小さい頃の記憶

子どもの頃の記憶は混沌としている。
母親のお腹にいたころの小さな記憶もうっすらあるが、それも後で家族が話していたことを自分の記憶として上書きしたと言われれば、まあ、そんな気もする。
断片を覚えているのは3歳ごろぐらいか。
お気に入りの花柄のボレロ付きワンピース。
青い三輪車のハンドルについたヒラヒラ。
だが、そんな記憶の切れ端も、後から写真を見ただけなのかもしれない。
とにかく、私にとっては今思い返す記憶も当時の現実も、何か限りなく曖昧で、小学校に入学する年齢に達しても、しばらくは自分の内と外の境が溶け合うようにいつも動いていた。
ちょうどウルトラQのOPのような世界に、いつまでもポツンと所在なく立っているような気分だったように思う。

小学校時代は、おそらく周囲から見れば静かな子だったと思う。
実際、ほとんどの時間は周りの世界に目もくれず、自分の内側に向いていた。
何もすることがなければ、飛蚊症の糸くずをいつまでも追ってみたり、目頭を押さえて瞼の裏が光るのを覗いてみたり、右の中指の爪を薬指の腹で磨いてツルツルを確かめてみたり、よく感覚遊びのようなものに夢中になっていた。
今振り返ると、ある担任教師は私を普通にしゃべらせることに注意を払ってくれ、また違う担任教師は作文を書かせては心の中を探ろうとしていた。
だが、それ以外の教師とクラスメートにとってみたら、喋らず目立たずトラブルも起こさないから、記憶にもほとんど残らない子だっただろう。

共働きの両親と年子の姉。公団住宅に住み、いわゆる当時流行った鍵っ子。
ただし、本物の鍵っ子は姉で、私は鍵を持っていた記憶はあまりない。
姉はどちらかというと外で遊ぶことを好まなかったので、私が家に帰るときは鍵が必要ないことが多かった。
年子ではあったが、親の信頼は姉に大きく傾き、家族にとっては私はいつまでも極々小さな子供のままだった。
なので、鍵を持たせるのが不安な子だったというのもあったのだろう。

本は好きだった。親が姉に買い与えるちょっとだけ年長用の本を、私も拝借して読んでいた。
夜寝る前には必ず自分を主人公にして、いろんな本の中を旅した。
それから、自分で作った物語も頭の中で描いていた。
そのころから自分の生活の中がいつでも文章化されていた。頭の中はナレーションやト書きに満ちていた。自分が発する言葉も相手から向けられる言葉も、鍵かっこで綴じられ、文字になっていた。

親との関係はどうだったのか?
父親はよく遊んでくれたと思う。母親と遊んだ記憶はない。
母親からはよく「甘えん坊」と言われていたが、それほど母親のことが好きだったのか、それもあまり記憶にない。
とにかく、発語と乳離れが遅かったことが、いつまでも母の語り草となっていた。
後に母が人に私の子ども時代のことは「覚えてない。そもそも、そんなことに興味がなかった。」と語ったらしい。
だから、きっとそれ以外の印象はあまりなかったのだろう。

ああ、そうだ。
低学年の頃、手に疣贅、いわゆるイボのようなものができたことがある。
小さな魚の目のような固いイボで、最初は右の中指の第一関節辺り、それから徐々に広がって、両手に全部で十数個できた。
それを治すのに、最初はイボコロリ、それからどこかに拝みに行って手に入れた水や、ハト麦のゆで汁(今見るような焙煎したものではなく、白濁したクソ不味い汁)など、次々と試させられた。
そして、どれも一切効かずお手上げで放置されてしばらくした後、右中指の最初にできたものが少しずつ小さくなって消え、それから残りの十数個もあっという間になくなった。
母は「やっぱり、私が一生懸命飲ませたハト麦が効いた。」と、あのクソ不味い汁の功績をいつまでも誇らしげに語っていた。多分、今でも聞けばそう言うと思う。
結局、最後まで、医者には連れて行ってはもらえなかった。
今でも、母は時折人前で言う。
「あんた、指に一杯イボができとって学校でイボガエルっていじめられて、だれにも手をつないでもらえんかったな。」
ああ、記憶の隅に蓋をして忘れていることを掘り起こすのがうまい母。
着実に人にダメージを与える天才だと思う。
学校での嫌な思い出は大人になってほじくり返されるまで見えないようにして忘れていたが、不味いからと砂糖を入れてさらに不味くなったハト麦汁のあのクソ不味い味を、私はいまだに忘れることができない。

病院に連れて行ってもらえなかったといえば、歯医者にも連れて行ってもらったことがない。
虫歯がなかったわけではない。
学校の歯科検診では、毎回歯医者に行くようにと書いた結果をもらって帰った。
だが、連れて行ってもらったことは一度もない。
理由は、姉が就学前に虫歯で歯を抜いた際、どうやらそこから黴菌が入り、あごに膿がたまり、1か月ほど遠方の病院に通う羽目になったからだ。
その間、姉は入学したばかりの小学校を休学した。
それで、歯医者に行くのは怖いと、そういう理由で母は歯医者とチョコレートを敵視していた。
私の虫歯だらけの口は、小6で自力で歯医者に行くことを思いつくまで、完全に放置されていた。
そして、人より顎が小さく歯が大きい私は、その頃にはひどい歯並びになっていた。
思えば、母も歯が弱く、私が物心つく頃(母が30代頃)には既に総入れ歯だった。
それが当たり前のことだったので、全く不思議にも思わなかったが、今になってよく考えると、そんな歳で総入れ歯なのは何かおかしい気がする。
まあ、そんな母に育てられ、クチャクチャぺッ!の離乳食を与えられていたのだから、私たち姉妹が虫歯になるのは言わずもがなである。

