伝えると伝わる

自分なりの気づきを書く。心に残ったことを書く。

それは、語りたいことなのか?誰かに読んでもらうに値するものか。私にとって気になるポイントでもある。

表現には2つの目線があると思っている。自分目線と他人目線。ディレクターとプロデューサーのような違いだ。

自分の作りたいもの、生み出したいものに焦点を当てるのか、それが受け手にどのように届くのかに焦点を当てるのか。

コミュニケーションは、受け手がいて初めて成り立つ。受けての中に形作られて初めて「伝わる」。伝えることが目的になっているとき、手段が目的となっている。

「伝える」から「伝わる」の昇華に作家性、芸術性が出てくるだろう。自分の中の不定形なものを削り出し、組み立て、投げつけるのではなく、相手が受け取る形に加工していく。自分の言いたいことのまさにど真ん中はなにか、どのような言葉を使えば、伝わる、のか。葛藤や悩み、分からないものへの格闘がここに表れる。

ただただ書き連ねていく文と、誰かに向けた文は、こうして言葉の解像度が変わっていく。

最近の毎日執筆挑戦を経て、解像度が変わっていく様、言葉の選択、創出に籠もる熱の入れ方を思い出してきている。ただただこぼれ落ちる言葉を記録していくのではなく、一度拾って、相手を思いながら研磨していく。

こぼれ落ちるだけのときには熱は身体から発する熱を借りてくる。体温ほどの言葉は、外気にさらされてすぐに冷えてしまう。書き言葉でも同じで、こうしてnoteに書いている間に冷めていってしまう。

一度出した言葉をもう一度呑み込み、腹の中で再度研磨する。出しては呑み、呑んでは磨いてまた出す。繰り返しの摩擦によって熱は高まっていき、ちょっとやそっとでは冷めない、自分の熱を持った言葉になっていく。

自分語りもまた必要。しかし、夜に出すのなら、磨きにかけた言葉を並べていきたい。

言葉はそもそも儚いもので、壊れやすさに気を遣いながら熱を高めていく必要がある。熱は力。語義・語意に力が宿るのではなく、流れや配置によって言葉の網目が人の心に作用すること。

網目を震わせる力は、また次の機会に考えよう。





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