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「楽しくなくて分かりにくい」未来が来ても

僕らは「分かりにくくて」「楽しくないこと」にどんどんと耐性がなくなってきている。そんな気がしている。

「もっと楽しく」。
「もっと分かりやすく」。

スローガンである。

行動するときに、説明するときに、企画するときに。
求める度に、求められる度に、ずっとなにかが気になっている。

以前、youtubeは「3分ぐらいでまとめないとなかなか子どもたちには見てもらえない」ということを聞いた。世のyoutuberは大変だ。しかも、それも、現在のTikTokの隆盛を見れば、さらに耐えられる時間は短くなっていることは想像できる。シークバー(再生位置を動かせる)を持つ、というある種の支配感は、人を短気にする(この文章もここまでで、何人脱落しているか・・・見ものである)。

口伝は文字になり、文字は写真になり、写真は動画になり、情報量は格段に上がってきた。だから、単位辺りに伝わる情報量が多くなれば単位が短くなってくるのは当然で、不思議ではない。

ホームページはブログになり、mixiになり、Facebookになり、Twitterになり、写真だけのInstagramになり。SNSの変遷を「分かりやすさ」で並べれば、多少の前後はあっても、分かりやすくなる。

僕自身、本ばかり見てる訳ではなく、youtubeをたまに眺めて楽しんでいる。大抵何も考えずに眺めているが、よく違和感を感じるのは、「行間を限りなく抜いた」編集によって止めどなく話す人を見たときだ。テンポ良くするためには非常に有効な手段だが、まさに「行間」はない。

ここで、「行間を読む力が~」とか「人間の大事な部分が~」とか、改めて主張するつもりはない。自分自身も流れにのって、よしとしているのに、言ってもむなしいし、もっと言えば同様の主旨のことは、ほっといても誰かが言うだろう。「日本の伝統が」でも「文化人とは」でも、まあ、なんでもいいけど。

「古きよき人間らしさが失われている」という主張は、誰だってしたい。とくに、年をとれば。だから、大体が「近頃の若いもんは」と同じぐらいのニュアンスにとらえられてしまう。歴史を見れば、本にはまれば「本の虫」と揶揄され、長電話やメールにも目くじらはたてられ、漫画はダメ、アニメはダメ、ゲームはダメ、LINEのスタンプコミュニケーションだって、気にくわない。自分が経験したことが通じなくなるのは人間なら「なんかさみしい」のだから。仕方ない。

「分かりやすい」「楽しい」ものに変化していくのは、人間の性であり、原動力だ。大きな流れでもあると思う。

しかし。

「満足」かどうかは、よくよく見極めなければいけないと、思う。「楽しい」「分かりやすい」で、はたして、満たされているのだろうか?生き生きとしているだろうか?

こう書いていると誤解されそうだが、何を隠そう、僕は「楽しい」「分かりやすい」推進派である。だいたい、他人の産物を見て「もっと分かりやすく書けないのかな」とか「もっと楽しくならんのかな」とか考えてる人間だ。自分でやるときも最大限「分かりやすく」「楽しく」を持ち帰ってもらおうとする。

しかし。

「分からない」けど、「楽しい」があり、「楽しくない」けど「面白い」こともたくさんある。

「ザワザワ」「ヒリヒリ」する感覚は、まったく「楽しくない」。むしろ、「気持ち悪い」。

苦労をしなければならない、とか、分かりづらいものにぶつからなければならない、という方向ではない。「ねばならない」論は大抵行き過ぎている。

でも、「うまく説明できないけど、気持ち悪いけど、どうしてもやってしまう」という世界にも足を踏み入れることが大事なはず。そこには、「分かりやすい」「楽しい」だけでは到達できない未踏の場がある。

「分かりやすい」「楽しい」のって、基本的に誰かが通った道なのだ。

人類未踏の地が減ってきているように、「自分の中の未踏の地」も減ってきているのだ、ね。

「理解できない気持ち悪い世界」があるほうが、豊かじゃない?

以下オマケ

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