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どうしてガラクタネームは生まれてしまうのか

ガラクタネームとは

現在「キラキラネーム」と一般的に呼ばれている名前は、一昔前まで「DQN(どきゅん)ネーム」と呼ばれ、褒められることの一切ない、誹謗中傷の対象でした。そういった名前を良いものとして、擁護するために生まれたのが「キラキラネーム」という呼称です。「DQN」と呼ばれる低能で下賎な名前ではなく、将来キラキラ輝くようにという願いが込められた尊い名前なのだというのが、「キラキラネーム」という名称を与え、推進している側の主張です。

しかし「DQNネーム」と呼ぼうが「キラキラネーム」と呼ぼうが、それは表層的な言い換えに過ぎず、本質は何ら変わりません。事実「キラキラネーム」はそれを擁護・称揚する立場のみならず、否定・非難する立場の人間も用いる総合的な呼び名になっています。否定・非難側の人間が「キラキラネーム」という呼称を使うのは、それがそういった類型の名前を指すものとして浸透しているからというのが第一でしょうが、「DQN」が名前そのものでなく親の社会的地位などを揶揄することに端を発しているスラングであるため、そういった差別的意図はないと主張する意味もあるでしょう。

私はこの類の名前を呼ぶに当たって、「DQNネーム」という呼称は使いたくありません。それは上に触れた通り、名前そのものを批判する際に名づけ親の立場を引き合いに出すのは誤りであり、偏見を助長すると考えるからです。さらに言えば、この類の名前を子供につけるのは、今やネットで「DQN」と呼ばれるような低学歴で低収入な粗暴な人物にまったく限定されません。むしろ世間では上級国民と目されているような人々でさえ、このような名前を平気でつけているのが現状です。

とは言え、一方で肯定的な意味も持つ「キラキラネーム」も使用に抵抗があります。私はあくまで、名づけ親やその名を持つ人間の尊厳は否定しないけれども、命名自体の悪癖は難詰するという立場を取ります。これを「ダメダメネーム」と呼んでいた時期もありますが、ここ数年は特徴をより端的に表して「ガラクタネーム」と呼称しています。近年の悪趣な名前の特徴が、まるでガラクタの寄せ集めのように見えるためです。以後、世間で主に「キラキラネーム」と呼ばれる奇名「ガラクタネーム」に対し、その発生原因と対処について述べて参ります。

その前に、ここで「ガラクタネーム」を改めて定義しておきます。世間の「キラキラネーム」認識と齟齬があると思われるため、私なりの定義を示します。

①漢字の読み方の一部分のみを使う。
例:桜(さ)、凪(な)、巧(たく)、心(ここ)、湊(と)

②漢字を外国語読みする。
例:月(るな)、愛(らぶ)、海(まりん)、獅(れお)、虎(たいが)

③読まない文字を含む。逆に、読みに該当する文字がない。
例:蒼空(そら)、紬星(つむぎ)、芽沙(めいさ)、乃衣(のえる)

ガラクタネームの発生原因

表題の「どうしてガラクタネームは生まれてしまうのか」という問いについて、まず日本語という言語の「ハード面」から考えてみます。

有名な話ですが元々日本には文字がなく、そこで話されていた言葉を記録する術はありませんでした。そこに中国・朝鮮から漢字が到来し、ようやく日本語が文字という形で残されるようになったのです。最初は漢字の意味を無視し、その音だけを使って一音一文字で日本語を書き表しました。「はな」を「波奈」、「そら」を「曽良」と書く類です。これを音写(おんしゃ)と言います。

漢字は表意文字であるため、そのうち日本語の意味と対応させて意味で表現するようになりました、「はな」を「花」、「そら」を「空」と書くのがそうです。「花(か)」、「空(くう)」といった中国での発音をそのまま示したのが字音(音読み)で、日本語での意味として読んだのが字訓(訓読み)と呼ばれます。ただし「はな」を意味する漢字には「花」の他に「華」、「英」、「葩」などがあり、これらの漢字はすべて「華(はな)」、「英(はな)」、「葩(はな)」という字訓を持ちます。反対に「華」という漢字には「ひかり、かざり」というという意味があるので「華(ひかり)」とも「華(かざり)」とも読みます。「英」という漢字には「すぐれる、ほまれ」という意味があるので「英(すぐ)れる」、「英(ほまれ)」とも読みます。

