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本当に「三大欲求」なのか?

今日は高校生と、「共生」について深めました。人はなぜ対話するのか?ということに関して、一ミリぐらい思考が進んだと思います。

人は、なぜ対話するのか?
ひとつは「わかり合えるための源流を探す」。

今日の収穫です。

でも、「なぜわかり合いたい」のでしょうか?

「人間社会にいきるためには、異質なものとも折り合いつけなければならない」。模範解答です。

でも、もっと掘り下げていけば、さらに奥があるような気がします。人と話すときに(とくに、楽しく話しているときに)、「私は人間社会にいきるために、いま話している」なんて考える人いるでしょうか?

物事をもう少しシンプルにとらえれば、「わかりたい」というただそれだけに還元できるのではないでしょうか?

古文の「ゆかし」の精神ですが、「見たい」「聞きたい」「知りたい」。

三大欲求は、いつから言われているのか、そう言えば考えたこともありませんでした。人間の根本的欲求は「食欲」「睡眠欲」「性欲」である。誰が言ったのだろう?

僕は、常々それにたいして疑問に思っていました。「三大欲求」以外に、「ゆかし」の「知識欲」があるのではないか?と。

おそらく、三大欲求は、「ほっといても出てくるもの」だと思います。自然に発露してくる欲を「三大欲求」と称した。

昔から考えれば、衣食足りて礼節を知るではありませんが、余剰があって初めて「知りたい」が出てくると考えられたのでしょう。

でも、どんな動物の赤ん坊を見ても思うのは「好奇心」は、誰に教えられる訳でもなくでてくるもの、ということです。「世界を知りたい」と思うのは、きっと動物に生まれた限り、ついてまわるものです。

先進国と呼ばれるくにはとりあえず、建前は「食うに困らない」ようになった。しからば、そろそろ「四大欲求」として「知識欲」も、いれてもよいのではないだろうか?

それとも、これは僕の「特殊な」思い込みだろうか?

オマケ

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