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宿題は終わらないものだから心配するな

学生時代、夏の終わりはとても憂鬱だった。
家族旅行やお盆の親族の集いなどイベントごとは一通り終わり、気だるげな暑さの中、変わらない日々を過ごす期間。そして何より、終わらない宿題に悩まされ続けた。
小学生時代は交通安全ポスターに自由研究。中学では読書感想文や人権ポスター。高校時代は課題のワークやプリントがバカみたいに多かった。夏休み明けにはテストがある。ぼくは計画性もやる気もなかったので、宿題が終わらず夏休みの最後が慌ただしくなるのは毎年のことだった。

そんな学生時代を過ごしてきた自分が、今まさに夏の終わりを迎える学生諸君に伝えたいのは、「宿題は終わらないものだから心配するな」ということだ。

いや、ちゃんと余裕を持って宿題を終わらせるタイプの人間はいい。立派だ。だが、中には宿題が終わらず、かといって適当に投げ出すこともできずに悶々と悩み続けるタイプもいるだろう。ぼくはそういう人間の味方をしたい。
終わらないことに苦しんだりするのはおかしい。極端に苦しいならやんなくていい。宿題が終わらなくて死にたくなったことがあるぼくはそう言いたい。

ぼくの経験で言うと、そもそも宿題が終わらなくて苦しいというのは、

  • 宿題を完璧にやらなくてはならないと思っている

  • 勉強することでしか周囲に認められない

  • 自分だけが宿題をちゃんとやっていないのではないかと不安になる

といった要因が絡み合っているのだと思う。生真面目だったり、ある程度勉強ができてしまったゆえに、理想の自分とのギャップが埋められず苦しんでしまう。
だから、「どうやって終わらせるか」「終わらなかったらどういう風に後処理するか」といった具体的な方向ではなくて、ひたすら自責の方向へ向かってしまうことがある。


厚労省の統計によると、小中高生の自殺率は8月〜9月にかけてグッと跳ね上がっている。それが必ずしも宿題や勉強と関係しているとは言えないものの、一律的な学習の在り方についてはもう少し見直してほしいとずっと思っている。

一方で親御さん達には、「子供の宿題を勝手に横取りしてはいけない」と伝えたい。
手伝うのはいいけれど、勝手に自由研究のテーマを決めたり、代わりに読書感想文を書いたり、とかそういうことの積み重ねが自己肯定感を下げたり依存を強めたりしてしまうのではないかと思う。何より、子どもの熱量より親の熱量のほうが高いというギャップは、子どもにとって違和感が大きい。親が一人で焦るのではなく、子どもに寄り添ったやり方でエンパワメントするような関係性が望ましいのではないか。

最後に、ぼくがどうやって高校時代の課題を乗り切ったかという方法を書いておこう。ぶっちゃけて言うと、「うやむやにした」だ。思春期特有のアイデンティティ的な悩みに囚われていたぼくにとって、宿題なんかより「自分はこの先どうなるのか」「生きていくことに意味があるのか」といった悩みのほうが何百倍も価値がある問いだった。そういう疑問に納得できないままでは、どれだけ勉強しても無意味だと思えた。(そういった傾向は今でもあるけれど)

だからぼくは鬱になった。もちろん意識的にそうなったわけではなかったし、元々そういう傾向があったのだとは思う。だが結果的に、鬱になってメンタルクリニックに通い始めたりし、通常より課題量を減らしてもらったり、遅れてもいいから、答えを写してもいいからということにしてもらっていた(どうしても提出させるのは成績評価のためだろうが、今考えるとおかしな話だ)。

別に、宿題ができないのなら鬱になれというわけではない。それはどう考えてもおかしいし、鬱になんてならないほうがいい。ただ一つ言えるのは、あの頃宿題なんて全然できなかったけれど、それでもなんだかんだで今も生きてる、ということだ。
勉強できなかったところで死にはしない。学校行けなくたって死にはしない。自分で最後の一線を越えちゃわない限り、そうそう命を奪われることはないのだ。

だから、宿題が終わらなくて死にたくなってる皆様。
とにかく先延ばししろ。
それが生き残るための手段である。

もちろん、終わるなら終わるで越したことはないのだが。

昔々、あるところに読書ばかりしている若者がおりました。彼は自分の居場所の無さを嘆き、毎日のように家を出ては図書館に向かいます。そうして1日1日をやり過ごしているのです。 ある日、彼が座って読書している向かいに、一人の老人がやってきました。老人は彼の手にした本をチラッと見て、そのま