日本語を記し表すために取り入れた漢字が表意文字だったことが、幸か不幸か一つの文字に対する複数の読みを可能にし、何と書き何と読むのかの対応関係が複雑になっていると言えます。最初に到来した文字が表音文字であるアルファベットであったなら、「はな」は「HANA」、「そら」は「SORA」で固定であり、何と書いて何と読むのかは今ほど難解になっていなかったかもしれません。

上に挙げたのは様々な訓読みがあり得るという例ですが、音読みの種類も一つでないことがあります。音読みには、呉音漢音唐宋音という区別があり、たとえば「行」という漢字は呉音が「行政」の「ギョウ」、漢音が「行動」の「コウ」、唐宋音が「行脚」の「アン」です。これはこの漢字を含む熟語等が伝わった時期による違いです。奈良時代末期、桓武天皇がそれまで使われていた呉音読みを禁止し、すべて漢音で読むように命令を下したことが歴史に残っていますが、主に仏典の読み方として日本に根づいていた呉音を排除することはできず、後世に入ってきた唐宋音までも取り入れて今日に至っています。表記と読みの関係はアルファベット圏でも自明ではありませんが、特に日本語においては顕著で、ある漢字を正しく読むためにはかなりの知識を要します。これが日本語が世界でも最難の部類に入る一つの理由です。

とは言っても、この「ハード面」はあくまで自由な名前が生まれる素地であるというだけであり、ガラクタネームが近年急速に拡大している直接の理由ではありません。

続いて、名づけ親の思考という「ソフト面」から考えてみます。ガラクタネームの氾濫はこの「ソフト面」から説明できる部分が大半を占めます。

個人の名前というものは、他の人と識別され、呼び呼ばれ記録される「社会的」、「公的」な側面と、自分自身を端的に定義する「心的」、「私的」な側面があります。しかし【公】の面と【私】の面の大きさは対等ではありません。【公】の面の方が、【私】の面よりもずっと大きいのです。

極端なことを言えば、自分一人で誰とも関わらず生きるなら名前などというものは必要ありません。しかし人間は多かれ少なかれ社会の中で他の人間と接し、その人を名前で捉え、その人に名前で捉えられて生きています。中には山奥で自給自足をするなど、個人名が不要な暮らしをしている人もいるかもしれませんが、そういった人も子供のころからずっとそうだったわけではないですし、子供の名前をつける時に将来誰とも関わらず生きてほしいと考える親もほぼいないでしょう。個人名というのは本来【公】の場で、人を判別するためにつけられるものなのです。

その昔、室町時代~江戸時代の子供は、生まれるとまず「幼名」という子供用の名前をつけられました。男児の幼名として武士や庶民では「○吉」や「○松」、貴族では「○丸」や「○麿」といった型があります。つまりこのタイプの名前であれば、子供であることが【公】にすぐにわかったということです。

男子は元服(成人)すると大人用の名前を名乗るようになります。「○兵衛」、「○衛門」、「○太夫」などが成人男性用の名前です。すなわちこういった名前であれば、大人であると【公】に認められているということになります。同一人物が人生のステップごとに次々と名前を変えていったのが、かつて名前のありようでした。ちなみに「○郎」、「○助」や「○蔵」といった名前は子供大人両用なので、これだけでは判断がしきれませんが、おおよそこのような名前を持つのも大人でした。「弥吉」や「徳松」という名前であればこの人物が子供であることが、「源兵衛」や「藤太夫」、「忠五郎」という名前であれば一人前の大人であることが外部から判断できたのです。反対に大人になっても「○吉」などと呼ばれている人は、その村では大人として認められていないことを示しました。

