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読まれぬ夜のために

21時、バイトを終えて制服を脱ぎ去り、帰路に就く。さっさと駅に着いたので電車が来るまで構内のレストラン街を眺める。店じまいに入る時間帯ということで照明は落とされ、店先を彩る食品サンプルがくちぐちに陰翳を礼讚している。光線に照らされないのをいいことに本来のプラスチックなつやつやを滲ませて楽しんでいる様子。人間の食欲を喚起する使役動物として生をうけた彼らは、夜間その職務から解かれて戸惑うことはないのだろうか。食品サンプルにおける自由について想い巡らせているうちに時間が経った。降車する人を待って、いそいそと電車に乗り込む。席に腰を下ろし、ポーチを開く。そこには出発時に詰めた『人間の土地』(堀口大學訳)の文庫本がある。あるはずだ。整髪料とリップクリームとタブレットとサン=テグジュペリ。ないはずはないサン=テグジュペリ。……ない。

読まれぬ夜は突然に。
六つの太陽がつねに天空に輝く惑星が、文明開闢以来決して体感したことのない夜を、日食のため唐突に迎える。闇夜を知らぬひとびとは恐れおののいて、手当たり次第に街へ火を放った。かくて文明は一夜にして灰塵に帰した……そんなような物語「夜来たる」を書いたのはアシモフだったか。
電車に乗るとき本を持たないなんて、私の通学通勤文明が産声をあげて以来未曾有の事態。あまりに急激な困惑と、出勤直前に急いで口にしたつめたい三種のゼリーが相まって胃が痛む。火を放つ恐慌を起こすかわりに電車の車内に般若心経を書き散らす衝動に駆られた。ちょうど持っていた筆記具がリップクリームだけだったことを世人は慶ぶべきだ。目に見えない文字を書いたってこの恐慌は終息しないもの。なにか読みたい。ダンコ読まなくてはいけない。文字なき夜はいやだ。
本の光よ、いづれの御時にか失せたまひぬ光る君よ……

「本がないなら──」遠くから囁き声。その仮定法の構文はまさか、あの。「自分で書けばいいじゃない」。眠られぬ夜がヒルティならば、読まれぬ夜はなんだろう。ギルティだ。罪深い。悲惨だ。めげてしまいそうだ。めげて、手のひらにニベアを塗り込める安易に逃げ込みたい。
だが、心のなかの天竜川ナコンがそれをきつく戒める。「初心者さんはついつい、自分に見切りをつけて投げ出してしまいがちですが──」ここで注意です。
「諦めず、書く」。
似非アントワネットと天竜川に励まされ、私は素早くnoteを開いた。
「小さい頃から乱読してきたうちらをナメるんじゃないわよー!」「オマエにしかできないんだろ!?」「ぶちかませ!」「あんたならできるよ。できるって!」「こいこい!」インサイドヘッド陣内家が送る声援を背に文字を刻みつけていくと、最寄り駅であった。腹の底が熱くなった。見馴れたホームに汽車が止まった。

昨日ひさしぶりにnoteに戻った。ひとの目に触れる文章を書くことについて、言い知れぬ障壁を発見してからというもの、3ヶ月にわたって日記に隠棲した。ひとの目がケルヒャーの高圧洗浄機の放つ水流かのように思われた。文章に宿るヨゴレをくまなく洗い出し、削り落とし、吹き飛ばす清々しい水流。書いたそばからざーっと洗い流してしまい、一文字も書けない。noteの入力画面の白さをまえに、どれだけ呆然と時間を過ごしたか知れない。
はじめは日記をつけるのにも苦労した。ヨゴレひとつない美文、言うなれば日記と文学がみごとに混淆している内田百閒翁のような美文、とこちこちに固まった理想を掲げては、自分で自分にケルヒャーした。ペンを握るかキーボードを叩くかする手で洗浄機を握っているのだから文章を書けるはずはない。水浸しになった白紙をまえにしてさすがにこれはいけないと思い直した。私は百閒ではない。
すっぱり諦め、ヨゴレを許すこととした。書き上げたからとて査読を受けるわけでも、印刷して国立国会図書館に収蔵されるわけでもなし。夢について、悩みについて、恋愛について、思い出について、予定について、後輩について、サラダ味について、連想も脱線も中断もまるごと許しながら書いた。論文の執筆に迫られてなお日記はやめなかった。むしろ、なぜ論文を書こうとちっとも思わないのか分析する場として活用した。目を凝らすうち、是が非でもゴミのような論文を書きたくない性情が見えてきた。論文は学術界への一通の手紙だと述べたのはウンベルト・エーコだったか。学術界から失望されることはすなわち私の書簡はゴミに過ぎなかったのであり、送るべきでなかったと悲壮に解するまではあと一歩を残すのみとなる。しかしここでゴミの範疇を緩めて、学位をしぶしぶ授けざるを得ないような代物はゴミではないとしたら。便箋に入れてそれらしく体裁を整えて送って、手紙に分類さえしてくれればじつは私の願いは遂げられるのではないか。なんとか投函しようと思った。太宰治の「葉」ではないが、死ぬかもしれんと思い込んでいたが生きていようと思えた。
悩みは言語化するといいというのは皆の見解が一致するところであろう。私もかねてからそう聞いて賛同を示していたが、いまいち心底からは信じられずにいた。言葉に表したからとて、つらい現実はつらいまま残るもので、気晴らしにすぎないのでは。口に出さないまでもそう考えていた。「つらいよねー」をあの手この手でひたすら言い換えていく果てのない作業のようで、あえて挑もうとするにはあまりに虚しく感じた。「つらい」とはっきり言えばよいものを卑屈にくだを巻いているなとケルヒャーしてしまう。
ひとたび表現に取り組むと、千変万化の「つらい」に固執することにわりと早々と飽きてくる。そしてすぐに、つらくないへの志向が芽吹くし、そもそもつらいってなんだとか問い直す動きや、つらいだのつらくないだのを一旦保留した自分の現実がどんなものか見つめる視線が湧いてくる。日記の百閒原理主義を解いたように、また、論文のゴミ定義を変えたように。ひとつだけの選択肢にほとほと嫌気が差してはじめて、知らぬ間にセルフケルヒャーしていたことに気づかされる。
飽きがけっこう大事なようである。というか、國分功一郎『暇と退屈の倫理学』が指摘していたように、人間は飽きる。ひとつの環世界に留まることは人間の苦手とするところで簡単に流動してしまう。こう「流動してしまう」と悲観してもいいが、あるいは「流動できる」と熱っぽく叫ぶことも可能だ。
ひとりひっそり日記を書くことからはじめ、あくまで論文の眼差しに背を焼かれながらも、恋人との交換日記、友人との文通、読書レビューサイト「ブクログ」への投稿、と、言葉で触れていける現実が地道に拡がってきた。むやみにケルヒャーしなくても楽しく読んでもらえると悟り、いわゆる自信がついたほか、ひとの目からもケルヒャー性を取り外すことができつつある。なにを話してもいいぶん、なにを話すにも極限まで磨き上げたくなるnoteへの帰還は怖いが、飽きたら離れるまでのことである。本を読むにも読まれぬ夜のために、この環世界も私は持つ。




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I.M.O.文庫から書物を1冊、ご紹介。 📚 東方綺譚/ユルスナール(多田智満子訳)