映画館は現代では珍しい無我になれる場所

この文章をご覧になっている皆さんももしかしたらご存知かもしれません。NHKの教育番組、『ピタゴラスイッチ』にて昔「ぼくのおとうさん」という曲が流れていました。(もしかしたら今も流れてるのかもしれませんが)面白いので歌詞を少し引用して紹介します。

「おとうさん おとうさん
ぼくのおとうさん
かいしゃへいくと かいしゃいん
しごとをするとき かちょうさん
しょくどうはいると おきゃくさん」

「ぼくのおとうさん」
作詞:佐藤雅彦/内野真澄



私たちは生きていく時には常に何らかの役割を背負っています。そういった状態での見られている姿がその時々の社会に対しての自分になります。
歌詞にあるように会社では会社員とか、店ではお客さんのようなことですね。
つまりはその役割が場面によって自動的に付与され、そしてそれが当然のものであるという条件のもと他者から目を向けられます。

社会で生きる私たち人間にとって他者から見られる状況下では基本的に場面に応じた『振る舞い』が求められます。少し極端に言ってしまえば、私たちは常に何かを『演じている』とも言えるのではないでしょうか。
そしてときに、その目まぐるしさや気の張りように酷く疲れることはないでしょうか。

ところで演じるといえば…みなさんは映画はお好きでしょうか。最近ではサブスクリプションの流行によって過去の名作映画から最近の映画までいっぱい見るようになったという方も増えているのではないでしょうかと推測します。
私も愛用しており基本的には満足しているのですがどうしても気になることがあるのです。
それが、演劇を見ている私が『演じる』状態からいまいち解放されないという皮肉な事態に陥ることです。

家にいるとどうしても気になってしまうのです。アレやったっけなあとか、そろそろ洗濯物いれないとなーとか、もっというと携帯の画面で見てるときなんてメッセージアプリから通知がきたりするんです。
見られているわけではない場合もあるのですが…"私"を放棄できずに社会と繋がったままなのです。
私にとってはどうもこれがいまいち作品に入り込めない枷になってしまうのです。"私"から逃げられないのです。多くの人にとってこの状況は当たり前なのかもしれませんが、結構これが私にとっては大問題でして…作品に集中できないんですね。


その点映画館は自分が客になる時間が短くて大好きなのです。客らしく振る舞うのはチケットを買って見せるときくらい。あとは無我です。故にある種"私"から解放され、疲れない。
映画館のルールは本当に素晴らしく、全てが"私"を感じさせないシステムになっています。ざっくりルールを思い出してみてください。
・前の席は蹴らない。
まあこれはマナーですね。充分なゆとりがある映画館の座席ではこんなことわざわざしなければ起こらないでしょう。私にとって大事なのはこれが遵守される環境において外部からの刺激が来ないということです。
・携帯電話の電源を切る。
大げさにいえば外界から遮断してくれます。暗くてでっかい箱に何人かとポツンと置かれる状況を作ってくれる。そこに私を呼び止める人は誰もいません。

などなど…

この環境では何を演じる必要もありません。
他にも周りに迷惑をかけない趣旨の簡単な約束事が並びますが、全てが、先述した通りとにかく"人"を感じさせない、"私"を隔絶してくれる作りになっています。

そうして照明が絞られて暗くなり…正面の大きなモニターにだけドンと大迫力の映像、自身を取り囲むような音声。

何も演じず、誰かに見られることもなく、ただただ観客に『なれる』。
ただ、2時間ないし3時間作品を楽しめる。
映画館はそういう時間を現代に体感できる数少ない場所だと思うのです。

『演じる』ことに疲れ、また少しでも興味を持った映画があるのならば、今度の休日のプランの一つにしてみては。

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