加えて、一定以上の階級の男性は「諱(いみな)」と呼ばれる実名を持ちました。諱とは漢字二文字ないし一文字で構成され、原則字訓で読まれる公的に正式な名前のことです。対して普段の名乗りに使う名前を「仮名(けみょう)」「通称」と言います。諱は「たかひろ」や「よしまさ」、「あきら」といった形式の名前です。右に挙げた「○衛門」や「○郎」といった形式の名前はすべて仮名・通称です。とは言え、諱を持っていない階級の人物からすれば、この名前が本名であり実名でした。

女性は基本的に、生まれた時につけられた名前から一生涯改名しませんでした。ですが、これはいつまで経っても大人として認められない、当時の女性の地位の低さを反映したものです。ある意味、女性の名前というものは【公】に立場を示すものではなく、名前をつける意義すら弱かったのかもしれません。事実、中世の女性名には「三姫(さんのひめ)」や「姉子(あねのこ)」といった身内での愛称のような名前も散見されました。ただし最上流階級の女性であれば、子供の頃は「○姫」という愛称で呼ばれていたのが、「○子」という諱がつけられ大人として認められることもありました。

すべてではありませんが、このように名前によって、その人物がどのような立場か【公】にわかったわけです。

現代では性別や身分に関係なく生まれた時につけられた名前を一生使います。よって名前を見ただけでは子供なのか大人なのか判別できません。男女両用の名前も増えてきていますので、名前によって男女をはっきり区別できるとも言えません。この通り、現代では「名前によって身分や立場を表す」ということがないので、【公】に示すために名前をつけるという考えは比較的薄弱になっています。

こういった変化に加え、近年における特徴として急激な核家族化と、インターネット世界の拡大を指摘することができます。社会変化を語るには陳腐な視点ですが、これらを無視することはできません。核家族化とインターネットの普及が命名にどのような影響を与えたのか、そして【公】面よりも【私】面が重視された名づけが行われるとどうなるのかを述べて参ります。

家族の構成員から世代や人数が減少し、近所づき合いも希薄になり、社会性が失われていくと、生まれた子は「村の子」ではなく、「○○家の一族の子」でもなく、「祖父母やおじおばを含めた一家の子」ですらなく、「親(私)の子」という存在になります。そうすると子供の名前についても誰かに示すものという意識がなくなり、「親(私)の子なのだから、親(私)の思いが最大限に発揮されるようにすれば良い」という自己主張が前面に出てきます。無論、一族のため、家族のためという名づけが良いというわけではありませんが、少なくとも「親(私)だけのため」という名づけが視野を狭め、「他者からどう見えるか」という視点を失わせていることは事実でしょう。

インターネットが調べものをするためだけのものでなく、そこで交流をしたり発表をしたりする場になったことで、今まで作家や芸能人といった特殊立場のものだったペンネームや芸名といった類の「偽名」が「ハンドルネーム」として急拡大することになりました。ハンドルネームを使ってインターネット空間にいる間、本名は一切の社会性を発揮せず、自らの内側のみに存在する【私】となります。

またこの「ハンドルネーム」というものは、一人何個でも作ることができ、同時に何個でも持つことができ、忘れたり捨てたりすることも簡単にできる、私有性の非常に高い名前です。そこに実生活での本名と同じくらい【公】の社会性を備えているのは、ごく一部の有名人に限られます。しかしその名前は、ネット上で活動し発信している限り、もし本名であったならばどれだけ奇異なものであったとしても、対【公】のものと自認され、【私】であることを忘れさせます。事実、私、蘇我星河もこうやってネット上で発信している時は「蘇我星河」が役所や病院では通じない【私】の名前であることをつい忘れてしまうのです。

このように個人の名前に対する【私】の意識が肥大化していくと、命名時に「他の人間に読めるか」、「外の人間にどう思われるか」よりも、自分にとって「格好良いか」、「かわいいか」が優先されるようになり、結果として漢字本来の読みや意味を無視したガラクタネームができあがってしまうのです。

