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高いモノ=いいモノか問題

買うモノに選択肢がありすぎて決められないという私たちに、値段は一つの判断基準になる。
買いたいモノと買えるモノの間に隔たりがあるのが常で、妥協に妥協を繰り返す日々。

私はネットのおしゃれ雑貨屋で売られている、4万円もする箒に心を打たれた。棕櫚と竹とわずかな金具で作られたその芸術品は、私の愛する変わらぬ吸引力をもつダイソンと比べても遜色ない値段だった。

物の値段はどうやって決まるのだろう。
コストを積み上げるやり方と、バリューをベースとするやり方とがある。

一般的に「ブランドもの」と言われる製品は、バリューをベースにしているだろう。熟練した職人の給料や、一流の原材料を使っているのでコストも勿論ある程度かかる。ただそれ以上に「ブランドの名前」、それを持つ意味、記号論的な部分に大きな価値がある。

消費者も決して沢山入って丈夫で壊れない鞄が欲しくてバーキンを買うのではない。バーキンを持っている人間として見られたいからあえて100万円以上をかけてカバンを一つ買うのである。
バーキンを生産するエルメスは革製品の職人が目指す最高峰の場所であり、常に多くの革製品職人が切磋琢磨をしている。なのでバーキンというバッグは確かに生産するのに100万もコストは掛からないだろうが、100万をかけて手に入れたとしても、空虚な地位財を買っただけ、ブランドの名前を買っただけ、という気分にはならないはずだ。

一方でヨンマンエンの箒、あるいはジュウイチマンエンもする箒(←実際にある)はどうだろうか。わからない。私は箒についての知見をたくさん持っているわけではないから判断がつかない。100均で売られている箒よりは確かに掃き心地がよく、見た目が美しい。でもヨンマンエンに値する、と言い切れるのかどうか、私にはわからない。
日本に箒職人がどれだけいるのかも、私にはわからない。箒職人の間で技術の競演が起きているのかもわからない。

箒に限らず、着物だって、染め物だって、至る所で職人の成り手のいなさ、技術の存続が危ぶまれている中で、競争が起きるはずがない。
日本に1人しか作り手がいないのに、あるいは生産しているのが一社しかないその技術の完成度を評価できる人間なんているはずがない。その日本唯一の職人が作る製品が先人の作品に比べてポンコツだとしても、唯一の職人だからということで尊ばれる。きっと良いものだ、と思い込んでしまう。

職人の作る製品の値段の決め方がコスト積み上げ方なのか、バリュードリブンなのかわからない。

大企業は安いものを売ることができる。スケールメリットがあるからだ。たくさん作ってたくさんあるから、薄利多売ができる。一方で小企業はスケールメリットがない。高い原材料を使わざるを得ない。原材料が良いものだから高いというケースと、安い原材料が手に入らないから原材料費が高いというケースがある。

素人の私には分からない。
高いものはいいもの、安いものは粗悪なものと思い込んでいるから。
安くて良いものもあるが、それを手に入れると嬉しい。お値段以上ニトリ。一方で高くて粗悪なものがあるということに中々思いを馳せることができない。

事実として、高くて微妙なものはたくさんある。
高ければいいものだろう、という私の思い込みが利用されている。

でも私はその思い込みをやめられない。夫もその思い込みをやめられない。なけなしのお金で高いものを買ったからには、これは良いものだと思い込むしかないから。そしてその使い心地に違和感を抱くことも、思った以上に早く壊れることに対しても、見なかったふりをする。
そうやって自分を誤魔化しながら、またインスタを見て、雑誌を見て、素敵な雑貨屋で、日本唯一の職人がつくる「美しい手仕事」にお金を投じる。

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