切れぬ縁が現世で切れたとき

初投稿にどうかとも思うのですがかたまりきってないまま思う事があり、何をお伝えするわけでもない、オチもない少し重くて長い話を。

数ヶ月前のこと。持病がとても多く、2年弱施設や病院を転々としていた祖父を亡くしました。
持病といっても特別余命を縮めるものでなく、日々の生活習慣によって形成された…というのもこの祖父は食べるものは不健康、歩行などは最低限しか行わないので、所謂生活習慣病の類いのものを併発しているためでありまして。最期をいつ迎えるかという期間でした。

私はこの祖父に並々ならぬ想いを抱いていました。良い意味ではない方です。

外出時に連れ出された際には基本的に世話が必須。それも老人特有の、ではなく個人特有のものです。口を開けば『あれを持って来い』『これを買って来い』見知らぬ他人への悪口、高圧的な態度。これらを公衆の面前で大きな声で叫ぶわけで。所謂マナーの悪い客。私と、特に母は(父方の祖父なので母にとって義父なのですが)まあこれに悩まされた。
周囲に迷惑をかけぬよう…いや、この場で白状すると自身が恥をかかぬように言われるであろうことを先読みして済ませておくと、きまって『そうではなくああしろ』『ここの人間にさせればよい』などと文句を言い、結果労力を払って同じかそれ以上の辱めを受けるのも日常茶飯事。正直に言ってしまえば私は祖父が嫌いでした。

こういったような話を友人や周りの人に、たまに半ば冗談、半ば真剣に相談…愚痴を吐いた事もあります。すると大抵の場合(僕のことをおもって)こう言われるのです。
『距離を置いたり関わらなかったり聞かなかったらいいじゃないか』と。

昨今の世間のニュースでもかなり人間関係がらみの問題、騒動などに関してよく言われることでもあると思うのです。要するに"嫌なら逃げればいいじゃないか"というお話。
こう言った言説が流布するにはつまり逃げた方がいい状況というのが多いという事実の裏付けとしては十分なのでしょう。

では、逃げればどうなるか。
考えられることは大きく二つあります。
一つは私はある程度解放されるでしょう。そりゃあそうだろうということです。寧ろ友人各位が言ってくれるのは私をそうするためのお話。
もう一つは決して問題の解決になるわけではなく問題は置き去りだということ。逃げるという選択肢のマイナスな部分です。

【逃げればいいじゃないか】
という話はつまるところ
【これを受け入れて悩みから自分を解放し、そこで新たに自身の活動を形成し、活躍せよ】
ということなのだとも思います。字面だけ追うとやや掴みにくいが故に、逃げるという事に関して世間で絶えず負の側面も正の側面も取り沙汰されるのでしょう。

以上を踏まえて"私"が逃げればどうなるか。

皺寄せが母や弟(いきなり登場ですね。すみません。)に向くでしょう。
そして、特に当時の私にとってこの事態は悩みから解放されるどころか悩みを増大させることに他ならないわけです。
この形而上の雁字搦めが憎しみを加速させたのは間違いないでしょう。
個人的な考えとして血縁の絆が確固たる所以は以上のようなことにあると思えるほど。

結果私は逃げられませんでした。
友達に上記の内容を話しながら言うわけです。
「父も働いているし〜」「弟も受験期だし〜」「母もただでさえ忙しいし〜」
これに対して返ってくる言葉も大抵は決まっています。
『偉いなお前は。』と。

実際は違うのです。
逃げる勇気が、悩みを解放した後の事の自信がなかったから、今まさに真っ当な王道を行っている人の枷を作っておいて腑抜けた自身の活躍を成し遂げようとする勇気がなかったのです。全部から逃げるわけではないのだから効率的に考えれば上手く逃げるのが良いのはわかりきっていたのに。





そんなこんなで月日は流れます。
とうとう祖父に家での暮らしの限界が訪れ、病院や施設に見舞うことがメインになります。
私は施設の人と上手くできるのか、病院で無茶言わないかなどと一般的なのかわからない角度での心配があったのですがどうやら上手くやったようで安心しました。