ガラクタネーム命名を行う際には「子供の輝かしい将来のために」などという建前が掲げられますが、率直に申し上げて言い訳に過ぎません。その意識はなくとも、「子供のため」という主張を厳しく突き詰めれば、おそらくは「子供にこうなってほしい」という親側の願望に行きつくのではないでしょうか。真に「子供のため」を思い、日本語の法則を無視して他者から読めない名前をつけたと言うのならば、徹底的にその理屈を述べていただきたいです。

この通り、ガラクタネームが蔓延したソフト面の原因は、人名の持つ社会性――【公】の面の軽視にあると考えられます。人々の生活スタイルが急激に変わってきたといっても、学校、会社、役所、病院、結婚など本名を使う社会的生活のウエイトは随分と大きいものがあります。

人はその場面場面において話し方を変えます。私も友人と遊んでいる時は、一人称は「俺」ですし、「マジ」、「ヤバい」、「キモい」、「ウザい」といった言葉も頻繁に使用します。【私】の場面で気の置けない相手と過ごしている時はいくら言葉が砕けていても良いでしょう。しかし、私も勤務先などでは上記の言葉は使わず、「マジ」と思ったら「本当に」、「ヤバい」と思ったら「状況が芳しくない」などと言い換えています。ところが本名は場面に応じて臨機応変に変えることができません。【私】の意識に染まってつけられた名前を【公】の場で見かけると、どうしても違和感を強く覚えてしまいます。

ガラクタネームをつける親は愚かですが、決して国語能力が低いわけではありません。前に述べた通り、高い学歴や地位を持った人々でもガラクタネームをつけることは少なくないのです。「この漢字をこう読んでも良い」という自分勝手なルールを素で押し通す人が多いのが実情です。「希」は「希(のぞむ)」と読むのだから、一部だけ取って「希(の)」と読んでもよい。「妃」は「妃(ひ)」と読むのだから、少し変えて「妃(ひな)」と読んでもよい。「月」はラテン語で「ルナ」だから「月(るな)」と読んでもよい。「星」はきらきらしているから「星(きらら)」と読んでもよい、などと考える名づけ親が本当に多いのです。こういった自分に甘い許可を出してしまうのも【私】意識の肥大、【公】意識の欠乏にその所以があると思われます。

私は世代ではありませんが、聞くところによれば、かつては職場の上司に子供の名づけを依頼することもあったそうです。その慣習が良かったかはさて置き、現在は命名に第三者のチェックが入りにくくなっていることは確かです。さらに、子供がいずれ大人になることを想定して名づけをしている人も多くないように感じられます。これは近年特有の現象ではないのですが、前述の通り、昔の日本人は人生の段階に応じて名前を変えていました。なので、生まれた時にいかにも子供っぽい名前をつけたとしても、大人になれば大人の名前に変えることができたのです。しかし今の制度ではそうなっておらず、出生時につけられた名前を一生使うことになります。現代人はかつての日本人より一層慎重に名前をつける必要があるのです。

個性の時代になったことで、伝統的で普通な名前を「格好悪い」と捉え、普通から外れて今までになかった新鮮なものを「格好良い」、「素晴らしい」と見なす風潮ができたように思います。それは言葉そのものだけでなく、響きとしては普通の名前であっても、ありきたりな表記を嫌う傾向があります。この「普通の忌避」がガラクタネーム蔓延のもう一つの重心です。

男子名の「たろう」を「汰朗」と書く人がいます。これも「普通の忌避」によるものです。「朗」には「あきらか、ほがらか」という良い意味がある上、そもそもこの漢字は「良」と「月」で構成されており「明るく輝く良い月」に由来するするため、子供の名前に使いたくなる気持ちは理解できます。ところが「汰」という漢字は、第一義が「にごる、行いが悪い、思い上がる」であり、手放しで好ましいとは呼びがたいです。他に「波、うるおう、なめらか、えらぶ」という意味があるので一概に悪い意味の字とも言えないのですが、「汰」という漢字を使った親がこれら好悪両方の意味をきちんと理解して名前につけたとは思いにくいです。一方、「太」には「ふとい、大きい、はなはだ、最上、通る、強い」、「郎」には「すぐれた男、うるわしい男」という非常に良い意味がありますが、この表記を避ける名づけ親も多くいます。あえて「太」、「郎」の字を使わないのは、意味を考慮した上での選択ではなく、「太郎」という伝統的な用字を避けた「普通の忌避」の意識によると言えるでしょう。この例では、漢字を変に読んでいるわけではないのでガラクタネームには分類されませんが、これが進行するとガラクタネームに足を踏み入れます。

