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「成功」って何?

どうもどうも。皆さん、明けましておめでとうございます。
いや、新年から世の中ではいろいろ痛ましいことがありまして、あまりおめでたい気分ではなくなってしまっているような気もしますが、まあ年始の挨拶として一応ね。

それにしても、このブログ(note)も完全に季刊化しておりますねー。いやーでもしょうがない。
平日&土曜の時間に、ヒルネットの活動&個人レッスンに全精力を注ぎ込んでおると(ほんまか?)、もはた休みの日は抜け殻。ついついのんびりやっちゃうわけでござんしてね。最近ではヒルネットの活動記録すらメンバーのマロ君にアウトソーシングしておる始末。

だが、それではいけない!(いきなり太字)
そんなことでは人間が腐るぞイマンモ!

そんな声が正月明けてからダラダラ過ごしておった私の家のリビングに雷鳴の如く響き渡りましてね。
まあ正確にはダラダラ過ごそうと思っていたら盛大に風邪をひいてお腹痛くなって寝込んでおったんですが。そこに一喝! せめて休みの時ぐらいブログ書けよイマンモ! お前が活動記録代筆してもらってるマロなんか1日で三つも記事上げとったぞ!

そんな自分を責めに責め続ける声に仕方なく重い腰を上げて今PCの前に座っておるわけでございます。そんでもって徒然なるままにタイプを叩いとるわけですが、さて今回は何をテーマにしようかななどと考えていたら、ちょうど今、天啓の如く思い出したことがあった。

それは昨年の話。ある行政主体のフリースクール関係者の会議に出席したときのことでございます。
この会議には一昨年も参加しておりまして、その折は、結構フリートークなスタイルで、僕としても他のいろんなスクールの方の話が聞けて面白かった印象もあったので、去年も参加してみたんですが、今回はなんか司会の職員の方に名前呼ばれて、その都度質問に答えるみたいな、あんまり盛り上がらない感じの会になってしまっておりました。
まあ、それは良いんですが、その幾つかの質問のうち、一つ、後々まで僕の心に引っかかった質問があったんですな。

それが。
「成功例」を教えてください。
という質問。

いや、もう少し具体的には、「皆さんのスクールに通われていて、『こんな成功例がある!』という話はございますか? 高校に進学されたとか、在籍校に戻られたといったお話でも結構です」というような感じだったかなあと記憶しています。

まあ、でも、そんな質問いきなり振られてもねえ。。。しかも、なぜかその日、発言するトップバッターはいつも僕という不幸な巡り合わせ(なんか話す順番決められてたんだよね、出席番号順かな?)。

まあ、そこで「そうですね。当スクールには超優秀なOB・OGがたくさんおります。例えばA君は現在、コロンビア大を卒業後、二十代で起業、汎用人型介護モビルスーツを開発中です。あるいはロンドン大大学院で政治学を研究中のBさんは、将来ネコ型ロボット的AIに人間と変わらぬ意識があると仮定された場合の古典的人権意識の変容、について研究中です」とかテキトーなことをくっちゃべっても良かったんですけれど、流石に僕も人の子ですので、十数階建ての市庁舎の会議室でクソ真面目な顔して嘘八百を述べたてる勇気も根性もなかったわけです。

で、仕方がないので、「まあ、そうっすね。ヒルネットからも、何人か私立の中学に進学したり、あと人間関係や見聞を広めるために高校に進学するような子もいますよ」的な話をしたわけで、それに続いて発言した人たちも、結果的になんか進学率の話なんかをし始めなくちゃいけない流れになってしまったわけなんですな。

が、こいつは反省事項だったぜ! バカなイマンモ!

だって、単に中学に行ったり高校に入ったりあるいは在籍校に戻ったりすること自体は、別に「成功」じゃないから。少なくとも僕は「成功」などと思ってないから。

そもそも「成功」ってなんでしょうか?
いや、人生の「成功」とかって風呂敷を広げすぎると、それこそ「幸福」とは何かといった哲学的・倫理学的問いにつながってしまい、簡単に答えの出せるもんだじゃあ無くなってしまいます。
でも、そこまでいかなくとも、子どもたちにとっての「成功」とは?
特に「ふつう」の学校なんかからハミ出しちゃったタイプの子どもたちにとっての「成功」って何?

良い学校に入ることが成功ですか?
良い大学に入ることが成功でしょうか?
ちゃんとした企業に就職すること?
「一人前」の社会人になること?

保護者や肉親の立場ならば、例えば、自立して一人で生活できるようになってほしい、ぐらいの希望を持つのは自然なことかなとは思います。
でも、それを「成功」って言葉で表現されると、なんか違和を感じません?

まして中学に進学したから、在籍校に戻れたから、「成功」?
会議のあと、他のスクールの方とも話したのですが、例えば在籍していた小学校にひょんなきっかけで戻ることになった子が、学校の授業中ずっと漫画読んでて先生もそれを無視、みたいな話しを聞いたりすると、「本当にその子は学校に戻って良かったのか?」という気持ちになります。むしろ心配してしまいますよね。

本人が希望した中学や高校に進学して、そこで楽しく過ごしていることは喜ばしいことです。でも、それって「成功」なんですか? じゃあ、高校に進学しなかった子は失敗なの? あるいはやっぱり高校が合わなくて高卒認定試験を取ったような子は?

当たり前ですが、そんなところに「成功」も「失敗」もありません。

少し比喩的な話をしましょう。
私たちは皆、「旅」をしています。ちょっとした「散歩」かも。ともかく、その旅や散歩に、明確なゴールはない。あったとしても、それは旅や散歩をやめた時に、事後的に見出される「ゴール」に過ぎない。
ある人は、知らない街を、知らない道をどんどん速足で歩き去っていく。街から街を最短のルートで進む。
ある人はいちいち寄り道。ひどく遠回りしながら、のんびり街を目指します。森にでくわしたなら、そこでお茶でも飲んで、小休止。
最短で街々を渡っていた人は、あるとき急いで慌ててドロボウに遭ってしまうかも。だけど、そのお陰で街でとても親切にされ、人々の気持ちの温かさを知る。
ある森の中の村がすっかり気に入って旅をやめようかと思ったある人が、結局その場所に馴染めず再び旅に戻ることもあるでしょう。そして、再び気ままに色々な場所を訪れる悦びを思い出す。

さて、こんな「旅」や「散歩」に、トータルな意味で、成功や失敗があるでしょうか?
繰り返せば、この旅にゴールはありません。目標がありません。あったとしても、旅を遡行的に捉えて初めて「発見」されるゴールや目標しかないのです。

ありふれた、陳腐な比喩で恐縮ですが、やはり人生とは、こんな目標なき、ゴールなき旅のように思えます。
そうだとすれば、その「旅」を始めたばかりの少年少女のちょっとした旅程の違いが成功とか失敗とかって言葉で語れるでしょうか? そんなはずないですよね?
それはちょっとした、旅の始め方の、「趣味」の違い程度にしかすぎないことなんです。

「旅」をもう長く続けてきた、「大人」の皆さんには、もはや今さら言うようなことでもなかったかもしれませんね。
いや、件の会議の進行役を務めていた方だって、こんなことは百も承知、ただ行政的な「縛り」の中で、質問せざるをえなかっただけなのでしょう。

しかし。それでも。
ふと、自分の子どもの成長を見守りながら。
自分の関わる子どもたちの将来に思いを馳せた折なんかに。

旅するものにとって、「近道」を選ぶことは、決して「成功」なんかじゃあないってことを思い出したいですよね。

それでは、それでは。


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