読んだ:脱「いい子」のソーシャルワーク


この3月に現代書館から出た『脱「いい子」のソーシャルワーク』を読んだ。社会福祉学者の竹端寛さんほか4名の方が著者。竹端さんとは、SWLABで「DoingからBeingへ」をご一緒させていただいているのだけど、このタイトル自体が、竹端さんとの対話のなかから生まれたもの(竹端さんからの提案)。

今日は、オンラインで出版記念のイベントがあって、そこに参加したのだけども、それを聞きながら、ぼくがここから何を感じとっているのかを書いてみた。

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対人支援職としての姿勢についての視点・視野を新たに拓いてくれる書籍だと思う。ぼくたちが無自覚に囚われている「構造」を認識することで、個人の意識が解放され、自らの自由・創造性・当事者性を取り戻すことができるかもしれない。人間がもつ可能性を改めて感じさせてくれる。

抑圧構造のなかに自らのいのち(そしてその愛や衝動)を無自覚的に押しこめるのではなく、否応なく存在している構造(があること)を認識し、自らのイニシアチブ・この世界の当事者であることを思い出すこと(取り戻すこと)。

そのことによって新たに葛藤が生まれることもあるであろうが、それは進化のプロセスであろう。その葛藤は、無意識化にある抑圧と比べ、自らがどう生きるのかは自ら選択しているという現実を取り戻し、それを起点に自分らしさや人間らしさを取り戻しうる可能性を手にすることができる。


第8章で竹端寛氏はこう書いている。

『「困難事例」を対象者個人の(=つまりは他人の)困難に落とし込むことで、支援者自身の変容課題として取り組まない、という構造は、組織内・組織間連携の問題を上司や部下、施設長の(=つまりは他人の)困難に落とし込んで自分が変わろうとしないがゆえに、組織や構造的問題の悪循環がどんどん深まっていく、という先述の「組織的な不全をもたらす7点」と構造が類似していることも見えてきた。(略)

(現状の社会福祉現場における人材育成において:今津補記)対象者向けでも自分向けでも、doingの研修がほとんどであり、自分自身の実存やあり方、というbeingを問い直す研修がほとんどない、ということもわかってきた。(略)

バイスティックのプロセスー”self-awareness”(自己覚知)を”self-reflection”(自己の内省)に結びつけて、そこから自らのあり方を振り返り、別のアプローチを希求するーを、ひとりですることは簡単ではない。しかし、他者や社会の抑圧に自覚的になろうとすれば、それ以前に本来自分自身がどのような人間で、どのような社会的な制約や抑圧の下で生きてきたか、について自己覚知や内省をする必要がある。(略)

「抑圧的な現実を課す制約」をそのものとして意識化し、それを鵜呑みにせず、「状況を変革することができる」と批判的にその現実と向き合っていくことが支援者にできれば、支援者と対象者との関係は、about-nessではなく、with-nessの関係になる。そして、そこから、「関係性のなかでの心配ごと」の変容は始まる。そして、対象者の「抑圧的な現実」と向き合うためには、まずは支援者自身が自らの「抑圧的な現実が課す制約」について、批判的意識化を行うプロセスを行う必要がある。自らの無力さに気づき、それを乗り越え、lead the peopleの前に、lead the selfを取り戻すプロセスが必要である。』



共感。支援者に限らず、社会福祉に従事するソーシャルワーカーやケアワーカーに限らず、私たち誰もに当てはまることであろう。

ぼく自身、どこまでいっても、自らの加害構造・被害構造から逃れることはできそうにない。死ぬまでできないだろう。

だからこそ、自らの時空意識を広げ深めていきながら、関係のなかにある自らを意識化しようとする試みを続けていこうと思う。自己覚知や内省を促し、より良い関係構造へと転換させていくことにつながる「ひらかれた対話と創造の場づくり」を続けていこうと思う。


ぼくは本が好きだ。

好きというのか、書物を食べて、自らを支え生きてきた。生きるために本を読んできた。20歳の頃に書物と出会った。それらとの出会いや関わりが自らの血肉になっていると思いたいが、ただの趣味と言うか、ヒマつぶし、いや、自らの効力感を得るために読んでいるのかもしれない。

新たな春が始まり、この1年を振り返り、これからの1年のことを考えている。「ひらかれた対話と創造の場づくり」は続けていくけれども、そのテーマの一つとして、書物を媒介させた場をはじめていけたらいいよなと思っている。

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