ところで、ここで言う「普通の忌避」とは必ずしも「他人とは絶対にかぶらない唯一無二の名前」を目指すものではありません。伝統のある、あるいは伝統と呼べるほど長い歴史がなくても、前世代まで多く流通していたものを避ける傾向のことも含みます。たとえば、一昔前まで「あおい」という響きの名に対する漢字表記は「葵」のみで、「葵」と書かないのならば、ひらがな・カタカナにしかなりませんでした。現在ではこれらよりむしろ、「蒼」や「碧」といった表記が多く存在します。あえて「蒼」や「碧」を使うのも「普通の忌避」の一種です。これらは人名に多い古形の終止形「あおし」ではなく、現代語の終止形「あおい」になっているだけなので、ガラクタネームではないですが、「葵(あふひ)」と「青(あをい)」が本来まったく無関係な言葉であることは、ここに言及しておきます。

近年の男子名には「りく」が非常に人気です。ただ、率直に「陸」と書くケースは減少し、「莉久」や「璃駆」など、いわゆる普通と捉えられない書き方をするパターンが増えています。これもまた「普通の忌避」を動機としています。人気ランキングの上位には「凌空(りく)」という書き方が見られます。「空を凌ぐ」という意味を帯び、見た目では確かに格好良い名前です。しかし「空」が確かに「く」と読める一方、「凌」はどうやっても「り」とは読みません。「凌」字は「りょう」と読みますが、発音の上で「りょ」は「り」と「ょ」に分割することはできず、ある意味「まったくそうは読まない読み方を当てている」とも言えます。同じく「しょう」と読む漢字は「し」にはならないし、「きょう」と読む漢字は「き」にはなりません。拗音という発音を理解せず、文字だけをなぞってあり得ない箇所で分割したケースです。そもそも拗音が関わらなかったとしても、元の読みの一部だけを取るのはどうあれNGです。中には字形の近さから「睦(りく)」としたものも見受けられますが、「睦」の音読みは「ぼく、もく」であり「りく」とは決して読みません。こちらは部分読み以前の問題です。

以上は主に男子の名前について触れてきましたが、「普通の忌避」は女子名の実例も多いです。女子名に多い留め語に「はるか」、「みか」、「ゆうか」などの「か」がありますが、既存の用字に「香」、「加」、「佳」、「嘉」、「可」、「歌」、「花」、「華」、「果」など多彩で良い字があるにもかかわらず、「楓(かえで)」から一部を取った「楓(か)」や、「叶(かなう)」から一部を取った「叶(か)」といったガラクタパーツが登場するのは、これも「普通の忌避」によるものと考えられます。「椛(か)」も散見されますが、「椛」字は「もみじ、かば」としか読まない国字であり、つくりに「花」を含んでいても「か」とは読みません。

平凡なものをあえて避けるとまでは行かずとも、「よりよい意味を求めすぎる」のも「普通の忌避」に該当します。たとえば、男子名の留め語「と」はほんの二十数ほど前まで大多数が「人」で、少数の「登」や「斗」などがある状況でしたが、現在では多くが「翔」表記です。他人と違うことを目指すならむしろ「翔」を避けるはずですが、多くの名づけ親が「翔」をつけたがります。これは「ひと、人間、人民」程度の意味しか持たない普通の「人」という字をつまらないものと捉えて候補から外し、未来へ羽ばたくイメージのある「翔」を好んで採用しているので、これも「普通の忌避」の一種です。「はやと」という名前は現在でも人気ですが、思えば素直に「隼人」と書く子はずいぶんと少なくなったと感じています。

