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【日記】 『思い、思われ、ふり、ふられ』の予告編を見て

ここ最近のメジャー映画やテレビドラマはそのほとんどがヒットした漫画の映画化であって、TSUTAYAの漫画コーナーに行くと「これも漫画が原作なのか」と驚くことが少なくない。『かぐや様は告らせたい』や『ヲタクに恋は難しい』、『アンサングシンデレラ』に『殺さない彼と死なない彼女』、さらには『アルキメデスの大戦』や『空母いぶき』までも漫画原作なのである。そしてご多分に漏れず、東宝の新作『思い、思われ、ふり、ふられ』も咲坂伊緒原作の女性向け漫画(TSUTAYAではそう分類されている)の実写映画化である。監督は『ソラニン』の三木孝浩。予告編を見る限り、最近流行りのぼやっとモヤがかかったような画面に4人の高校生の男女が絡む恋愛映画らしい。題材は今メジャー映画界で量産されている若者向けの青春モノに過ぎないが、浜辺美波や北村匠海といった「スター」を看板に一儲けしようという魂胆であろう。実際予告編に使われている映像を見ても、刻一刻と時間が進んでいく様子を生々しく撮ろうとしているようには思えないし、親同士の再婚で兄妹になってしまった男女の恋愛という主題も、2000年代前半の韓国ドラマにありそうなありきたりなものである。

しかし予告編を先に進めていくと、一つの印象的な場面にたどり着く。カメラを構えた赤楚衛二とその対象になっていると思われる浜辺美波との切り返しショットである。この二つのショットはどちらも俳優の正面にカメラが置かれ、カメラ目線のようになっている。

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レンズや照明の違いはあれど、シネフィルなら小津的だと指摘してもおかしくない。私はこの場面にいたく心を動かされてしまった。早くこの映画を、このシーンを見るためだけに見に行きたいと思ってしまったほどである。このシーンを見て、何やらこの映画ではものすごいことが起こるのだろうと予感してしまったのである。もちろんバックに流れるofficial髭男dismの「115万キロのフィルム」の過剰なまでの叙情性に心を動かされてしまったというのもある。しかし決してそれだけでは起こり得ないことが確実に起こっている。

ここで指摘した予告編内のワンシーンにおいて、切り返しショットによって並列される2人の男女は、その視覚的な対等性とは反対に、少しも対等な関係ではない。ショットにおける表情とその存在感において、明らかに浜辺が赤楚を凌駕しているのである。見つめ合う2人にあって「見る者」と「見られる者」は同義であるはずなのに、ここでは浜辺が「見る者」であり赤楚が「見られる者」なのだ。ちょうどオリヴェイラの『アブラハム渓谷』における、エマに見つめられたときのカルロスのように、赤楚は浜辺に見つめられ動揺を隠せずにいる。

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そこには「何か」が確実に動き始めたという感覚がある。そして赤楚を凌駕する浜辺の表情は、まるで世界を全て知りつくしこの世から去ろうとする直前のようだ。赤楚は手に持ったカメラを通して、「世界」の驚くべき一側面を見た。そして三木孝浩のカメラはそれを正面から漏らさずに撮る。一端の ーそれでもスターではあるがー 男女を捉えたに過ぎない二つのショットの連なりが、「夢」と「現実」とを同時に表象している。この場面を見るとそのようにしか考えられないのである。
もちろん、ここで挙げたシーンは予告編の、しかも数秒間の映像に過ぎず、実際本編でどのように使われているかは不明だ。ただ2人の人間を捉えた単なる正面からの切り返しが、何か決定的な「変容」(「シネマ 」とは「変容」の意)を記録しているということは、いうまでもない事実だ。


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