」と呼んでいたことでした。これをみた鑑賞者は(或いは観ないままにただネットで)「これでは中国の団体みたいではないか、けしからーん!」とバッシングを始め、炎上し始めました。それに伴い、多くのデマが飛ぶ羽目になり
「ベトナム政府・映画局局長が「歴史の曲解は許容範囲だ」と発言したらしい!?」
「中国メディアが「ベトナムが中国の映画を作ってくれたことに感謝」と報道したらしい!?」
等のデマが飛び、炎上の消火作業が大変なことになりました。

これを受けて公開途中から映画の一部が差し替えられ、抗仏団体とされていた劇中の団体名は「南和団、正義会(Nam Hòa đoàn、Chính Nghĩa hội)」に変更されました。Vi Kiến Thành映画局局長も「映画は何か特定の団体を賞賛するわけではなく、当時の南部人民の愛国精神を表現しているに過ぎない」と、映画審査の過程に問題はなかった旨弁明しました。

左はMV、右は劇中でのTrấn Thành演じるおじさんの衣装(写真はTuổi Trẻ Onlineより)

さらに議論は細かいところにまで及び、劇中で人気俳優Trấn Thànhが着ている服装が「これはベトナムのものじゃない、中国の服だ!」との声もあがります。Đất rừng phương Nam監督のNguyễn Quang Dũng氏は「Music Videoは映画の衣装とは違う」とした上で「(服が)Hoaかどうか(中華的なものかどうか)はまだ色々な議論がある"Hoa hay không Hoa, thật ra sẽ còn tranh cãi nhiều"」「映画は教科書ではない」と、議論が映画を離れて一人歩きしだした現実に、いらだちも感じられるような発言がありました。自身も映画監督で、メコンデルタ出身の文化人Trần Chí Kông氏は「劇中の衣装のような服は、私のおじいさんも含め、1975年以前、更に昔は皆、普通に着ていたものだ」と述べています。

政府ではなく人民が検閲!?議論は国会論戦にまで発展!

ここで興味深いのは、内容検閲をしっかり経て許可されたのか、はたまた見逃されたのかはともかく、政府検閲当局がお墨付きを出した映画の細部にベトナム人(ネット)が「これは中国ではないか!」とその政治的誤りたるものを指摘し、ある映画作品を叩いていくプロセスです。ベトナム人に根深い対中不信感情があるのは理解しますが、こういう文化作品の「あらさがし」をしても、中国との関係でベトナムが優位に立つことは無いだろうなあは思うところです。傷つくのはむしろ既にすっかり「ベトナム国民」である、異なるルーツを持った人たちでしょう。

当初ベトナムメディアやSNSなどで繰り広げられていたこの議論は、10月に始まったベトナム国会でも話題になり、ある国会議員は文化スポーツ観光省大臣に対して、同映画の事前審査過程に問題は無かったかと質問しました。大臣は「きちんと審査があり、問題が無いと判断された」と答えたまでは良かったのですが、更に「ネット世論のあれやこれやの批判には正しくないものもあり、名誉棄損のようなものは処分も検討する」とまで踏み込んだ発言をし、今度は質問した議員側に「世論は改善のために良かれという思いで言っている、国民の声は傾聴すべき」と反論される場面も。

これ自体は、議員の選考プロセスには色々あるものの、割と世論の関心に沿った議論がなされるベトナム国会らしい場面です。とはいえ、まるで政府がより自由な表現を守り、世論がそれを制限するよう求めているかのようなやり取りは、ちょっと不思議な雰囲気。テーマが「中国関連」と認定されてしまう時ならではだなあと感じます。

反仏闘争の主役は誰か?「皇帝」Phan Xích Longの反乱

それでは、実際にメコンデルタ地域で起きた反植民地闘争には、どういった人物や団体が絡んでいたのでしょうか?自分自身もまだ勉強中ですが、そんな初学者の自分のざっくりサーチでも出てきた、有名な人物がいました。その名はPhan Xích Long(潘赤龍)、当時メコンデルタで反乱を起こし「皇帝」を名乗ったこの人物は、当時のサイゴン、チョロン生まれの華人でした。無名の若者が南部ベトナムを揺るがし、皇帝まで名乗ったこの事件を、映画の作成者は踏まえていないわけはないでしょう。