ガラクタネームは、子供の名前を考える際、「名前の最後に『と』をつけたい。でもありきたりな『人』や『斗』は嫌。そうだ『翔』は『とぶ』って読むから、語幹だけ取って『翔(と)』でいいんじゃないか?」などという経緯で、ある意味仕方なく生成されてきたものだと、しばらくは思っていました。しかし今では、そういった無理やり読みを持つ子供が増え、多くの親が頼る名づけ本に記載されるようになり、「みんなやってる当たり前のこと」と捉えられるようになってしまいました。そのあたりは拙書『ダメダメネームを作ってしまう前に読む本』でも触れましたが、名づけ本の罪は非常に重いと感じています。

熟字訓とは「二文字以上の漢字を合わせて、一つのまとまった意味を表すもの。その読み方」です。熟字訓は構成される一文字一文字の漢字に読みを割り振ることはできません。しかし「永遠(とわ)」を身勝手に「永(と)」と「遠(わ)」に分割し、「陽永(はると)」や「紗遠(さわ)」に用いる例が現実にあります。固有名詞にも熟字訓はあり、「飛鳥(あすか)」を「飛(あす)」と「鳥(か)」に割って「飛花(あすか)」と読ませたり、同様に「大和(やまと)」を「大(やま)」と「和(と)」に割って「悠和(ゆうと)」と読ませるような例もあります。これらはガラクタネームの中でも最悪の一つですが、これらも名づけ本には載っています。実感としては男子名に「永(と)」と「和(と)」が多いように思っています。他にも「叶(と)」も散見されますが、これは「十(と)」と混同した誤読だと思われます。「大(と)」というのも少なからず実在しますが、こちらに関しては由来の見当がまだついていません。

ただの戯れ、言葉遊びで創作のキャラ名や自身のハンドルネームにしている分には問題ないのですが、人格に根を張る「現実の人間の名前」に個々人が思い思いに創出した改造語をつけるのは、はっきり言って害です。ある漢字の一部の読みだけを使って良い。外語読みをして良い。もっと恣意的に読んで良い。――これは明らかに言葉に対するリスペクトとモラルの崩壊です。そうやって作られた棄損語を我が子の名前にするというのは、私からすればもはや虐待です。名前は親から子供への最初のプレゼントなどと言われますが、それがガラクタネームであったなら親から子供への最初の暴力です。

ところで、名づけ親の中にはまるでガラクタネームに反抗するように、あえて古風な諱系の名前をつける人もいます。しかしそういった親たちもまた普通を嫌って、特殊な「公家訓み」に走りがちな傾向が一部認められます。「公家訓(よ)み」というのは、響き自体は普通ながら、その漢字の意味や慣例から外れた、何故そう読むのか理屈のわからない人名訓のことです。

「公家訓み」は室町時代に公家が始めたとされることからこの名称がありますが、実例は江戸時代以降に多く見られ、たとえば久我通誠(みちとも)や三条実万(さねつむ)などが挙げられます。「誠」字には「まこと、まごころ」などの意味がありますが「とも」に通ずるような意味はありません。「万」字には「よろず、おおきい」などの意味がありますが、やはり「つむ」という意味は見当たりません。また、公家訓みとは言いますが、こういった類の謎読みは圧倒的に武家に実例が多いです。田沼意次の「意(おき)」もこの一種と言えます。

ほんの百年ほど前まで人名にごく普通に使われていた「有(あり)」、「家(いえ)」、「興(おき)」、「方(かた)」、「兼(かね)」、「是(これ)」、「貞(さだ)」、「実(さね)」、「澄(すみ)」、「種(たね)」、「為(ため)」、「常(つね)」、「豊(とよ)」、「長(なが)」、「房(ふさ)」、「持(もち)」、「盛(もり)」、「師(もろ)」、「頼(より)」などを使えば、簡単に個性的かつ読みやすい名前ができるのに、それは普通だとして避けられがちです。「兼正(かねまさ)」、「種宏(たねひろ)」、「時房(ときふさ)」などは非常に読みやすく、かつ現在存命の人物と被りにくい名前だと思われますが、なぜか古風好きもそうは考えないようです。それ以前に「あつみち」や「くにやす」といった諱系の男子名は随分と減りました。ここ二、三十年で急速に減少している感触があります。人気名前ランキングや、私の経験からの印象ですが、現在でもなお人気を博しているのは「はる」や「ひろ」程度でこの両者が二大と言えそうです。

