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[エッセイ]ティッシュがなかった街の話

幼稚園の時、家にティッシュがなかった。
別に親がアンチティッシュの信仰を持っているとかじゃなくて、全上海人民がおそらく家にティッシュがなかった。90年代初めであった。

私は毎日安全ピンで薄手のハンカチを胸に留めて幼稚園に行った。ティッシュがないので鼻をハンカチでかんだ。鼻水はすぐにカピカピになるので、ハンカチのカピカピになっていないところを探してまた鼻をかむ。そうして柔らかなハンカチが鼻水の塊に変貌する。

家に帰ればお婆ちゃんにハンカチを差し出し、少し先端が丸くなったギザギザの洗濯板で洗ってもらう。黄土色の石鹸からなんとも言えない油脂の臭いがした。セメントのシンクに琺瑯の洗面器を入れてゴシゴシ洗うお婆ちゃんの手はシワだらけで、私はそれをなるべく申し訳なそうに見つめた。

私はよく鼻の出る子供だった。

突然ティッシュ、ペーパータオル、紙ナプキンとかいうものが一般市民に広まったのは、私が小学校に入ってからだった気がする。台湾のメーカーで、ブランド名は「五月花」、五月の花、Rose de Mai。薔薇を意味する言葉だというのは大人になってから知る。漂白技術のなさを隠すためにチリガミを桃色を染めただけのそれまでのチンケな代物ではなく、本物の白雪の衛生用紙であった。

小さな縦長の四角い小包、ちょうどひと昔のiPhoneぐらいのサイズ感の紙ナプキンのパッケージ。ひとパック10枚ぐらい折り畳まれたナプキンが入っていて、ドイリー風のエンボスがついた厚手の紙。微かな花のような紙のような香りがする。私のマドレーヌ効果はこの紙から沸き起こるのかもしれない。
この紙ナプキンを何に使ったのか全く思い出すことができない、あまりに貴重なので遠足の時だけ持たせもらえて、勿体無くて使うことができず、ただ手のひらでその立体的な矩形をまさぐっていたと思う。

至る所で台湾から来た新しいものがあった。

それまでは38万キロメーター先ぐらいにある宝島だと思っていた、虚構の存在であった台湾が、急に実線の輪郭を持つようになった。
台湾は実存であった。

「雪の宿」そっくりの「ワンワン雪餅」とか、焼きタラとか、食べたことがない日本風のお菓子が、近所にできたばかりの「超級市場」で売られていて、さほど食べないくせに、お婆ちゃんにおねだりを良くしていた。そしてそれをすぐに伯父さんに渡して喜ばせていた。伯父さんはまだ30歳ぐらいで、実家に麻雀しに帰ってくることが多くて、いつも私のスナック在庫を狙っていた。
伯父さんは国営の紡績企業でリストラされて(伯父さんの名誉のために付け加えると、殆どの人がリストラされた時代だった)、新しくできた民営の「ギャラクシーホテル」というイカした名前のホテルでロビーの「経理」(マネージャー)になったらしい。「課長」とか「局長」というのは知ってたけど、「経理」という役職を初めて聞いた。着慣れぬスーツに袖を通し、シチサン分けの頭が黒光りして、伯父さんは憧れの外国に近づけたと息を巻いた。

上海は開国したばかりで、誰もが外国に近づくチャンスを狙っていた。

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