「がんばれ」の捉え方

先日、「マルハラ」という言葉を聞いた。
lineなどのやりとりで句読点の「。」で文章を終えると「怒られている」と思う若者が多いのだとか。
たしかに気持ちは分からなくもない。絵文字や顔文字になれると「。」で終わった文章には少し冷たさを感じる。
でも、仕事関係の人に絵文字や顔文字を使うのは失礼じゃないか?
私が会社員なら、ビジネス関係の人が顔文字や絵文字を使ってきたら「なんや、この人。馴れ馴れしいなぁ。」と敬遠したくなる。
でも、同じビジネス関係の人でも親しくなれば、いつまでも絵文字や顔文字がないと「よそよそしい」と少し寂しさを感じるかも。

同時に「ソフト老害」という言葉も知った。
30代、40代の人でも、若い人から見れば老害になりうるらしい。
ぶっちゃけ「知らんがな」というのが、率直な感想ではあるが、そこで考えを巡らせると、私も若者側の考えがあるかもしれないと思い至った。(筆者は30代。)

今の日本は、多様性を認めようという風潮が行き過ぎて多方面に気を使いすぎて行き詰っているように思う。
「マルハラ」も「ソフト老害」もそれらの象徴なんじゃないか。
相手が負担に思うことをやったり言ったりしたら、すぐにハラスメントと言われる。
「がんばれ」という言葉も、一歩間違えれば「ハラスメント案件」になりかねない。
とくに立場の強い人から弱い人への「がんばれ」は、言われた側からすると「逃げ道を絶たれた」ように感じる場合もあると思う。
会社員だったころの私がそうだった。
上司や夫から軽い感じで「がんばれ」と言われると、「私はすでにがんばってるのに、これ以上がんばれってか。死ねってことか。」と毎回のように思っていた。
もちろんこれは、受け手である私の認知の歪みからくる勝手な言い分で、言った側の上司や夫には何の責任もない。

今の世の中は多方面に気を使ってやりづらいなと、世間の輪の隅っこから見て他人事のように思っていたが、その実、私こそが「気を使われる」存在であることを求めていた。
個人的な話をすれば、私が育ってきた中で手に入れた価値観から、色眼鏡を通して認知の歪みが形成されてきたという細かな話になるが、ここでは個人的な話よりも「日本」という国を全体として見ていきたい。

「がんばれ」という言葉の捉え方には世代間ギャップがあるのではないか。
上の世代の人たち(と一括りにしているが、個人差があることは言うまでもない)は、「物質的なもの」を手に入れることが「幸せ」につながると信じてがむしゃらにがんばってきた。その物質的なものの代表が「お金」である。お金はあればあるほどいい。お金さえあれば幸せになれる。そのお金を手に入れるために一生懸命働くことが美徳である。

それに対して、下の世代の人たちは、上の世代の人たちが物質的なものを追いかけても幸せそうに見えない姿を見て育ってきている。だから、子どもながらに物質的なものを追い求めても幸せになれないことを悟っていたのではないかと思う。物質的なものを追い求めても意味がないのなら「目に見えない」ところで幸せを見つけようとする。
つまり、自分にできる範囲でできることをやろうということ。
もしくは、がんばっても無駄だから最初から「何もしない」とやる前から諦めている人も多いかも。

そんなわけで、世代によって見えている世界が全く違うから、同じ「がんばれ」という言葉でも、捉え方が全く違ってくるのではないか。
なのに、お互いにお互いの背景を知ろうとしない、あるいは知ったつもりになってコミュニケーションをとらないから、お互いに勘違いしたまま、自分が信じる世界の中で歩み寄ろうとして「そうじゃない」と思いながらそれを伝えられず、いつまでも嚙み合うことのない気の使い合いをしているように私は思う。

ちなみに私は上の世代の価値観を濃いめに受け継いでいるので安易に「がんばれ」と言ってしまうことがある。
本当は言いたくないけど、他に適当な言葉が見当たらず仕方なく「がんばれ」と言うこともある。
そんなとき、どう声をかけるのが正解なのか、いまだに答えは見つからないまま。

先日とあるyoutubeの動画で言われていた言葉が頭から離れない。


「がんばれ」とか「がんばる」っていう場面で「がんばる」という言葉を「やりたくないことを無理してやる」に置き換えると大体しっくりくる。


確かに!!!
納得した。

育児をしているとよく思う。
「夫は仕事を頑張ってくれているから、私は家のことや子どものことをできるだけがんばってちゃんとやろう。」
これを言い換えると
「夫はやりたくないことを無理してやってくれているから、私は家のことや子どものことをできるだけ無理してちゃんとやろう。」
しっくりきすぎて笑うしかない。

やりたくないことを無理してやるくらいなら、そんなもんやめちまえ!
と心の中で叫ぶ私がここにいる。

やりたいことを我慢していたらいつか爆発するけど、やりたくないことはやめても意外と死なないのが人間なんだ。
だってやりたくないことをやめたら、やりたいことをやるしかないから。
そうやって「自分のやりたいこと」だけをやってみんなで助け合って生きていたのが縄文時代の生き方なんじゃないの。
そうやって分業システムを築き上げたからこそ、人類はここまで進化してこれたんじゃないの。
そう思うわけです。

結局ね、一番言いたいことはこれ。
日本人は世代に関わらず、みんながんばりすぎだから、もう少し肩の力を抜くこと覚えなきゃいけない。

私も含めて、ね。

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