そもそも日本の人名というものは、少なくともヨーロッパ系に比べれば基礎からして実に創造的です。最近では欧米でも今までにない名前を創出することがありますが、「マイケル」、「ウィリアム」、「ピーター」、「エリザベス」、「キャサリン」、「メアリー」など決まった候補の中から選択するというのが一般的です。決められた中から選ぶという仕組み上、同名が多数生まれるため、ミドルネームが発達したと言われています。

中国や韓国の人名は創造性が高い部類に入りますが、表記に対する読みは一つに定められます。たとえば「正三」という名前であれば、中国なら「ジャンサン」、韓国なら「ジョンサム」しか読みはありません。ところが日本では「しょうぞう」、「せいぞう」、「しょうさん」、「せいさん」、「まさぞう」、「ただぞう」、「まさみつ」、「まさみ」、「ただみつ」、「ただみ」など様々な読み方が考えられ、これらはすべて違う名前となります。

諱系の名前で言えば「のぶゆき」と「ゆきのぶ」は別の名前です。仮名・通称系の名前で言えば「次郎」、「二郎」、「善次郎」、「善三郎」はすべて別の名前です。このように、よく知られたパーツの組み合わせを少し変えることで新たな名前を作れるのが日本の人名の特色と言えます。

しかし男子名に比較すると、女子名の組み合わせによる創造性は低いと言わざるを得ません。そのためかガラクタネームは女性に多いように思えます。上の「のぶゆき」と「ゆきのぶ」のように、前後の言葉を逆にして成り立つ名前の種類も少なく、数字やその上に冠される言葉を変えることで多彩な名前を創造することのできる「郎」は男子専用です。

女子名に対する選択肢の比較的少なさは事実であり、その不満は理解しますが、だからと言って漢字の一部読みや外国語読みに走るのは確実に悪手です。女性名専用なのは「○子」だけと考えられがちですが、「○女(め)」や「○姫(ひめ)」といった要素を活用することは可能です。名前に「姫」は大仰ではないかと感じる人もいるかもしれませんが、「ひめ」というのは元来「ひこ」と対をなす言葉です。「ともひこ」が良くて「ともひめ」がダメというのは、理屈上矛盾します。

上記の通り、個性的で良い意味の「普通でない」名前は、漢字を詳しく調べることや、組み合わせを変えることで実現できます。しかし現実にそうなっていないのは、日本語への敬意、漢字への誠意を欠き、辞書を引かず、名づけ本や人気ランキングのみを直感的に参考にした名前の選び方が横行しているためでしょう。女子の名前で「陽葵(ひまり)」は非常に人気であり、ランキングの一位になったりもしています。しかしこの名前は、「向日葵(ひまわり)→日葵(ひまわり)→陽葵(ひまわり)→陽葵(ひまり)」という度重なる改造が施されたガラクタネームの最たる存在です。平易端的に言えば「最悪」ということです。このようなものが流行している事実は、子供の名前を真剣に考えているようで実は考えが至っていない親が多いことを示唆しています。

つけたい響きとつけたい漢字が整合しないのならば、どちらかを諦めなければなりません。その方が結果的に良い方へ向かいます。両方取りを目指してしまうと、表記と読みが乖離した残念な名前になってしまいます。「大翔」という表記にしたいのなら読みは「だいしょう」で決まりであり、「ひろと」という響きにしたいのなら表記は「浩人」や「博登」などがふさわしいです。「琴花」という表記にしたいのなら読みは「ことか」もしくは「きんか」であり、「ことは」という響きにしたいのなら表記は「琴羽」や「功葉」にしなければいけません。