小学校の高学年のある日、私は学校で腹痛になった。
ひどい腹痛というわけではないが、とにかく午後になると左の脇腹がチクチクと痛い。
しばらくすると治るのだが、それが数日続いた。
母親には報告した。
普段は基本、発熱しないと学校は休ませない、高熱じゃないと病院には連れて行かない親ではあったが、あまり何日も続くので、ある日母がパートを休んで学校に迎えに来て、そのまま内科を受診することになった。
その頃の私といえば、高学年になっていたとはいえ、対人関係に問題を抱え、特に人に音声言語で何かを伝えることがとにかく苦手であった。
まず、相手の質問の意図が分からない。
理解するのに人より少々時間がかかる。
どう言えば自分の考えが伝わるのかも分からない。
まあ、口数は少ないし、冴えないというかのんびりというか、ぴんと来ない子だったと思う。
なので、触診で痛いところを探られてもイマイチ要領の得ない返事しかできなかった。
だって、先生、その力で押されたら、押されたところ全部痛いですよ。
結局、薬だけもらって帰った。再診はなかった。
薬が効いたのかどうかはわからないが、日を追うごとに症状は治まった。
すっかり治って数日後、母が言った。
「あれは神経症だった。先生から砂糖でも治ると言われた。だから、薬はただの栄養剤。甘えん坊のあんたはお母さんが働いていてずっと淋しかったんよ。」
あれ? 母がいなくて、私は淋しかったのかな?
そんなことは、今まで一度も考えたことがなかったけど、母が言うなら自分が気づいてなかっただけで、そうだったのかな?
冴えない子だったので、言われるままそれを飲み込んで、そしてすぐ忘れた。
そういえば、いまだに腹痛が起こる時はたいていその場所だ。
数日すればたいてい治るので、そのことで病院に行ったことはない。
神経症と言われたことが心の中にあるのかもしれない。
精神的なものだと思っている。

私は甘えん坊。姉はしっかり者。
姉は優しくて、妹をかわいがるよいこ。
母は今でも他人に昔の姉をそう自慢する。
確かに姉は親せき中の評判も良く、とにかく誰にでも印象が良い。
まあ、姉妹だから、私から見る姉はそうではない。
ひどいいじわるされた記憶も、騙された思い出も、裏切られた事実もたくさんある。
だが、それはどこの姉妹も兄弟も多かれ少なかれあることだろう。
なので、妹として生まれてきたからには、それは仕方がないことだとわきまえている。
多分、姉から見ても、私に対して腹の立つことの一つや二つ、いやそれ以上にたくさんあったに違いない。
性格の違いは否めない。人当たりも頭の回転もよく、10教えると10以上のことを覚える姉と、人と接することが苦手で冴えない、10教えても2,3覚えるぐらいが精いっぱいの私とでは、比較するまでもなく親の愛情の持ち方も変わるというものだろう。
何せ、常に効率を求める母である。その割に人にものを教えるというより、背中を見て覚えろ派の母である。
この要領の悪い末っ子を『出来が悪い子』と思っても仕方がない。
本当にそう思う。

だが、この母の自慢の姉が無条件でかわいがられていたのかというと、今ではそれもどうかと思う。
姉は手のかからない子だった。それが、母には一番のことだっただろう。
私は母から有無を言わさずのショートカットであったが、姉は髪を長く伸ばしていた。
だが、母にはその髪を結ぶという技術がない。いや、ないのか面倒なのかは知らないけれど。
姉は自分で前髪をピンでとめていた。
当時の女の子がしていた「かっちん止め」というやつだ。
前髪はそれでよかったのだが、長く伸ばした後ろ髪は、しっかり者の姉でも手に余ったらしい。
いつの間にか髪が少しもつれ、それがブラシでも通らなくなり、少しずつ大きくなった。
多分、目に見えてわかるようになったころには、だれにも元通りにできなくなっていた。
姉の後ろ頭はいつも髪がもつれていて、それが中学に上がるために髪を切るまで放置されたままだった。多分、誰が見てもひどいありさまだった。
今思えば、母はあれをどうして放置していたのだろう。
自慢の可愛い姉をどうしてあのまま人目にさらしていたのだろう。

子供に虫歯ができても歯医者に連れていくこともなく、病気になっても高熱が出るまで病院に行くこともなく、公園に連れて行ってくれることはあっても一緒に遊んでくれることはなかった母。
職場の人間関係を早朝に起きて母と会話をすることを楽しみにしている小学生に愚痴る母。
夫と義母と義姉の悪口を、ひたすら小学生の娘に吹き込む母。
祖母に失礼なことを言ったと、人から見えない隅に娘を引っ張っていって、太ももをつかんで思い切りつねる母。

冴えない私はただ言われたままに、母を意地悪な人たちから虐げられる可哀そうな人だと信じていた。
まるで小公女セーラかキャンディキャンディのような。
悪者にはいつか正義の鉄槌が下り、虐げられる人には幸せな結末が待っている。そんな物語の中に母がいるのだと思っていた。
大人になった今、小学生の自分に「人の言い分は両方の立場から聞いて判断しなければならない。」と教えてやりたい。
真実は一方からの話では知ることはできない。
そんなことも、人を疑うことも全く知らないバカな子だった私に。
まあ、あの冴えない小学生は、自分を有利にするために事実をゆがめて話す人間がいるなんて、それが自分の母親だなんて、理解できなかっただろうとは思うけど。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?