本名をPhan Phát Sanhと言い、写真では皇帝の衣装を身にまとっている

以下Thanh Niên紙記事からその反乱の様子を紹介します。1893年生まれの彼は様々な商売をする中で、1911年には仲間と秘密結社を組みだし、自らをアルジェに流刑とされたHàm Nghi皇帝の末裔だと主張。その後「活き仏」と呼ばれた支援者などの金銭的援助を受けながら、南部ベトナムで勢力を築き、今で言う爆弾テロ活動のようなことを行い、当時の植民地政府への抵抗活動をしていきます。1913年に捕まり終身刑となるも、1916年には彼を脱獄させるべく同時多発的に南部各地で蜂起が起きるなど、その影響力は地域を越えて大きかったことが感じられます。この計画は失敗に終わり、同年彼は死刑に処されます。何だか途中はかなりのアウトロー感もある彼ですが、彼の名はホーチミン市では通りの名前にもなっており、そこから「正統的愛国者」の地位が与えられていると解釈していいでしょう。

当時のメコンデルタでは所謂中華系秘密結社の洪門系とされる「天地会」が活動していたことは、多くの学術論文でも指摘されています。そして、Phan Xích Longが契りを結んだ秘密結社は天地会であったことは、これまた堂々とベトナムメディアでも伝えられています。映画の中でも自らの血を飲みあうことを暗示させるようなシーンもあり、正にそういった結社にある特徴が示唆されていました。つまり、ベトナムの愛国運動の中に、こういった華人や、華人系団体が参加していたことは歴史上あったことで(「義和団」は未確認ですが)「天地会“Thiên Địa Hội”」が映画で描かれていたのは歴史に沿ってみればとても自然なことだったのです。ただそれを知らない、そして強調したくない世論の声が多かったことも、今回よくわかりました。
(ちなみに、中華系秘密結社に関しては、以下のnote記事や紹介した本がおススメです。)

「混在が常態」なメコンデルタの現実と歴史をどう表現するか?

こうして多くの観衆と議論を呼んだこの映画、ベトナムの国内映画祭Liên hoan phim Việt Nam 2023では予想に反し、いやある意味予想通りに、残念ながら無冠に終わりました。同映画祭の最高責任者であるĐào Bá Sơn氏は同作品が無冠に終わったことに対する世論の声の影響を否定、また「審査員が「安全策」をとった」と議論を巻き起こした同作品に栄誉を与えるのを避けたとする見方も否定しました。

上記紹介した記事でNguyễn Quang Dũng監督も述べているように、そもそもメコンデルタにはいわゆる現在多数派であるベトナム人の他に、クメール人、華人が沢山住んでおり、華人にも潮州人を始め様々な人たちがいて、今でも共に住んでいます。ましてや1975年以前、更には1920年代といったら今よりも文化的な混淆はあったでしょうし、ベトナム人が多数という状況でなかった地域も多いでしょう。それもベトナム近現代史の一部であり、ベトナムの現実の一つなのですが、それが今では時に忘れられ、隣に見える大国との関係を自国内に投影してしまい、過剰な議論を巻き起こしてしまったように感じます。(以下引用した、ソクチャン省に行った際のX・ツイッターの一連スレをご参照ください。)

この議論には、現在のベトナムにおける「華人・中華文化」のおかれた現状がとても色濃く反映されていて、巨大な隣人を抱える中でベトナム国内の多様性を保つことの難しさについて、とても考えさせられました。



11年間ベトナム(ハノイ)、6年間中国(北京、広州、香港)に滞在。ハノイ在住の目線から、時に中国との比較も加えながら、ベトナムの今を、過去を、そして未来を伝えていきたいと思います。