目の前のご飯をおいしく食べられるか?

緊急事態、というのが公にされた。

宣言、ということは「こうなんだ!」ということを言い切った形になる。そのおかげで、いろんな人は「自粛」を要請されている。

かくいう私もその一人で、まだ感染者数が少ない沖縄から、首都圏へと帰ってきて、そのまま家に閉じこもっている。

本当は、すぐにでも旅に出るつもりだった。日本全国をはじめ海外の仲間を訪ね歩き、街の本屋さんや映画館をめぐり、旅先から「酒場」を開き、探究を深めていきたいと思っていた。それが「すぐに」はできなくなった。

さて、「ままならない」ことに、なぜ、こんなにも「イライラ」するのだろうか?

コロナは人間のルールなんてものには従わない。人間の「ルール」というものが、いかに限定的で、自分勝手なもので、不自然であったかが露呈している。身分が高いと、偉い人だと、すごい人だと、人間はどうしても遠慮したり気を使ったりするが、コロナはそこは関係ない。健康かどうか。感染予防をしているかどうか。

その、「ままならなさ」に私はいらいらしているのかもしれない。

現代社会は「イケニエマインド」だと考えている。イケニエマインドとは、「これだけ支払ったのだから、対価をもらえて当然である」という「等価交換」のマインドにある。

もうちょっというと「何か欲しい」という気持ちが先行して、自分の行動の中から「支払ったもの」を算出して、それに見合った「対価」を要求しようとするマインドにある。

「これだけ我慢したのだから(なにかいいことがないと)」

と、思うからいらいらする。

人生、うまくいかなくて当たり前。「死」の世界が当たり前で、生きていることが特別なんだと改めて思う。

平時も有事も、心持ちは一緒なはず。行動が違うだけで。

いろいろとやることがある。いろいろと考えることもある。いろいろと言いたいこともある。

でも、その「忙しい(心を亡くした)」状態と、「今日も、ご飯を食べられた。ありがたい」と「得心(心を得る)」状態とは分けても大丈夫。

明日をも知れぬとしても今日のご飯はおいしく味わおう。

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