どうしてガラクタネームは生まれてしまうのか

結論として、日本人名の可塑性という土台の上に、「人名の【公】的側面の軽視」と「普通の忌避」と「言葉に対するリスペクトとモラルの欠如」が乗ったものと言えるでしょう。言い換えれば、既存形式の名前をつまらないと嫌がり、もっとキラキラ輝く名前を子供に与えたいというソフト面の動機に、何と書いて何と読んでも構わないというハード面の後押しがあって、今の混沌とした状況ができあがっているのです。

すなわち、現状を改善するキーは「普通の忌避」というバイアスの緩和と、言葉の身勝手な改造を「格好悪い」とする価値観の形成にあると思われます。「普通でつまらない」あるいは「普通はつまらない」というのは思い込みであると自覚するのが第一です。そして気になる漢字があったら是非辞書を引いてください。特に図書館にある数巻構成の『広漢和辞典』や『大漢和辞典』がおすすめです。この漢字にこんな意味があったのかと、きっと新たな発見をもたらしてくれるはずです。ファッション等では、普通からちょっと外した格好良さというのもありますが、名前でそれをするのは大変に難しく、ほとんどすべてがただの珍奇・珍妙なものになります。

ところで、今は戸籍に名前の読み方が記されず、名前の読みというものは法的にはあくまで慣習という位置づけでした。しかし戸籍にも名前の読み方が記されるよう戸籍法が改正されることが決まり、名前の漢字に対する読み方が制限されるようになるようです。残念ながら禁止されるのは、漢字と全く意味上接点がない読み方か、「高」と書いて「ひくし」と読むような漢字と反対の読み方だけで、一部読み、外国語読みは「漢字と関連あり」として今後も法的には認められていくようです。

しかし、明確に「漢字と関連なし」であれば、認められなくなるものと思われます。ガラクタネーム定義の③「読まない字を含む。字にない響きを含む」といった類です。「湊輝」と書いて「みなと」、「佳里」と書いて「かおり」といった名前は、「輝」を読まない、「お」に相当する字がないという理由で否認される可能性があります。それに「希望(のぞみ)」、「宏洋(ひろし)」もいずれかの字を読みません。おそらく今後こういった名前はつけられなくなるのではないでしょうか。

ここまで読んでくださった方の中には、読まない字を含む名前は伝統的なものにも存在するのではと気になった人もいるかもしれません。「大和(やまと)」を構造的に説明すれば「和」一文字を「やまと」と読み、「大」は読みません。また「和泉(いずみ)」の「和」の字も読まない単なるかざりです。この二例は地名ですが、古い職名に由来するものにも不読字を含むものがあります。「主税(ちから)」、「主計(かずえ)」はそれぞれ「税」を「ちから」、「計」を「かずえ」と読むのであり、「主」字は読みません。ただ、既にここまで浸透しているものは、ガラクタネームの定義③の例外と見なして良いでしょう。法的にどうなるかは、政府の考え方に委ねるしかありませんが。

ガラクタネームなどと呼ばれる不名誉な名前をあえてつけようとする親はそう多くないと期待します。できるならそんな変な名前をつけるのは避けたいと願うのであれば、まず、自分が避けようとしている「普通」と思っている名前は決してつまらないものではないと考えをアップデートしてください。そしてインターネットサイトや名づけ本のみを見て済ませず、国語辞典や漢和辞典を引いてください。それから考えた名前は第三者に見せて意見をもらってください。

率直な意見が言いにくいことを考えて、親しすぎない関係の赤の他人が良いかもしれません。それこそ【公】に耐えられるかどうかの指標になります。しかし相談をしても、考えた名前を否定されると、また【私】の内へ閉じこもってしまう人もいます。「自分の考えた名前にお墨付きをもらうための形式上の相談」ではなく、「子供のために忌憚のない意見を受け入れるための本来の意味での相談」をする覚悟が必要です。自分の一時の意地と、子供が一生背負うものは比較できるものでしょうか。辞書を引いて案を出し、他者の意見を伺うことが、真に良い命名への一番の近道になると私は考えています。

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