そして、私個人として忘れることのない出来事としていよいよ施設から移った大型病院から更に療養型の病院へ祖父を移すとき。祖父を介護タクシーにお願いし彼の荷物を運ぶために私が車を出すことに。
病院であった祖父は顔に関してはよく見ていたので徐々に痩せていたことはわかっていたのですが下半身が酷く痩せており、ふくよかだった面影が全く見られず、自分自身が苛烈に辛い時期を抜けながらもやはりそれなりに憎んでいたはずの祖父の変わってしまった姿になぜか物悲しくなったのをよく覚えています。
そこそこ元気はあったものの、けたたましかった声の張りも普通で、横柄な言い草もなくただ、今日来たことについての礼と寒いから上着をくれなどの易しい、迷惑とほど遠い要求と軽い話をしつつ、病院の皆様の説明を受けてお礼をし、介護タクシーの方が来られると、準備を済ませて出発に。

療養型病院に着き、病室へ移す際に、感染症対策として暫くは遠隔でタブレットを用いた面会しかできない旨の話を受け(突然言われたわけではないですよ!)いよいよ病室へ移す時。
しばらく直接会う事がないのでちょっとだけ話す時間を、と。ごく短い時間の顔合わせ。

また来るよ。と言うと筋力のほとんどない寝た状態の祖父がゆっくりであるものの確実に首を縦に振って返事をしたのですが、その時祖父はうっすら目に涙を浮かべており、ここで私は最後の覚悟をなんとなくしたわけですが、結局そうなりました。

面会は回数も制限があったためしばらくはその機会を父に回し、少し離れた大学に合格して一人暮らしを始めた弟が我が家に帰省する8月分を私たちに充ててもらおうと予定していたなか、7月の下旬にその日の昼まで普通に病院のスタッフさんと会話していた祖父は21:00ごろだったか、容態が急変し亡くなりました。

そこからは葬儀などがすごいペースで(そういうもんらしいです。ここまで読んでくれた方で未経験の人はびっくりしないように)結構忙しかったので、物思いにふける時間は短かったのですが、亡くなって以降私が思い出したのは憎んでいた祖父の姿より圧倒的にしてもらったことや楽しかった事にまつわる祖父の姿が多かったと明確に言えます。幼少期の楽しかった時期の思い出、旅行に行った事、1番多かったのはご飯に行った事か、など。

棺桶に入った祖父はプロの手により綺麗に化粧がされており、遺影も比較的元気だった時期でやけにカッコよく思えたのも深く印象にあります。元気だったという事は1番迷惑をかけられた時期だった気がするのですが…なぜか良かったなあというかヘタすると誇らしいくらいまでに思えたくらいで…不思議な感覚に身を包まれた。としか言えないのですが。


葬儀の時も少し時間を経た今でも、苦しかったあの時期に逃げれば良かったなと思います。別に全てを押し付けるわけじゃない。できる事をやって出来ないことをお願いする。それで良かったのだと。その感覚のズレから単一の事情でないにせよ私自身体調を大きく崩した事もあります。

ですが、逃げなかったことは無駄ではなかったなとも同時に強く思うのです。なんというか…まあ、しゃあないかなと。やれることは結構やったなと、そう、スッキリ思えるのです。

強引に解釈すると赦しにも近いのかなとも思いました。私が祖父から受けたものは、嫌なことだけではなかったとは言え、それはそれは嫌だったり苦しかったりしました。縁が切れないことを口惜しく思うほどに、です。
が、今となってはすべてどうでも良いのです。
寧ろ本来持つべきであろう感謝の気持ちすらしっかりある。受けた恩の部分を忘れずにいられる。
そう思えたタイミングで上手く生きられなかった、勇気を持てなかった、結局かえって周りに迷惑をかけてしまった、嫌気がさすくらい醜いと感じた当時の自分をも少しずつ赦せるようになりました。

で、読んでくれた方にどうしろというわけでもないのです。こういう感覚になったよという学びが固まらないのにずっとあるというだけで…

ただの不思議な、ありふれたお話でした。



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