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障がいの重さって何だろう。

障害支援区分というものがある。
どの程度のことが自分でできるか?
どの程度の支援があればできるか?
などのチェックをし、その結果によって、受けることのできる福祉サービスの内容が変わる。
ただ、身体・知的・精神・指定難病の、どの対象者にも同じ80のチェック項目で判断されるところに、多少ならずも無理が生じるような気もする。

知的障害のある人は知能検査というものも一つの判断基準になる。

知的障害のある人の親の立場としては、知的な重・軽は、障がいの困難さに比例するものではないと感じることも多い。

すべてが当てはまるわけではないとは思うが、
知的に中度と言われる我が家の息子程度の障害の場合は、軽度の方より福祉(質の問題はさておき)の恩恵を受けやすく、また、意思の疎通も重度の方より図りやすいこともあり、支援者によって本人の意思を無視されることも比較的少ないように感じる。(無視されることがないわけではない。)

例えば知的や発達障害において軽度の方は、成長するまで見落とされることも多く、二次障害を併発することも多い印象。
そもそも、ご本人自身が自分の障害を受け入れるところから始めなければならないし、それも、自覚するのは多くの場合、環境への不適応が深刻になってからだ。
本当に、ご本人・ご家族の苦悩はいかばかりかと胸が痛む。

逆に重度の方の場合、音声言語としての意思の疎通が図れないことが多いため、ご本人の意思を無視した選択権を奪われるような支援を受けやすい。
(そもそも、それって『支援』という言葉が合っているのか?)
強度行動障害も、自分の意思を奪われた環境だから、余計に顕著に現れるのだと思う。
それがまた、よりよい支援を受ける機会を減らし、生きづらさを強くしてしまう。

障害が重くても、楽しく自分らしく暮らしている知的重度の方を何人か見てきて、共通に思うのは、周りの人が音声言語にこだわらず、ご本人の意思をくみ取っていて、お世話する側⇔お世話される側という関係図ではなく、お互いが人として普通のコミュニケーションをとっている環境のように感じる。
IQが低くても、高くても、やはり、人には自分の意思というものがあって、様々な場面で自分で自分進む方向を選択しては進んでいく。
親も含めて、支援者が、勝手な『良かれと思って』でご本人の選択権を奪ってはいけないなと強く思う。

知的に重度の人が、生活の困難さでの重度にならないようにすることは、周りの考え方で可能なのではないか。
音声言語が通じないと、相手を下に見てしまったり、ついつい先走って勝手な思い込みをしてしまうこともあるかもだけど、やはりそこに本人の意思がある以上、支援者としてそれをくみ取ることは忘れずに続けよう。

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